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第11話

「こんばんは~……」

「いらっしゃいませ~。あれっ、ネオさんじゃないですか~!」

「千種ちゃん。今日もお疲れ様ぁ~……」


 満面の笑みで出迎えてくれる千種に、へらりと笑みを浮かべる。それだけで会社からここまで、ぐったりと重い体を引き摺って来た甲斐があった。既に賑わっている店内に微笑ましい気持ちを感じながら、ネオはカウンターの椅子に座る。既に定席ともなっているそこは、謎の安心感があった。千種は慣れたようにおしぼりとコースターを運ぶと、ネオの顔色を見てぎょっとした。


「ね、ネオさん……ですよね? だ、大丈夫ですか?」

「んー……?」

「顔色、凄いですよ」


 千種の言葉に、ネオはそう驚くこともなく「……やっぱり?」と小さく呟いた。その反応を見れば、ネオが自分の顔色をわかっていて尚、放置したであろう事は明々白々だった。千種は注文を聞くことなく問答無用で烏龍茶を出すと、お酒の書かれたメニューをさり気なく下げた。千種なりの気遣いである。ネオはそれに気づかないまま、烏龍茶を一口飲むと早々に机に突っ伏した。夏バテと昼間の戦闘、そして人生最悪レベルでの部長から大目玉に、ネオは自身の限界を優に超えていた。


 大目玉の原因はもちろん、――昼休み明けの大遅刻だ。

 あの後、電話に出ると同時に走り出したネオは、はたと自分の居場所がわからないことに気がついた。慌ててマップを開き、案内された道にかかる時間を見た瞬間、ネオは意識を飛ばしかけた。……確かに、あんなに殴打殴打の繰り返しで吹っ飛んでいた自分の体が、初期地点とそう遠くないところに着地するわけがない。空高くに上がったのが、こんな所で仇になったらしい。

 一時間を超える時間表記にネオは必死に最寄り駅を探し、路線を確認し、電車を乗り継いで会社へと戻った。財布と携帯を持っていたのが、唯一の救いだった。……とはいえ、総じて二時間の遅刻だ。もちろんこちらの事情など知らない部長は、とてつもないお怒りモードで。まあ……当然といえば当然だろう。罰としてかなりの量の仕事を回され、終わった頃には定時を大幅に過ぎていたのだ。意識も飛かける中で無意識にここまで来てしまった時には、思わず苦笑いしたが。


 ネオにとってオアシスともいえる、言わば〝ライフポイント回復地点〟だ。お陰で店に入った瞬間、どっと降り注ぐ疲労感に項垂れる。冷たい机に頬を置き、その日の記憶を整理するかのようにあれこれを思い出していれば、ふと昼間の事が頭を過った。……済んだことではあるものの、敵襲を受けたことはアイルには報告しておいた方がいいかもしれない。

 ネオはだるい身体を持ち上げ、隣で心配そうな顔をする千種に問いかけた。


「ねぇ、今日アイルちゃん来てる?」

「えっ、アイルさんですか? 今日はまだいらっしゃってないですけど……」

「そっかぁ……」


 千種の言葉に、ネオは明らかに落胆した様子で肩を落とした。

(アイルちゃん、今日は来ないのかなぁ……)

 アイルは早い時間での来店の方が比較的多い。今はもう時間は二十一時を過ぎており、いつも会う時間は既に過ぎている。……そう考えると、やっぱり少し難しいかもしれない。重くなる体を椅子に預け、ううーんと唸る。


「何か用事でもあったんですか?」

「うん、ちょっとね」


 千種の声に笑みを浮かべ、烏龍茶を口にする。冷たい感覚が、ぼんやりとした頭を少しだけ晴らしてくれた。はぁ、と再び一つため息を吐けば、お腹がきゅるりと音を立てた。……どうやら安心した事で、お腹が空いてしまったらしい。

(そういえば、お昼ご飯も無駄になっちゃったんだっけ……)

 無惨にも転がってしまった上、食べることが叶わなかったお弁当を思い出し、ネオは少しだけ悲しくなった。夏バテとはいえ、やはり食べなければ体が動かなくなってしまう。体調が最良でないからこそ、『少しでもいいから何か食べなければ』という使命感のようなものがネオの中に込み上げてきた。


「千種ちゃん、今日は何か作れそう?」

「えーっと……ちょっと確認して来ますね~」


 ネオの問いかけに、直ぐに厨房へ向かった千種。その後ろ姿を見送ってぼんやりとしながら待っていれば、千種は数秒して帰ってきた。少し申し訳なさそうな顔をしている彼女に、ネオは首を傾げる。どうしたのだろう。もしかして材料が全部なくなっちゃった、とか? 流石に確かにそれは――困る。


「ごめんなさい、今焼きそばくらいしか出来なさそうで……それでも大丈夫ですか?」

「あっ、うん! 大丈夫だよ。お願いします~」

「わかりました!」


 千種の問いかけにネオは慌ててにこやかに答えると、自分の予測が外れていたことに安堵し、心臓の音を落ち着かせるように胸を撫で下ろした。

(良かった……。物が無いわけじゃなかったんだ)

 もし材料が無くて作られなかったとして、今のネオに他の食事処に行ってまで食べる気力はなかった。……よかった。焼きそばは少し夏バテしたお腹には重たいかもしれないが、空腹を満たせることへの嬉しさには抗えない。いつもよりもよく噛んで食べよう、と思いながら流れ出すカラオケの曲を耳に、ネオは店内を見回した。

 いつもと変わらない風景。いつもと変わらない店内に、思わず笑みが零れてしまう。平和って、平坦だけどやっぱり一番いい。ぐるりと一周見回して、ふと見覚えのある背格好が目についた。

(……あれ)

 黒いパーカーに見覚えのあるチェックのスカートを身にまとった、若い女性。被ったフードから僅かに流れて見える桃色の髪に、瞬きを繰り返す。……もしかして。


「お待たせしましたー。オリジナル焼きそば、『てっぺーちゃん』ですっ」


 ドンッと自分の場所に置かれた料理に、意識が強引に引き戻される。はっとして飛ばした視線を声の主の方へと向ければ、白い大きなお皿には野菜たっぷりの焼きそばが乗っていた。ふわりと香る、ソースの匂い。野菜と麵の上に乗った鰹節が、青のりと一緒にゆらりと湯気に揺られて踊っている。隅に乗せられた紅ショウガが、彩りを豊かにしている。しかし、ネオは千種の言葉の方が気になって仕方ない。


「〝てっぺー、ちゃん〟?」

「はいっ。当店のオリジナルの焼きそばで、『てっぺーちゃん』っていうんですよ。マスターの特製なんです~」

「へぇ、マスターの!」

「ネオさんが早く元気になるように、って」


 千種の説明にネオは目を見開く。……バレているかもしれないとは思ったけど、それでもまさかマスターのお手製が食べれるとは思ってもいなかった。いつも千種が考えたものか、その場で考案した料理ばかりなのに。驚きと嬉しさを感じながら、厨房から出てきたマスターと目を合わせる。軽くお辞儀をすれば、無言のままぐっと親指を立てられた。その笑顔に、少しだけ元気が出てきたような気がする。一言お礼を言おうと口を開いたが、それよりも先に彼は直ぐに他のお客さんに呼ばれて、どこかへと行ってしまった。今日も今日とて忙しそうだ。ネオは少し残念そうに眉を下げると、千種からお箸を受け取った。


「マスターに、お伝えしておきますね」

「うん、お願いします」


 笑みを浮かべてそう言ってくれる千種に、ネオは小さく頷いた。

(本当に気の利く子だなぁ~)

 きっと、ネオの感謝の気持ちを悟った上での提案なのだろう。有難くお願いすると同時に、ネオは両手を合わせた。


「いただきます」


 パキリと割り箸を割り、焼きそばの中に突き刺す。麺を野菜と一緒に取り、鰹節を乗せ、早速一口。野菜の甘みと麵に絡んだソースの酸味がマッチして、舌の上を転がっていく。咀嚼すればするほど甘みが増していき、ゆっくり食べようと思っていた気持ちは一瞬にしてどこかへと飛んでしまった。温かいものが胃の中に入ってく。それが更に食欲を増加させているのか、次々に箸を伸ばしてしまう。途中で混ぜた紅ショウガがいいアクセントになり、気が付けば半分以上食べてしまっていた。


「ん~、美味しいっ!」

「野菜たっぷりなのは嬉しいですよね~」

「うんうんっ。歯応えあるし、バランスもいいもんね~」


 一心不乱に食べていれば、千種がウーロン茶のおかわりを運んできてくれた。そんな千種と他愛もない話をしながら一口、もう一口と麺を運んでいく。凄い。重いかと思っていたものが、するすると自分の中へと入って行く。今ならもう一品くらい食べれるかも。

(あ。そういえば)

 もぐもぐと咀嚼しつつ、ふとネオは数分前の出来事を思い出した。ふと、さっき見ていた子へと視線を向けた。そこには変わらず流れる曲を聴きながらフードを目深く被り、携帯を弄る若い子が座っていた。横にした携帯を持っている指が忙しなく動いているところを見ると、恐らくゲームでもしているのだろう。凄まじい速さに、彼女がかなりの手練れであることが見てとれる。……あれ、何のゲームなんだろう。凄く、気になる。


「……」

「どうかしましたか?」

「あっ、ううん。なんでもないよ」


 じっと見つめすぎていたのか、千種が首を傾げる姿に慌てて目の前で手を振る。しかし、気のせいにするには少し惜しいような気がして、振った手を中途半端に下ろしてしまう。……聞くべきだろうか。そういえば、かの少女も制服で学生だったはずだ。もし、あの子が自分の予想通りなら、成人済みの自分が行くより歳の近い千種ちゃんにお願いしたほうがいいのかもしれない。うん、そうだ。そうしよう。


「ねえ、千種ちゃん。あそこの席に座ってる子。知ってるの?」


 ネオは彼女に失礼にならない程度に視線を向けながら、千種に問いかける。問われた千種は直ぐに言いたいことを理解したのか、「はい」と頷いた。


「もしかして、あの子が気になるんですか?」

「気になるっていうか……もしかしたら知り合いかもしれないって思って。えーっと、学生さん、かな? よく来るの?」

「はい。早めの時間だけですけど、結構いらっしゃいますよ」


「FPSゲームとか格闘ゲームが大好きみたいで」と、にこやかに返してくる千種の言葉に「へぇ」と感嘆が口をつく。黒いマスクをつけ、無表情で携帯ゲームに励む彼女。真剣な顔を見る限り、今もFPSをやっているのだろうか。イヤフォンらしき紐が、あまりの激しさに揺れている。そんな彼女の周りには誰もおらず、不思議と話し掛ける様子もない。……楽しみ方は人それぞれとはいえ、思った以上に堂々と一人楽しんでいる彼女に、ネオは思わず苦笑いを零した。


「我孫子さん……あ、あの方の事なんですけど、実は私の通っている学校の後輩なんですよ~」

「へぇ~」


(後輩……後輩なんだぁ。――ん?)


「……こう、はい?」

「そうですよー」

「〝こうはい〟って、……後輩?」

「はい。同じ学校で、私が三年生、彼女が一年生です」


 にこやかに、そして当然のように話す千種に、ネオは何を言われているのか理解が出来なかった。ただでさえ千種が学生であることに驚いたのにも関わらず、あの少女までもが学生で、しかも一年生だなんて。


「嘘でしょ……」

「本当ですよ~」


 えへへへと笑みを浮かべる彼女に、つい頭を抱えてしまった。千種の顔はもちろん嘘をついているようには到底思えないし、数時間前に会った少女の制服姿を思い出してしまえば、それはもう覆せない事実だった。

(最近の学生って、大人っぽいんだなぁ……)

 もうそう思うしか、ネオには道がなかった。これを現実逃避だと、人は言う。


「そ、そういえば、千種ちゃんも学生だもんねぇ……」

「はい!」


 ふふ、と笑みを浮かべる千種に出来るだけ平静を装いながら、ネオも笑みを返す。考えれば考えるほど沼に入ってしまう気がして、ネオはゆっくりとその思考を頭の隅へと追いやった。最後の焼きそばを食べ、こくりと飲み込む。うん、やっぱり美味しい。


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