ガンッと酷い音が響き、我孫子の身体が宙を舞う。赤い液体が僅かに飛び散り、その鮮やかさに千種は咄嗟に声を上げた。
「我孫子さん!」
「ッ、!!」
ズザザザ、と体が地面を滑る。伸ばした手はもちろん届くはずもなく、無常にも弾んだ身体が体が何度も地面をバウンドし、我孫子の背中を壁に打ち付けた。その光景にヒュッと喉に細い息が入るのを感じながら、千種はそれでも叫ぶのを止められない。
「かはっ、!」
「我孫子さ、ッ、!」
駆け寄ろうとした足は、彼女の華奢な手に静止される。は、と吐いた息はどこか掠れていて、自分の物ではないように感じてしまった。ゆらりと立ち上がった我孫子は、再び敵の前に立ち塞がる。二人の体を優に超える巨体に、千種は息を飲んだ。
(どう、したら……!)
思考は止まらない。助けに行きたい気持ちも止まらない。それなのに……情けない体は、ガクガクと恐怖で震えている。我孫子なボロボロの身体は、どう見ても限界を超えているのに。
――巨大なアグレッサーの登場に唖然としたのも束の間。早々に吹き飛ばされた二人は、抵抗も虚しくバリアごとエアベースから離れた場所へと吹き飛ばされた。宙を舞う際、近場の古びたビルが半壊し、瓦礫が崩れ落ちるのをどこか遠くの事のように見ていた。――が、追い打ちをかけてくるように、アグレッサーの四肢が彼女達を叩き落としたのだ。あまりの勢いの良さに、千種の意識は呆気なく飛ばされてしまった。我孫子の意識もひどく混濁したくらいだ。その勢いは言わずもがな、知れているだろう。
そして千種が気がついた時には、我孫子対アグレッサーの構図が出来上がっていたのだ。もちろん直ぐに助けに入ろうとしたものの、急激に痛みを与えられた千種の身体は体力どころか、立ち向かう勇気さえも根こそぎ奪われていた。
(足が、動かない……)
手が、足が。目の前の巨大な敵に立ち向かう事を拒否する。指先一本、動かせる気がしない。辛うじて掠める錫杖が、シャラりと音を立てて、踏まれて硬くなった土の上を滑っていく。
立ちはだかる赤と黒の機体が、悪魔のように思える。……否、死神と言い替えてもいいかもしれない。どちらにしろ、千種の心を絶望に持っていくには十分だった。千種は恐怖に引き攣る心臓を、服の上から押さえ込む。落ち着けるよう、小さく呼吸をして……けれど、それで和らぐような生易しい恐怖ではなかったようだ。
「くっ、!」
ガシャンと盛大な音がし、アグレッサーに攻撃が打ち込まれる。既に我孫子によって何度も何度も打ち込まれた肩には、僅かにヒビが入っていた。……だが、その対価として我孫子が受けたダメージは、アグレッサーに比べて遥かに多いものであった。
――満身創痍。その言葉が合うような姿に、焦燥は胸を駆け上がるばかり。ギリと音を立てた手が、硬い土を握る。
『千種ちゃんの力は、みんなを守る力なんだね!』
ネオの言葉が、頭を反芻する。……まるで今の自分を嘲笑っているように聞こえ、嬉しかったはずの言葉が虚しさを掻き立てた。
(……守る力、だなんて)
そんなの、大袈裟だ。それどころか、この力は本当に誰かを助けたいときに発揮すらしてくれない。……我孫子一人、守ることも出来ない。――自分は、弱いから。
ぎゅっと握った手に、自身の爪が食い込む。それすら今の千種には些細な事でしかなくて。ぐらりと揺れる頭が、重くのしかかってくる。ぐるぐると回る思考に、千種はゆっくりと――吞まれてしまう。
(体中が痛い。血が出ている。痛い。我孫子さんも、自分も……)
ジンジンとする傷に、思わず泣きたくなってしまう。――もう、戦いたくない。
……そうだ。そもそも自分は誰かを守りたくてここにいるのに、その為には誰かと戦わなくてはいけなくて……誰かを傷つけなくてはいけない。そんなの、おかしいじゃないか。守るのに、他人のものを奪うなんて、そんなのおかしい。間違っている。
(……嗚呼、でも)
今のひ弱な自分が叫んだところで、きっと誰も耳を傾けてはくれないのだろう。争いだって、なくなるわけではない。
千種は両手を合わせて、目を閉じる。祈るように頭を垂れ、口を噤む。悔しさに、千種は下唇を噛み締めた。
(ねえ、……神様)
どうしてあなたは、人に試練を与えるのですか。これも、乗り越えられる試練だと仰るのですか。もし……もし、それなら、自分は全力であなたに逆らうでしょう。けれどもし……力を貸してくださるのなら、その時は――――その時は。
(自分以外の誰かの為だけに、この力を振るいましょう)
決して自身の欲の為ではなく、誰かの為だけに。
千種がそう祈りを捧げた瞬間――彼女の周りを光が包んだ。神聖なまでの真っ白な光が、周囲の空気を浄化していく。千種はすぅ、と肺いっぱいに息を吸い込んだ。今までで一番吸いやすく、千種の身体に馴染んだ空気が、彼女の体内をゆるりと回っていく。それが彼女自身と馴染んでいくと同時に、何もないところから彼女の周りに幾つもの赤い鳥居が現れた。
我孫子が再び数メートルほど飛ばされ、千種の近くで呻いた。追い打ちをかけるようにして飛び掛かってきたアグレッサーに――千種は声を張り上げた。
「……ないで……来ないで!!」
「ッ――!?」
「なッ、!!?」
「――『ダークネス・ファスト・エクソシズム』!」
千種の高らかに響いた声に応じるように、二人の間に巨大な赤い鳥居が降り落ちる。驚愕に染まる我孫子とアグレッサー。しかし、それは始まりの一つにしかすぎず、まるで道なりを作る様にアグレッサーの頭上を目掛け、鳥居がいくつも落ちてきた。
ガンガンガン、と上空から次々に地面へと突き刺さる鳥居に、アグレッサーが回避し、飛び回る。追い打ちをかけるように、鳥居の上部からは勢いよく閉まる闇夜のシャッター。散っていた木の葉が切れ、一瞬逃げ遅れたアグレッサーの腕が、切り落とされた。
息を飲むような光景に我孫子は目を瞠り、アグレッサーの動きも止まる。無機質な鉄を切り落とした闇は、その赤い門から入ってくる全てを遮断し、全ての侵入を拒むようにそこに存在している。どこまでもどこまでも、深い闇。――それが神の断罪であるかのように錯覚したのは、敵と認知されたアグレッサーに乗る男、ただ一人だった。
ゆっくりと体を起こした我孫子が、千種を見遣る。肩で息をする彼女が気掛かりだが、目の前に広がる光景を無視する事は出来なかった。動きの止まったアグレッサーに注意を向けながら、我孫子は少し前にいる背中に声をかけた。
「……千種。これ、は」
「……知らないうちに、できたんです」
「……」
顔を伏せたまま静かに告げる千種を、我孫子の二対の瞳が見下ろす。そんな視線に気づくことなく、千種は自身の手を見下ろした。
未だに恐怖に震える両手はどこまでも頼りなくて、今にも逃げ出したくなるほど。……けれど、視線を上げれば、そこには脅威だと思っていた鉄塊が地面に転がり、パチパチと火花を散らせていた。千種は自身の手と落ちた鉄塊を交互に見、驚愕に目を見開く。
(我孫子さんですらヒビしか入らなかった、腕が……)
――いま、千種の目の前に転がっている。
それが何を意味するのか。あの一瞬、何よりも力を欲した彼女自身が、一番理解していた。込み上げる高揚。身体の中の血が、沸き立つのを感じる。吐いた息は、先ほどとは違って熱っぽく、まるで生きている事を示しているようにすら感じた。
(私も、戦えるんですね。みんなの、力に――〝護る力〟に、なれる)
「……千種?」
ぐらりと揺れる頭。霞む視界が傾いたのを感じた時には、千種の身体は地面に倒れ込んでいた。伸ばした手が、何かを掴む。……けれど、倒れた衝撃すら感じない事にやっと働いた危機感は、濁流のように流れ込んできた闇に、呆気なく飲み込まれて行った。
ドサリ。 重い音が響き、我孫子は振り返った。しかし、どうやらそれは少し遅かったらしい。
視線の先には、倒れ込む千種の姿。長い藍色の髪が無造作に土の上に広がっており、完全に脱力していた。サァッと血の気が引いていく。……が、意識を失う直前に掴まれた手首からは、存外温かい体温が伝わってきて……焦燥を受けた心臓から、思わず安堵の息を吐いた。
「……」
(どうせ回復するなら、自分を回復すればいいのに)
無意識なのだろうか。流れてくる癒しの波に、我孫子は掴まれた手首を見下ろして、内心でため息を吐いた。……どこまでも彼女は、お人好しらしい。
ゆっくりと振り返って、再度見つめる光景。中が黒く塗りつぶされた赤い鳥居は、千種が気を失っても歪むことなくそこに佇み続けていた。一見するとただの黒い闇は、渦でも巻いているかのよう。好奇心に駆られてその黒に指で触れてみるが、特段何も起こらなかった。……既に効果は切れてしまったのだろうか。しかし、それならばここに在り続ける意味はないはず。単にしっかりと魔法が解かれなかったから残っただけか。それとも。
疑問として込み上げてくる現象に、我孫子は足元に転がる枝を試しに突き刺してみた。瞬間、スパンッと闇が枝を綺麗に遮断したのを見て、驚愕に顔色を染める。……サポートだけなんて、とんでもない。
「……チートじゃん」
一刀両断。触れた瞬間訪れる無慈悲な断罪に、我孫子がつい言葉を漏らす。それは彼女にとって最大限の賛辞だった。
我孫子は千種を抱えて、建物の影になる場所まで退いた。千種の体を横たえ、顔を覗き込む。……どうやら力を使い過ぎて、気を失ってしまったらしい。
ちらりと敵のいる方向を盗み見る。かなりの巨体を持つアグレッサーは、自分を取り囲む大中小の鳥居の存在に苦戦しているらしい。ぎこちない動きで回避・攻撃を試みているが、基本的に打撃が攻撃になるアグレッサーは四肢で攻撃するしかなく、触れた瞬間切断される鳥居に上手く立ち回りが出来ていないようだった。この時点で既に最初に切り落とされた左腕、右脹脛部分がなくなっている。
手当てが出来そうなものが無いか、周囲を見渡しながら、我孫子はこの先の作戦を考えるために思考を巡らせた。
(早く、手当を)
そして力を使いすぎた場合、どうやったら回復するのかを、今からでもアイルに聞かなくては。
「失礼」
「!」
そう決意を固めた直後。背後から突如聞こえた声に、我孫子は飛び上がるほどの衝撃を受けた。バッと慌てて振り返るれば、そこには見たことの無い女性が佇んでいた。
――気配が、一切しなかった。
咄嗟に厳戒態勢を取り、女性を睨みあげる。……明るく、長い茶髪だ。僅かに巻かれた毛先が風に揺れ、彼女の頭の上で一つに括られている。白いワイシャツに、パンツスーツを着込んだ女性。……どこかで見かけたような服装だが、その顔は初めて見るものだった。アニソンバーHEROでも、見かけた記憶はない。と、思う。――つまりは、敵だ。
そう判断した瞬間、一直線に拳を突き出した。常人であれば吹き飛ばされているはずの威力……だが、その拳は呆気なく受け止められてしまった。それどころか、ぐるりと体が回転し、一瞬にして地に抑え込まれてしまう。反射的に体を捻って逃げようとするが、それも背中を圧迫され、虚しく意味を失った。
「大丈夫です。悪いようにはしませんから」
「……」
女の言葉に数秒、我孫子は睨み合った。が、直ぐに抵抗する体から力を抜いた。……何となく、彼女が嘘をついているとは思えなかったのだ。
女は我孫子を開放すると、パンツが汚れるのも構わずしゃがみ込んだ。千種の手首を取って脈を図ると、次に彼女の額へ手を伸ばした。脈の安定と傷による発熱がないのを確認した彼女は、持っていたウエストポーチから応急処置に使える救急セットを取り出した。慣れた手つきで、テキパキと治療を施していく。今までに見た誰よりも的確で早いその手際に、我孫子は思わず目が奪われてしまう。
「……そんなに見られても、これ以上早くはなりませんよ」
「……」
女の言葉に首を振り、再びその手際を見つめる。自分とは少し違う方法を取って施されるそれは、見ているだけで勉強になる。ふと、千種の体が光に包まれ、直ぐに弾けた。……どうやら、変身が解けたらしい。見慣れたメイド服を着て眠る彼女に、女は驚くことなく体の隅々を確認し始めた。
ほとんど微動だにしない気配に振り返れば、そこには黒い細身の眼鏡をかけた黒髪の男が立っていた。長身で細身の男。……見た目からは想像はつかないが、恐らく見た目以上に引き締まっているのだろう。きっとかなりの手練れだ。
手には黒い手袋を嵌め、周囲の様子にどこか不快そうに眉間にしわを寄せている。
「……オイ、どうだ」
「はっ。問題ございません」
「そうか」
女の言葉に頷いた彼は、彼女達に背を向けた。未だ鳥居に囲まれているアグレッサーに視線を向け、鬱陶しそうに眉間にしわを寄せる。その表情は、まるで汚いものでも見るかのよう。
男は自身の襟元を指先で整えると、アグレッサーへと向けていた視線を我孫子へと落とした。不愉快そうな視線を、我孫子はじっと見つめ返す。
「貴様らの仲間は既にこちらで確認済みだ。直に来る」
「……」
「チッ。礼儀のなってないガキだな」
身勝手に告げられる男の言葉を放置して、我孫子は視線を千種へと向けた。さっきまで険しかった顔が、少しだけゆったりとしたものに変わっていた。
治療が終わったらしい。女性は応急セットを片づけると、綺麗な所作でスっと立ち上がった。安心したように寝息を立てる千種に、我孫子は手を握りしめる。
(……よかった)
「行くぞ」
「はっ」
男の言葉に、女は手短に返事をすると彼の背を早足で追っていく。何をする訳でもなく、治療だけを施した彼らは、足早にこの場から去っていく。……よく分からない。我孫子が二人の背中を無言で見送っていれば、同じ方向から飛んでくる二人の影があった。思いの外元気そうな姿に、我孫子は僅かに安堵する。
「我孫子ちゃーん! 千種ちゃーん!」
「うるさいわよ」
「……」
二人の声が大きいのか、自分の耳がいいのか。どちらにしろ、二人の元気そうな声がここまで届いてくる。他愛もない会話に、少し安堵が胸を満たした。――が、我孫子に聞こえるということは、近くにいるアグレッサーにも彼女たちの声が届くというわけで。
バキンッと激しい音が聞こえ、最後の鳥居が砕け散る。瓦礫と化したそれは軽やかに宙を舞い、空気中に溶けるかのごとく昇華されていった。
空を斬る音が聞こえ、自身に差し込む影の大きさに息を呑む。体の至るところがなくなり、切断されている機体は動いているのが不思議なほど。だが、どうやら戦う気力はまだまだあるようだった。
我孫子と千種の方を見るアグレッサーに、我孫子は咄嗟に地を蹴って、宙を舞う。刹那、背後から発砲音が聞こえ、背後に何かが襲いかかってくる気配がした。振り返り、見定めたのは――銀色の、弾丸だった。ロケットのような形をしたそれに、ひくりと口元が引き攣る。ぶつかる直前に体を捻れば、銀色のソレが勢いよく横を通り抜けていくのを感じながら、我孫子は大きく旋回した。……何となく、嫌な予感がする。
避けた弾丸を見つめ、体制を整える。瞬間――嫌な予感は早々に的中した。
重力を無視して軌道を変えた弾丸が、再び我孫子に襲い掛かってきた。その様子に一つ舌を打ち、飛行速度を上げる。……しかし、追いかけて来る弾丸の速さは発射後から一切衰える事無い。間一髪でそれらを避けながら、木を蹴り、電柱を蹴り、宙を駆けていく。上手くやればそのまま敵に当てられるのではないかと思ったが、どうやら本体には当たらないように計算されているらしい。
(……面倒くさい)
ぽつりと呟いた本心は、自分の心の中に落とされていく。さて、どうしようか。
「……あ。」
閃いた、と言わんばかりに我孫子は頷き、口角を上げた。
(そうか。全部撃ち抜けばいいんだ)
そうと決まれば、早い。大空を旋回して一旦距離を取り、我孫子は半身をゆっくりと引いた。そして渦巻く気を自身の拳に集め――放つ。
「――『ポイント・ブレイク』」