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第九話 男神の神器

 話はやや刻をさかのぼる――


 小出しにせず、一気呵成に機獣をけしかけ、操者である小娘の精神を一息に追いつめて仕留める――これがコマース王子の側近、女騎士リンゼの策であった。

 いかに太古の存在、人知を超えた神像の力と言えど、それを扱うのが十六の少女であるのならば。攻めるとすれば、その脆弱な精神。ましてや、人に鞭打たれることなど知ることもなく育ったであろう、公爵令嬢が相手だ。


 暴力と恐怖を以って一気に精神を、狩る――策は、図に当たった。

 サーペントを仕向けて女神像を絡め獲り、動きを封じたまでは、思惑通りに。


 ところが。


 動きを止めたのが女神だけではなかったという、予想外の事態が起きた。

 使役していた機獣たちの急な沈黙。頼みの戦力を突然喪失してしまい、魔鋼の獣を操る騎士たちは動揺に囚われてしまった。


 いかに百戦錬磨の王国騎士といえど、人知を超えた力を持つ機械の獣に攻められでもすればひとたまりもない。世界を制した機獣の力は、ユールレヒト人の味方として使役できてこそ――


「引けい! 馬を捨てよ! 走れ!」

 だが、リンゼの思考は早かった。

 切れの良さは、女が鍛え上げたしなやかな筋肉ばかりではない。

 機獣が元をただせば女神の眷属獣であるとの秘密を、コマースとヨルゲンより教え聞かされていたことも、功を奏した。

 もしや人の支配から逃れたか――と即断し、彫像と化した機獣たちを捨て、即座に撤退を選択したのだ。


 機獣馬の足も失ったリンゼたちは、鎧をすらかなぐり捨てて身を軽くし、魔導工廠を目指して駆けに駆けた。

 いつ目覚めるとも分からない機獣と女神をしり目に肝を冷やしながら、うの体で工廠区画に駆け込み、急ぎコマースに目通りをした。



「殿下っ! 申し訳ありません」

 膝をつきざま開口一番平謝りするリンゼを、コマースは咎めることなく労った。


「よい、異変は我らも承知している。よくぞ戻った。お前は急ぎ騎士と兵たちを再編し、後の対応に備えよ」

 聞くやいなや、リンゼは息つく暇もなくコマースの前から辞去した。

 走り去る女騎士の背を見送りながら、ヨルゲンがコマースに現状の所見を述べる。


「機獣の支配が、女神の手に戻ったと見るのが妥当だね」

 非常時でありながらも、淡々と語る声に驚きはない。むしろ面白がっていた。

「まさか、〈神の鉾〉までもか?」

 コマースは焦る。ヨルゲンは平然と否定した。

「この器官への干渉はあり得ない。これは元々、男神の所有物なのだから。さしもの女神の支配も、他人のには及ばんさ」

 奥方の尻に敷かれるでもない限りはね――と、神器のそばに立っていたパトリシアをちらりと見て冗談まで言う。


 魔導工廠の奥で初陣の刻を待つ太古の兵器〈神の鉾〉。

 注ぎ込まれた魔力を内部で圧縮し、さらに増幅を始めた証に低く唸り始めた長大な神器は、長さ十一メートル余り、身幅も二メートルは優にある。

 そのそばへ、コマースとヨルゲンは歩んでいく。

 神器の根元からは、人の手による後付けの魔力供給槽へと導管が幾筋も伸び、太い軟質性のパイプでは脈打つように、白緑の光りが明滅していた。

 一撃放つを今や遅しと待つ男神の器官を、コマースは見やり、意を固め――


「ここが、潮時」と王子が口にしたのと同時に。

「申し上げます! 女神像に再び、動き出す気配ありっ!」

 息せき切って王子の前に飛び出したのは、物見の伝令である。

 コマースの手が、鋭く天を指した。


「〈神の鉾〉を上げよ! 男神の力を以って、女神を討ち滅ぼすっ!」

 応える鬨の声はない。速やかに粛々と、事は進んだ。

 工廠の大屋根が割れ、左右に口を開けていく。

 頭上に現れた暗い空は、かすかに白み始めていた。

 滑車が引かれる。歯車が噛み合う。昇降機がきしむ音が重たく響く。


 コマース、ヨルゲン、そしてパトリシア。幾名かの従者を伴う彼らを共に載せて、〈神の鉾〉の発射台が工廠の外へとせり上がった。

 同時に、コマースたちが見守る前で、男神の神器は屹立を始める。

「まあ」とひと声こぼして、パトリシアが顔を赤らめたのは、なぜなのか。

 切っ先が向く先はしかし、標的である女神ではない。〈后の月〉を指していた。


「さて――本当に、女神を滅却する……で良いのだね?」

 アリアンヌごと消し去るのだな――そう念を押したのは、ヨルゲンである。

「構わん。〈后の月〉の補足に問題は無いのか」

 一分の迷いもない声で、コマースは先を問いただした。

「手抜かりはない。しかし急ぎ仕事だ。撃てるのは、一度だけ」

「分かっている。それに万全であっても、続けて次を撃てるもでもなかろう」


 やがて発射台が外へ露出し、新たな工廠の天井となったところで、コマースはパトリシアの手を取った。

「頼む」と一言、妻たる女に告げる。

「はい、あなた」

 応える南方人の王女は、コマースの瞳を見据え、もう一つの手を神器に添えた。

 女の手に触れられて、〈神の鉾〉が身震いするように脈動を始めた。


 そして、大地もまた。

 女神アリアンヌの巨体が、大地を踏みしめ、身を起こしたのである。

 鋭く圧倒的で巨大な気配が、コマースの身を襲った。


 思わず、男は見上げた。はるか頭上に光る、女神の瞳を。

 捨てた少女の顔を女神の面の奥に見た。コマースはもう、何も言わない。

 女神アリアンヌもまた決別を表すかのように、コマースと、そしてパトリシアの姿を見据えたまま、後退った。

 だが、そのままおとなしく引く気配ではない。それを証拠に――


「おまえたち、下がりなさい」

 朗々として、威厳を含んだ女の声が、コマースたちの耳に届いた。

 神の声である。

 機獣たちが、再び息を吹き返した。

 先刻まで女神を責め抜いていたものたちはもとより、工廠で調整中であった機獣たちまでもが、女神の下知に従った。

 人々の身が、強張る。

 襲いかかる気配を微塵も示さず、魔鋼の獣たちは工廠から静かに歩き去った。

 その姿を魔道工士たち皆恐れて、ただ遠巻きに見守ることしかできない。

 やがて訪れた静寂――それをを押し破ったのは、ヨルゲンの気迫。


「いかんっ! 女神め、何かやる気だ。障壁を上げろ!」

 手の者が鳴らす火急の警報が辺りに轟いた。

 防壁の緊急展開を知らせる爆発音が次々と鳴る。

 火薬がぜ、留め金の戒め解き放たれて、魔道工廠とその一体の地中から魔鋼製の金属障壁が次々に飛び出した。工廠を中心とした王宮の重要区画が、一息のうちに鉄壁の守りで囲まれる。

 その高さ、城壁よりもはるか上にそびえる二十メートルあまり――だが、それで女神の何を、防げるというのか。


 ふいに、風が巻いた。

 風に乗り、女神の声が小さく聞こえた。「散れ」と。

 障壁が外側に吸われまいと抗って、安普請の戸板のようにがたがたと震える。

 次に訪れたのは、不可思議な嵐。

 荒れ狂う暴風と、瓦礫が巻き上がり打ち合う音、大気に紛れる人々の悲鳴。

 障壁に遮られて城下の様子はまるで見えない。しかし、恐るべき大惨事が起きていることは、ありありと伝わってくる。であるのに――

 地響きこそ伝わるが、先ほどと打って変わり、障壁は微塵も揺れないのである。

〝志向性のある嵐〟とでも言うべき現象が起きている――らしい。

 激しい音だけが聞こえる中で、ヨルゲンが部下の一人に声を上げた。


「観測器の用意をしておけ。風がやみ次第、女神の様子を確かめろ」

 魔導士がかけてゆく。騒音にまぎれるかと思われたその足音は離れていくにもかかわらず、次第に明朗な音を響かせた。

 わずかひと時とかからず嵐は去り、再び静寂が訪れたのだ。


 大型の甲虫に似た観測器が空へ舞い上がった。

 魔鋼障壁の上まで飛翔した甲虫の眼が、ヨルゲンが手にする四角い受像装置の表面に写像を届ける。城下と、佇む女神の巨像が映し出された。


 何もかもが、消えている――

 堅牢を誇る石造りの街は、風に吹き飛ぶ紙細工であったのか。

 あるいは、玩具の積み木か。

 変わり果てた千年の都の夜景に息を詰めたのは、ヨルゲンだけではなかった。


 女神の立つ大地は、峨々たる岩の荒れ地。

 アリアンヌの巨体の左右、闇に溶けるその背後、すべてが崩れ去り、人の営みの名残だけがあたりを埋めつくしていた。

 命の気配など、そこにはない。

 そして――王宮周辺には、傷ひとつ見当たらないのである。

 女神の巨体は、微動だにしなかった。

 まるで再び、神秘の巨像に戻ったかのように。

 だが、違う。

 表層をおおう魔鋼装甲の継ぎ目から漏れ出す淡い翡翠ひすいの光が、神体が命の脈動を止めてはいないことを、静かに語っている。


 ――おいしいものはね、最後にとっておくの。

 お嬢様、お行儀が――

 アリアンヌとユースチフが交わす他愛もない会話。

 なにげない少女の日常に目を細めたこともあったか――と、コマースはふいに思い返して、苦く笑った。


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