どれほど獣道を彷徨っただろうか。霧はますます濃くなり、数メートル先も見えへん。体力も限界やった時、不意に家屋の影が見えてきた。
「やっと……村?」
近づくと、
「これは……明らかに人口減少による限界集落の典型例やな」
考古学やってると、こういう村の末路をよう見る。若者が都市部に流出して、伝統文化の継承が途絶えて……。
ただ一つ、例外があった。
村の中央、小高い場所に建つ一際大きな黒い屋敷。そこだけが周囲の荒廃を嘲笑うように、神経質なまでに手入れされてた。古風な表札には「
「……どちらさんかね?」
背後から枯れ葉のような声。振り返ると腰の曲がった老婆が立ってた。深い皺と濁った鋭い瞳が深冬を値踏みしてる。
「すんません、高杉教授をご存じないでしょうか?六十代の考古学者の方なんですが」
「……高杉……とな?」老婆は記憶を手繰るように首を傾げ、やがてにたりと不気味な笑みを浮かべた。「ああ、あの物好きな学者さんかえ。また新しい"器"が、わざわざ自分からやって来たのかねえ……」
「器って……?」
胸の奥がひゅっと冷たくなる。まるで冬の朝、息を吸い込んだ時みたいに。
「教授はご無事なんですか?」
「さあて……どうじゃろうのう……」
その時、祠堂家の門が音もなく開いた。現れたのは白い神主服の、息をのむほど美しい青年。腰まで届く艶やかな黒髪、透き通る白い肌。
けど、その整いすぎた顔立ちには何か人間らしさが欠けてて、切れ長の瞳は古井戸の底のような暗い光を宿してた。翡翠色のその瞳に見つめられると、美しいはずなのに、まるで魂の奥底まで見透かされるようで、深冬は思わず息を飲んだ。胸の奥が奇妙にざわつき、警戒心とは違う種類の緊張が走った。
「この
古風な敬語。抑揚のない、鈴を転がすような美しい声やったけど、そこに温かみは感じられへん。
「七瀬深冬と申します。高杉教授の教え子で……」
「高杉教授、ですか」青年はゆっくりと深冬に顔を向けた。「帰れ」
「え……?」
「今すぐ、この村から帰れ。聞こえなかったか?」
「ちょっと待ってください、私はまだ何も……!」
「何も聞きたくない。外部の人間は皆、同じだから」
「同じって……失礼な言い方ですね!私は興味本位で来たわけじゃ……!」
「では、何をしに?どうせ金になる胡散臭い話でも持ちかけにきたのでしょう」
「はあ?人を詐欺師みたいに……!」
関西弁が出そうになるのを必死に抑える。学会では標準語で通してるから、つい癖で。
「違うのですか?」
「当たり前でしょう!私は考古学者です。大学で……まだ助手ですが、とにかく!」
「……考古学者、ですか」
初めてその冷たい瞳に、僅かな興味の光が宿った。でも、それがかえって不気味で。
「そうです。恩師の高杉教授がこちらの村で調査をすると言って、連絡が取れなくなって……」
「死にましたよ」
「……え?」
口の中が急に金属の味になった。小学生の時、転んで前歯を打って血を飲み込んだ味。なんで今それを思い出すんやろ。
「高杉という男なら、三日前に死にました。……何か、ご不満でも?」
淡々と、無慈悲に告げられた言葉。青年の足元には美しい黒猫が座ってる。片方の目が翡翠のように緑色に輝いていた。あの車にぶつかってきた影に似てる。
青年は
古民家には教授の研究資料が整然と残っていた。村の地質構造や古代祭祀に関する詳細なメモ。
「これは……」
深冬は驚いた。教授のメモには縄文土器の文様が詳細にスケッチされてるんやけど、見たことのない文様や。
「この渦巻き文様……縄文中期の典型的な火焔型土器とは明らかに違う。もっと古い、もしかして草創期?でも、こんな複雑な文様が……」
しかし重要なページが何か鋭利な刃物で切り取られてた。
「教授は一体何を調べてはったん……?」
深冬は腹の底から這い上がる不安と、この死んだような村の奥に潜む得体の知れない秘密への予感を背筋に感じた。夜の闇が古民家を静かに包み込んでいく。