――はしる、走る。走る。
電車から降りたネオは、兎に角目的地に向かって走っていた。慣れたはずのローヒールが、今日は憎たらしいくらいに邪魔してくる。バターブロンドの髪を風に靡かせながら、ネオは人混みの間を走っていく。
(は、早くいかなきゃっ、! 遅刻しちゃう~!)
定時前に仕事を押し付けてきた上司のせいで、約束よりも大幅に時間を過ぎた電車に乗り込んだのは、ほんの数分前の事。今日は用事があるからと言っていたのに、どうして上司は私に声をかけたのか。呪詛くらいは口にしたい気持ちをぐっと抑え、目的地へと向かっていく。駅の改札を抜け、階段を転ばないようにしながら下っていく。振り返る人々を余所に、ネオは内心に込み上げる恥ずかしさを全力で嚙み砕いた。……今度コーヒーを持っていく時は、上司のものに砂糖を三本くらい入れてあげよう。
(こんなことなら……っ、アイルちゃんの連絡先くらい聞いておけばよかった……!)
そんな、今更どうしようもない事を叫びながらも、ネオは店の密集地を通りを走っていく。時折人にぶつかりそうになるのを寸前で避けつつ、アニソンバーHEROがある場所まで向かう。自身のトートバッグを抱え直し、人と車の間をすり抜ける。抜けた瞬間、人とぶつかって転びそうになったのもすべてあの上司のせいだ。やっぱりミルクも追加して、ぐずぐずのどろどろのコーヒーを出してあげよう。
そう決意しながらネオはラストスパートを切った。曲がり角で足を挫きそうになりながらも、見えてきたお馴染みの赤い旗の数々にホッと息を吐きながら、後ろ髪を引かれる思いでアニソンバーHEROの前を通り過ぎる。向かうのはその先。ネオから見れば後方にある神社――横田不動尊。結構急な坂を震える足で登って、見えてくる光景。設けられた駐車場に見えたのは、凛とした姿で立っているアイルの背中だった。
「はぁっ、はぁっ……!」
「やっと来たわね」
「ご、ごめんなさいっ、遅れちゃって!」
ザザと小石を蹴飛ばしながら、雪崩れるように彼女の前に姿を現したネオ。膝に手を付いて、乱れた息を整えていく。さっと振り向いたアイルがこちらを見下ろしているのが、なんとなくわかる。顔を上げれば、上がった息が喉に詰まった。
「げほげほっ、!」
「ちょ、ちょっと、大丈夫?」
「はぁっ、はぁっ、だ、大丈夫です……っ」
心配そうに声を上げるアイルに頷きつつ、へへ、と弱弱しくも笑みを零せば、呆れたようにため息を付かれた。――嗚呼、なんて情けない。あまりの情けなさに涙が出そうだ。そうは思っても、こみ上げる咳は収まりそうにない。
「まったく。ほら」
不意にぴとりと頬に当てられた、冷たいそれ。驚いて顔を上げれば、アイルがペットボトルを持って差し出してくれていた。つい受け取れば、それはビタミンの入ったスポーツドリンク。この近くに自動販売機はないから、恐らく彼女が元々持っていたものだろう。……なんか、申し訳ないなあ。
「あ、ありがとう」
「いいから早く飲みなさいって」
「う、うん」
アイルの声に有難くキャップを捻れば、パキリと爽快な音が響く。こくりと中身を飲み込めば、体の中に浸透していくのを感じた。
(ああ……お水がおいしい……)
ゆっくりと呼吸を返せば、いつの間にか咳も止まり、荒かった呼吸も徐々に落ち着てくる。少しだけ酸欠だった視界が僅かにはっきりしてきた。ペットポトルを締め、ゆっくりと立ち上がる。自分の鞄から今日のためにと持ってきたスニーカーを取り出してヒールと履き替えれば、準備は万端だ。
「お待たせしました……! ご指導、よろしくお願いします!」
「思ったよりやる気があって良かったわ」
「アイルちゃんのお役に立てるなら、頑張ろうかなって」
「……そう」
す、と外された視線が恥ずかしそうに目を伏せる。目元が少し赤くなっているのを見ると、どうやら照れているらしい。……なんか変なこと言ったかな。
「それじゃあ、始めるわよ」
「あ、はいっ!」
アイルの言葉に、出来るだけ大きく返事を返す。これから来る修行を予期するように吹いた風が、ネオの髪が攫っていった。
「さて。まずは力を体内に溜める事を覚えないといけないわね」
「た、体内に?」
「そうよ」
アイルの言葉に、ネオは不思議そうに首を傾げた。
(体の中に、力を溜めるって言っても……)
そもそも、形のないものをどうやって溜めればいいのか。肺に空気を溜めるよりも難しそうなその感覚に、何とも言えない不安が過る。そんなネオの反応に気づいたのか、アイルが私の後ろへと回った。ネオは肩を僅かに引かれ、胸を張るように姿勢を正される。
「まずは真っ直ぐに立って、少し足開いて……そう。そのまま体の中心に血液を集めるイメージで、お腹の底に溜めてみなさい」
「ええっ、と……」
アイルの言う通り、きゅっと胸を張り、姿勢を正す。それからお腹の中心を意識した。体の中を回っている血液を――。
(で、出来てるのかすらもわからないんだけど……っ!)
イメージは完璧なはず。……けれど、全然手応えの感じられない感覚に、ネオは内心で焦燥感に駆られていた。恐らく初歩も初歩であろう事がわからないなんて、早速呆れられてしまうかもしれない。恐る恐る顔を上げれば、アイルの何とも言えない視線と目が合う。
「こ、こう……?」
「力が弱い!」
「ひゃあっ!?」
唐突にぐっとお腹を摘まれ、つい変な声が出た。慌てて口を塞ぐが、時すでに遅し。にんまりと笑みを浮かべるアイルと、目が合った。痛みが走ったかと思えば、直ぐにぎゅっとお腹を押し込まれる。問答無用だと言わんばかりのそれに、慌てて身を捩った。
(は、恥ずかしい……!)
「は、離してください~っ!」
「何言ってんのよ。いいから力入れなさいって。この辺よこの辺」
「わわわ、! わかっ、わかったからぁっ!」
ぐにぐにとお腹を押され、擽ったさに身を捩る。ふひ、と飛び出しそうになる笑みを必死に堪えて、アイルの手を離させようと身悶えた。しかし、全て巧妙に全て避けられてしまう。何故!?
あまりの擽ったさにカクリと膝が落ちる。するりと抜けていく彼女の手に、ネオは深く息を繰り返した。
「ほら、蹲ってないで。わかった?」
「うぅ……っ」
無情にも掛けられた言葉にこくりと頷けば、アイルは満足そうに笑う。その笑みは、今までの中でも一番と言っていいくらい、好戦的で。挑戦的で。
(これ……絶対に楽しんでる)
ひくりと引き攣る頬。しかし、ここでやめる訳にもいかない。消えていく鈍い痛みを感じつつも、荒くなる息を整えるように大きく吐き出し、ネオはゆっくりと立ち上がった。修行なのだから、凄いスパルタで行われるものなんだと思っていたけれど……これは思っていたのと違う意味で、鬼畜じゃないだろうか。
「ハイ、立って。もう一回」
「は、はいっ!」
アイルの檄に浮かぶ思考を吹き飛ばして、膝を伸ばして真っすぐ立つ。初手から思いもよらない奇襲に気持ちが挫かれかけたが、今はそんなことを言っている場合じゃない。深呼吸を繰り返し、外に向いている意識をゆっくりと自分の内側に溜め込んだ。
(足を開いて真っすぐ立って、お腹の中心に力を……)
先ほど受けた説明に、ゆったりと目を閉じる。自分の体の中へと意識を向ければ、じんわりと暖かい何かが渦巻いているのに気が付いた。それを一つの線にするように纏めていく。どんどん肥大化していく気をお腹の中に溜めていけば、体の中に小さな泉が出来たような気分になってくる。
瞬間――不意に頭を過る、ペンダントの存在。頭の中で展開する記憶で、先端を彩る深い赤色を持つヴァイオレットが鎖から外れて、くるりと遊ぶように自分の周りを一周した。思考に疑問が浮ぶ寸前、遮る様にパキンッと高い音が聞こえ、目の前のヴァイオレットが弾けた。消えてしまったのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。きらきらと光る割れた破片が、足元から渦を巻いて体を包み込んでいく。――無意識の下で口を付いた言葉は、彼女の世界を一瞬で塗り替えた。
「――〝ヴァルキリー、発動〟。」
全ての雑音、景色、感触もが自分と切り離される。しかし、不思議と怖いと感じなかったのは、目の前で輝くヴァイオレットに目が奪われていたからだろうか。
赤い欠片が腰を撫ぜて上半身を回り、髪を靡かせると同時に欠片が指先を掠めた。きらきらと光るそれが美しくて、思わず目で追いかけてしまう。膝下にふんわりとしたものを感じると共に、まっすぐ向かってくる欠片に咄嗟に目を閉じれば、瞼の上で優しく弾けた。僅かに広がる甘い温度に、はっと息を吐く。魅入られたように欠片は唇を優しく撫でた。最後に欠片は手の中に集まると、再び一つの宝石に戻っていく。しかしその姿は一瞬で綺麗に二つに割れ、一つは形を変えて手元に残り、もう一つはネオの首の周りを嬉し気に回ると、目の前でパッと音もなく弾けた。
刹那――戻ってくる音と景色……そして、肌を撫でる風。その感覚に、ネオはふと自分が現実に戻ってきた事を感じ取った。
(今のは……夢?)
それにしてはどこか不思議で、リアルだったような……。夢というにはハッキリしすぎている記憶に戸惑っていれば、不意に後ろに気配を感じた。振り向けば、こちらを見て満足そうに笑っていたアイルと目が合う。その視線がどこか穏やかで。
「何よ、やればできるじゃない」
「えっ?」
「自分の恰好。見てみなさいよ」
ほら、と指を指され、それを追いかけるように目線をずらす。そこに映った自分の格好に、思わず目を見開いた。数日前に見たばかりの、まるで魔法使いのような格好だ。
(す、すごい……!)
アニメに出てきそうだ。主に日曜日の朝!
「それがちゃんとしたヴァルキリーの使い方よ」
「い、今のが?」
彼女の言葉にネオは驚いて、再び自分の姿を見る。あの時と同じ格好だが……確かに、言われてみればあの時よりも体にフィットしているような気がする。……たぶん。
(もしかしてさっきの夢も、ヴァルキリーの影響なのかな)
そう考えると、悪くないような気もしてくる。
「ええ。あの時は急造だったから、未完成もいい所だったのよ。もしあのまま攻撃受けたりなんかしたら、最悪死んでたわね」
「え゛っ」
「それはもう、べしゃっと」
(嘘でしょ!?)
返そうとしていた声が、喉で突っかかる。聞き違いかとも思ったが、アイルの顔を見るにどうやら本当らしい。涼しい顔をしながら追撃してきた彼女に、ついその〝もしも〟の時を想像をしてしまい、ぞわっと背中が粟立った。
「し、知ってて戦わせたの!?」
「無事だったんだからよかったじゃない。それに、アタシがあんな雑魚に背後を取られるとでも思っているの?」
「……不意を突かれてたくせに」
「あら。何か言った?」
「な、何でもないです」
すっと向けられた鋭い視線に、慌てて視線を外す。何となく目線を合わせてはいけないと思っただけなのだが……触らぬ神に祟りなしだ。視線がじっとこちらを突き刺してくるが、ネオは目を合わせることはせず、宙を見つめる。
しばらくして視線が外れるのを感じ、ネオはほっと胸を撫で下ろす。
(こ、怖かった……)
危うく、藪をつついて蛇を出してしまうところだった。安堵に包まれる身体を感じながら、一つ大きく息を吐く。……ふと、いつもよりどこか体が軽い感覚がしたのは、気の所為だろうか。若干浮遊しているような足元に違和感を覚えながら、ネオは改めて自分の格好を見つめる。フリルの付いた紫のワンピースが、動くたびにふわりと触れた。
(……やっぱりかわいいなぁ)
幼少の頃に散々憧れた魔女の服装に、思わずテンションが高揚してしまう。体を捻って裾を揺らしてみたり、踵で地面を何度も軽く叩いてみたり。そうして自身の服装を堪能したネオは、自身の手に持つステッキをまじまじと見つめた。金色の等身は彼女の胴と同じくらいの長さだ。光に翳せば、ステッキのてっぺんにある紫色の宝石がきらりと一際強く光る。まるで気づいてと言わんばかりのそれに、何となく見覚えを感じて瞬きを繰り返していれば、「あ。」と声が出る。胸元に伸ばした手が、ペンダントトップに触れた。
(そうだ。これ、ペンダントと同じものだ……)
さっきの変身の時もそうだったけど、これってもしかして元々特別なものなのだろうか。
「ねえ、アイルちゃん。この前もこのペンダントに触ったら、なった……よね? これって何か特別な物だったの?」
こてん、と首を傾げてネオは問う。その問いかけに、少し考えたアイルはゆっくりとペンダントを指した。
「……特別かどうかは知らないけれど、一番アンタに馴染んでいるのよ。だから、力が溜まりやすいの。……それ、大切なものなんでしょう?」
「う、うん」
「なら、せいぜい壊さないようにすることね」
そう言ったアイルにネオは一度大きく目を見開くと、徐に目を伏せた。指先でペンダントトップを、ころりと弄ぶ。込み上げてくるのは、懐かしさを含んだ小さな歓喜だった。随分前にその言葉を発することは無くなったけれど、やはり口にすれば温かい感情が流れ込んでくる。薄れた記憶が、少しだけ切ない。
(お母さん……今でも私のこと、守ってくれてるんだね)
――まさかこんなことになるとは、思っていなかったけれど。それでも、お母さんの存在を認められたようで、嬉しくなってしまう。つい思わず笑みが浮かぶ。
「ふふっ」
「何笑ってるのよ、気持ち悪い」
「き、きも、ッ!??」
(そ、そんなぁっ……!)
グサッと突き刺さった鋭いアイルの言葉に、大袈裟に声を上げて蹲る。胸の痛みを表すように胸元を抑えれば、可哀そうなものでも見るかのような目が向けられた。……ひどい。
がっくりと肩を落として地面にのの字を書き始めれば、直ぐにバシンと背中を叩かれた。突然の衝撃に体を跳ね上げれば、目の前に手が差し出された。綺麗な手とアイルの顔を交互に見て、ネオが恐る恐る手を重ねれば勢いよく引っ張り上げられる。
「わわっ、!」
「ちなみにそれ、気を抜くと解けちゃうわよ」
「え、えっ?!」
彼女の指摘に慌てて自分の足元を見れば、つま先から元々履いていたスニーカーの頭が見え始めていた。まるで、有料アバターが取れかかっている装備のようで、ひゅっと血の気が引いていく。
(そんなことある!?)
あまりの格好悪さに慌てて気を張り詰めれば、変身はスニーカーの頭を飲み込むように徐々に戻っていく。その様子はどこか見れば面白いけれど、純粋に楽しめない。……これは慣れるまで大変そうだ。
「それじゃあ、そのまま三十分キープね。少しでも解けたらまたイチからよ」
「イチからっ?!」
「当り前じゃない。それとも戦いの度に、スーツがボロボロになってもいいの?」
「そ、それは困るけど。っていうか、気にするところそこなの?」
「何言ってるのよ。一番大切でしょ」
「まあ、確かにそうだけど……」
アイルの言葉に、何とも言えない気持ちが這い上がってくる。……何か腑に落ちないけれど、彼女の言い分は確かだ。少し口篭っていれば、アイルは自身の髪へと手を伸ばす。綺麗な指先が摘まんだのは――大人っぽい彼女にしては少々子供っぽくも映る、髪飾りだった。しゅるりと極わずかな音を立てて髪飾りを解いた瞬間、辺りは一面光に包まれた。突然のことに、咄嗟に目を閉じた。
(ま、眩しい……っ!)
「〝ヴァルキリー、発動〟」