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第十二話 創世の侯爵令嬢

 濛々もうもうと土煙を巻き上げながら、夜明けの光に追われるようにして、コマースたちは南の地へと騎馬を駆った。

 少しでも遠く、わずかでも早く。

 破壊の権化と化した女神アリアンヌのもとから逃れようと、馬を急き立てた。


 だがそれでも、ふいに伝わる新たな地鳴りには、皆足を止め、振り向かずにはいられなかったのだ。

 遠く離れてなお威容を誇る巨体の女神像は、ただ天を指さし立つのみであるのに。

 ユールレヒト魔道王国の王宮が、朽ちていく。

 王宮直下より生え伸びる巨大な何かに刺し貫かれ、砕け始めた。


壊生樹かいせいじゅ〉の存在そのものを、コマースたちは知らなかった。

 目測で直径は二十メートル、高さは百メートルほど――魔鋼製とおぼしき青銅色の樹皮をまとった巨木は、塔と呼ぶのに相応しい。


「あれも、女神のわざだというのか……?」

 知らず口にしたコマースの問いに、ヨルゲンも答えることはできない。

 創世神話の秘密を解き明かしたと自負するヨルゲンにも、皆目見当がつかない事象が起きているのだ。

 リンゼに託した王都の名残は、鋼の大樹の隆起によって跡形もなく、崩壊した。


「リンゼ……」

 王都へ残した子飼いの騎士の名を呟いて、コマースが再び馬を駆ろうとしたとき。

 神像が掲げる指先から、光の筋が天に伸びた。

 次第に太さを増す女神の発する光跡を見て、ヨルゲンは驚愕した。


「同じではないか、あの螺旋……〈神の鉾〉が発した、力の形と……」


 白熱を保つ女神の身体から、真っ直ぐに天を目指した白刃の螺旋が伸びてゆく。

 細く、長く、どこまでも高く――〈后の月〉へと。

 播種はしゅ船〈アーク〉に据えられた、創世エネルギーの伝送装置の一点へ。

 世界中で隆起し、覚醒したすべての〈壊生樹〉にエネルギーを分け与え、星を新たな創世の繭とするための命の源が、女神の身体から尽きることなく迸る。

 既に明け始めたユールレヒトの大地を、夜を昼と化した小さな月の光が、ふたたび照らし出していった。


「呆けてないで、行くぞ! ヨルゲンっ」

 コマースの一喝に、ヨルゲンは我に返った。

 そう、今はもう――逃げることしか出来ない。

 馬の腹をけり、ふたたびコマースの一団は南を目指して駆けだした。

 神罰の光を浴びるのは、今度は我々に違いない――

 皆一様に、同じ恐怖を抱えて走り出す。

 逃避行の手綱を握りながら、ヨルゲンの口が小さく動いた。


「天を焦がす神罰の光が、古き世界を焼きつくしたのです――か」

 アリアンヌの母が残した蔵書の一篇、隠された伝承の一節を引いて、ヨルゲン・ザースホルトは自嘲を込めて呟いた。


「伝承の意味するところを、どうやら私は取り違えていたようだ。学ぶことは、多いね……すまない、残念だよ、本当に……」

 魔道博士の謝罪の言葉は、果たしてコマースの背に届いたのか――

 ひた走る馬の鉄蹄の響きに紛れて、それは誰にも、分からなかった。


    §


 魔道王国の大宮殿を崩壊せしめた〈壊生樹〉の隆起は、ユールレヒトの地のみに起きたものではない。南のケイアヌス、東のシルターダ、西のガリアノラなど主要な大国を含め、大陸世界のあらゆる国と地域において、同時に発生した。


 星を見渡す眼を持つ者なら、それがある一定の間隔と法則を以って配置されたものと、知ることができただろう。

 コマースたちが生きた大陸世界とは別の、まだ互いに存在すら知らない星の裏側にある大陸においても同じく、〈壊生樹〉は大地に姿を現わしていた。

 そしてそれは海にも、人跡未踏の極地にも及んでいたのだ。


 〈壊生樹〉を点として、それを線で繋いでいけば、世界を包む繭のような網の目が描けると知れる。だが、そうと見渡せる眼を持つ人間は、地上にはいない。

 ただひとり、命の船たる〈后の月〉の表層から、母なる大地を見下ろす巨人の男以外に、創世の全容を俯瞰できる存在は、無かったのである。



[創世機関補助システム〈壊生樹〉の展開、全機完了しました。操者アリアンヌへの最終確認を要請――第七次世界創世を、開始しますか?]


 地上では冷たい機械音声が、世界に対する最後通告をアリアンヌに伝えていた。

 つい先ごろまで、王子との幸せな結婚を夢見る侯爵令嬢に過ぎなかった少女に、躊躇はなかった。

「始めましょう、世界の終わりを。創りましょう――優しい、世界を」


[女型創世機関操者アリアンヌによる最終承認を確認。テラフォーミングシステム、第七次稼働を開始。第六世代型人類の廃棄を完了後、環境の再構築を――]


 創世機関のシステム音声が、淡々とプロジェクトの実行を告げていく。

 アリアンヌはじっと声に聞き入り、天を見上げた。


 まばゆく輝く〈后の月〉から、六本の光の帯が地上へと放たれた。

 同時に、〈壊生樹〉の先端が五枚に割れ、花のように開いた。

 大樹に咲いた魔鋼の花は、月より放たれた命の光を受け止めると、さらに五条の帯となり、いずくかの〈壊生樹〉を目指して光の軌跡を描いていった。

 それを幾度も繰り返して、ついに星を包み込む網の繭が構築されるのだ。


 世界を覆った美しい光は天に網目を描き出し、何も知らない人々の目を魅了した。

 樹液に群がる甲虫のように。

 あるいは魔灯の輝きに集まる羽虫のように。

 人間たちはふらふらと引き寄せられて、女神の慈悲の光を身に浴びた。

 そうして暖かい命のかがやきを内に宿し、恍惚の中で痛みを覚えることもなく。


 ――皆、死んだ。


 残された肉体は女神の光によって分解され、粒子と化し、やがて〈壊生樹〉の元へと寄り集まり、魔鋼の樹皮に吸われて消えていった。

 すべての現生人類は、こうして次代の新たな生命の糧となるのだった。


[現生人類の廃棄を完了。これより、星の初期化を行います――]


 七度目の世界創世の、始まりであった。


    §


 どれほどの刻が流れたのか。

 あるいは、一瞬のできごとであったのかもしれない。

 何もない光だけとなった世界を、アリアンヌは茫漠たる思いで眺めていた。


 コマース殿下、ルスタリア侯爵家、侍女頭のシエラ、かしましい侍女の娘たち、ユールレヒト魔道王国の人々、城壁守備兵のオルロとジェムスン、夜会の貴族たち、厳しかった父、蛮人の女……みんな、みんな――文明世界そのものが、一瞬のうちに光と化して、失われた。


 そして、ユースチフ……


 思えば、侯爵家に仕えた近習の青年だけが最後まで、アリアンヌの身を案じてくれたのだ。だと、いうのに。


 アリアンヌは、思い返した。

 幼少の頃にコマース王子から贈られた、創世神話の絵物語の一節を。

 今まさに、神話に語られたものと同じ光景が、眼前に広がっているのである。

 光だけが溢れ、荒涼たる大地が広がるばかりの、ただひたすらに空虚な世界。


 創世の神話にはなんとあったか……悲しみに応えて虚空の彼方より現れたのは――


「男神さま……私の、たったひとりの男神――コマース? いや、違う」

 気がつけば〈后の月〉を目掛けて、アリアンヌは声を限りに名を叫んでいた。


「ユースチフ……ユースチフ! 私はここです……ここに、来て……っ」


 叫びながらアリアンヌは、自身の言葉に驚いた。

 なぜ、ユースチフの名を呼んだのか。

 なぜ、ユースチフが世界に在ると――彼が、真なる男神であると知ったのか。


 ――アリアンヌ……今、行くよ、アリアンヌ。


 少女の脳裏に、兄とも慕った男の声が木霊した。

 アリアンヌの呼び声に答える声音はたしかに、ユースチフのものであった。


 銀に輝く巨人の影が、〈后の月〉の光の陰より現れた。

 逞しい男神の巨体は両手を広げて、女神を目指し天より真っ直ぐに降りてくる。

 女神アリアンヌも、男神の身体を抱きとめようと両手を広げ、天を仰いだ。


 女神の神体に操者が、アリアンヌが宿ったように。

 男神にもまた操者が宿る。

 だが今生の操者がユースチフであるとまでは、女神の記憶も教えてはくれない。


 少女に真の男の名を叫ばせたのは、アリアンヌの魂だった。

 遺伝子コードに刻まれ、悠久の記憶が言霊となった、真なる愛の発露。


 女神の巫女の血筋たるアリアンヌとはすなわち――遠く、創世神像の操者の血と魂を受け継ぐ、今生の現人神。

 そして、ユースチフもまた。

 刻の流れにうずもれた男神の血筋を引く、今生の男神の操者その人であった。


 女神を祀る大聖堂で消えたと思われたユースチフは、〈后の月〉に隠された男神像の中に宿っていたのだ。アリアンヌが女神像に取り込まれたのと同時に転送され、男神の操者として覚醒していたのである。


 天より舞い降りた銀色の巨人、男神ユースチフが女神アリアンヌに触れた。

 ふたりの指先が、女神と男神の指と指が、宙で絡み合った。

 女神は男神をその豊かな胸の内に引き寄せて、男神もまた厚い胸板のうちに女神の身体を掻き抱く。


「待たせてごめん……アリアンヌ」

「いいの、もう、いいの」

「ずっと、ずっとこうしたいと想っていた」

 君に出会ったあの日からずっと――青年の思いは、少年のときより変わらぬまま。

 銀色の腕が、翡翠の肩を抱き寄せる。

 男神として、ユースチフとして、アリアンヌを愛する男は囁いた。


「君の心は僕が満たしてあげる」

 そう告げて、男神像のユースチフは女神像の手を取った。


「それと――」


 傍らに落ちていた〈神の鉾〉を、ユースチフは拾い上げた。

 女神像と同じく、男神像の顔にも表情は浮かばない。

 けれどきっと、神像に宿る青年の顔は、はにかんでいたことだろう。


 見れば、男神像の股座には、本来あるべきモノがなかった。

 そう……〈神の鉾〉とは男神の器官。男神自身のシンボル、男の槍そのものだったのである。


「これでやっと、元通り。六番目の世界が創られて間もなく、人の手によって切り取られたらしいね――」

 蛮人ケイアヌスのご先祖がやりそうなことだね――と冗談めかしながら、ユースチフは長槍を、在るべき場所に当てがった。そのままじっと、動かなくなる。


[女神との接合器官の修復を完了。世界創世プロセスへの移行が可能です――]

 しばらくして、男神機関の声がユースチフの備えが万全となったことを知らせた。


 ことの成り行きを、少女はどう眺めたものか……。

 ユースチフが手にしたモノを見て、アリアンヌは神像の内で顔を赤らめていた。


 ――女神さまのお顔も、赤くなるのかな……。


 少女らしい疑問がよぎる。

 興味が無い……わけではない。

 ゆくゆくは、王家の世継ぎを産まねばならぬ身であったのだ。

 教育は受けていた。実物は知らない。図版による知識である。

 そうしたものを男が備えていると知らぬ娘ではなかったが――魔鋼の巨神のものとはいえ、やはり実物を見るのは違うらしい――


「さあ、始めようか、アリアンヌ」

「……え?」

 始める――始める、とは……?

「大丈夫、僕に任せて。僕に君の身体を、すべてを預けて」

 ユースチフの指先が、アリアンヌの細い顎に触れた。

 すっと男神の顔が、女神の口元に寄せられて――重なった。


「ふたりで、やさしい世界を創ろう、アリアンヌ」

「うん……やさしく、してね……ユースチフ」


 始まりに在るのは悲しみでも、光でもない。

 愛――である。


 いつ果てるとも分からない、巨大な女神と男神の交わりから迸る愛の力は、荒廃した大地に緑と命を取り戻していった。


 いずくかへ消え去ったと思われた神獣たちは、大地から、空の彼方から現れた。

 神の眷属としての力を取り戻して、彼らは己の役割を果たそうと、大地を、空を、海を駆け巡り、世界を命で満たす助けとなった。


 こうして、六番目の世界は幕を閉じ、新たな七幕目の世界が幕開けを迎えて――


    §


 ――始まりは、光でした。

 世界に満ちた悪しき人々を見て、女神さまはお嘆きになられたのです。

 女神さまは悲しみの心を以って、世界を浄化の光で満たしました。

 そうして古い世界から、荒ぶる戦人いくさびとの民を消し去ったのです。

 何も無くなった世界で独り佇む女神さまの前に、男神さまが現れました。

 ずっと離れ離れになっていた、愛しい愛しい男神さまと共に。

 女神さまは、とてもやさしい新たな世界を、お創りになられました――



 この星に生きる者なら誰もが知る創世の神話を、夫婦神めおとがみを祀る小高い丘の上で、少女は口ずさんでいた。

 明日は十六歳の誕生日。そして――愛しい男、ユースとの婚姻の日。

 しかし――少女の心は、かげるのだ。

 その憂いを晴らそうと、寄り添い眠る夫婦神、巨大な女神と男神の神像の前で、祈りを捧げていた。


「アリア、どうしたの」

 栗色の髪の少年の声が、やさしく少女の背に触れた。

「ユース……ううん、なんでもないの」

 首を横に振りながら、少女は振り返る。

 絹糸の如き白金の美髪が、ふわりと揺れた。


「当てようか。マルス兄様の、ことだろう?」

「……追放されて、今、どうしてるのかな」

 力ずくでアリアを奪おうとした、荒ぶる男がいた。

 その咎で一族を追放された首長の長子、マルス。


「分からない。でも、きっと諦めていないのだろうね、君のこと」

 怖いよ――と呟いて、アリアはユースの胸に身を預けた。

 震える少女の肩を、青年がそっと抱きしめる。


「大丈夫、きっと僕が君のことを守ってみせる。きっと……命を奪ってでも」

 はっとして、アリアは夫となる男の顔を見上げた。

 恐怖の翳が差す娘の頬に、ユースは柔らに手を添える。

 揺れるヘーゼルの瞳を、少女の淡青の瞳が覗き込んだ。


「そんな怖いこと、言わないで……お願い。女神さまも、望まないから」

「ごめん……でも――」


 ユースは、憂う。

 赤銅色の髪、燃え盛る火のような影を持った男のことを。

 古代人の生き残り――葬られた異端の伝承に語られる、戦人の末裔を。

 その血を引くと伝えられた、今は亡き第一夫人の異母。

 猛々しい血を受け継ぐ異母兄の行く末を心の底で、ユースは――憂うのだった。


〈魔鋼令嬢アリアンヌ 完〉


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