セクション1:契約の始まり
ルーチェ・アストレアは、侯爵家の次女として生まれた。幼い頃は、その美しい容貌と愛らしい性格で多くの人々に愛されていた。しかし、運命は残酷だった。
最初の婚約は、彼女が15歳の時だった。相手は名門伯爵家の嫡男で、若くして将来を期待される才気あふれる人物だった。しかし、婚約発表からわずか数ヶ月後、彼は突然の事故で命を落とした。彼女に罪はないはずだが、「呪い」の噂はここから始まった。
2度目の婚約相手は、隣国の侯爵家の三男だった。彼はルーチェに一目惚れし、熱心に求婚した。ルーチェも彼の誠実さに惹かれ、ようやく心を開き始めていた。だが、その婚約も長くは続かなかった。婚約成立から半年後、彼が突然家を出奔し、行方不明になったのだ。残された手紙には、「彼女と一緒にいると不吉な未来しか見えない」と記されていたという。
こうした不幸な出来事が重なり、ルーチェには「呪われた花嫁」という不名誉な噂がつきまとった。社交界の舞台で舞うどころか、彼女の存在自体が避けられるようになり、アストレア侯爵家の名誉も地に落ちていった。
そして今、ルーチェは再び「婚約」を余儀なくされていた。ただし、それはもはや愛や未来を誓うものではなく、冷たく無情な契約だった。
「借金を返済する唯一の方法だ。お前のためではない、家のためだ。」
父親の言葉は淡々としていた。侯爵家とは名ばかりの今、財政状況は破綻寸前であり、もはや手の施しようがないほどだった。救いの手を差し伸べたのは、大貴族であるアレクト・ディオネ。彼は莫大な富と権力を持ちながら、冷徹で謎めいた人物として知られていた。
「契約書にサインするだけでいい。2年間、彼の妻として振る舞え。そうすれば、家は救われる。」
父親はルーチェに、これが唯一の選択肢だと告げた。ルーチェには抗う力はなかった。愛する家族を守るために、彼女は自分を犠牲にするしかなかったのだ。
---
結婚式当日、ルーチェは白いドレスに身を包んでいた。鏡に映る自分の姿は美しいはずだったが、そこに幸せの輝きはなかった。
「美しい、とても似合っている。」
控室に入ってきた父親の声に、ルーチェは軽く微笑んでみせた。しかし、その表情にはどこか翳りがあった。
「……ありがとう、お父様。」
その瞬間、心の中に小さな抵抗の声が浮かび上がった。この結婚は本当に正しいのだろうか? 家のために自分を犠牲にすることが、本当に最善の選択なのだろうか? しかし、その思いを口にすることはできなかった。父の肩に背負わせている責任の重さを知っているからこそ、自分だけが楽になろうとすることはできなかったのだ。
「ルーチェ、誓いの時間だ。」
使用人が声をかけ、彼女は深く息を吸い込んだ。そして、控室を出るときにふと振り返り、父親に言葉を残した。
「……私が選んだ道ですから、大丈夫です。」
それは、自分自身に言い聞かせるための言葉だった。
---
式場に入ると、そこには冷たい空気が漂っていた。豪華な装飾に彩られた空間は、見た目こそ美しかったが、そこにいる人々の視線は鋭く冷ややかだった。「呪われた花嫁」の噂が、どれほど社交界に広まっているかを物語っていた。
祭壇の前には、ルーチェの未来の夫となるアレクトが立っていた。彼は美しい顔立ちをしていたが、その表情は氷のように冷たく、感情のかけらも感じられなかった。
ルーチェが祭壇にたどり着くと、彼は無感情な声で言った。
「契約書通りに振る舞えばいい。それだけだ。」
その一言が、彼のすべてを物語っていた。この結婚に愛や温かさは存在しない。あるのは冷たい取り決めだけだ。
「……ええ、分かっています。」
ルーチェは声を震わせずに答えたが、その目には覚悟が宿っていた。彼女は自分の未来を彼に委ねるのではなく、自分自身の手で切り開くことを密かに誓ったのだ。
その誓いを胸に、ルーチェは冷たい祝福の鐘の音の中で、新たな一歩を踏み出した。
セクション2:冷たい祝宴
ルーチェとアレクトの結婚式が終わった後、広間で盛大な祝宴が開かれていた。だが、その華やかな装飾や豪奢な料理とは裏腹に、そこに漂う雰囲気はどこか重苦しいものだった。会場の隅々にまで広がるざわめきは、祝福の言葉ではなく、ささやき合う陰口だった。
「呪われた花嫁、ねえ……」
「本当にあのアストレア家の娘がここまで落ちぶれるとは思わなかった。」
「アレクト様も物好きね。あんな不吉な女と結婚するなんて……」
耳を塞ぎたくなるような声が、広間の至るところから聞こえてくる。まるで空気そのものが、ルーチェに重圧をかけているようだった。
ルーチェは、少しでも堂々とした姿を見せるために背筋を伸ばし、笑顔を浮かべた。その顔はまるで完璧な仮面のようで、誰にも内心の動揺を悟らせない。だが、彼女の手元のグラスはほんのわずかに揺れていた。それに気づいたのは、遠くから彼女を冷ややかに観察していたアレクトだけだった。
---
「ルーチェ。」
呼びかけられた声に振り向くと、そこにはかつての婚約者であるエドモンドが立っていた。彼は伯爵家の跡取り息子で、かつては彼女の未来を約束された存在だった。
「久しぶりだな。いや、こうして再会できるとは思っていなかった。」
その言葉の奥に潜む軽蔑を、ルーチェは敏感に感じ取った。
「……お久しぶりです、エドモンド様。」
「驚いたよ。本当に結婚するとはね。」
彼はわざとらしい笑みを浮かべながら続けた。
「まあ、君の『呪い』を受け入れる奇特な人間がいるなんて、世の中は広いものだ。」
「……。」
ルーチェはその挑発に乗ることなく、微笑みを崩さなかった。しかし、胸の奥には悔しさが込み上げていた。エドモンドは、婚約が破棄された後も彼女を侮辱するような噂を流し続けていた男だ。
「ところで、君の夫になるアレクト様……」
彼はルーチェの肩越しにアレクトの姿を一瞥し、小さく鼻で笑った。
「冷酷な男だと聞いているが、君にはお似合いかもな。」
その言葉が刺さるように心に響いた瞬間、ルーチェは手に持っていたグラスを少し強く握りしめた。だが、彼女は動揺を表に出さず、ただ一言だけ返した。
「ありがとうございます。お気遣いなく、私は幸せです。」
その言葉を聞いたエドモンドの顔が一瞬、歪んだ。ルーチェが見せた毅然とした態度に、彼は期待外れだと言わんばかりに肩をすくめ、その場を去った。
---
しかし、エドモンドだけではなかった。会場のあちこちで、過去に彼女と何らかの因縁を持つ者たちが、遠回しな侮辱や嘲笑を口にしていた。
「彼女、また結婚に失敗しなければいいけど。」
「まあ、契約結婚ならうまくいくんじゃない?」
「でもあの男が選んだ理由、単なる復讐じゃないかって噂だよ。」
そうした囁きが、ルーチェの耳にも嫌でも届いてくる。それでも、彼女はただ耐えるしかなかった。
アレクトが彼女のもとに近づいてきたのは、そんな時だった。
「ルーチェ。」
低い声で彼が名前を呼ぶと、彼女は反射的に顔を上げた。彼の瞳は冷たく鋭く、彼女の表情を細かく観察しているかのようだった。
「何か問題でも?」
彼の言葉に、ルーチェはかぶりを振った。
「いいえ、問題ありません。」
その言葉に彼はわずかに眉を上げると、広間を見渡した。
「そうか。それならいい。ただ……君が失敗を犯せば、この契約は破棄される。それを忘れないことだ。」
冷たい声でそう告げると、彼はまたすぐに去っていった。その背中を見つめながら、ルーチェは再び胸に覚悟を刻んだ。
---
祝宴が進む中で、彼女は自分の置かれた立場を改めて思い知った。この結婚は、家を守るための取引にすぎない。彼女自身に愛や幸せが約束されるものではないのだ。だが、それでも彼女は屈するわけにはいかなかった。
「負けない……。」
小さくつぶやいたその言葉は、自分自身への誓いだった。彼女はこの「白い結婚」の裏に潜む真実を突き止め、ただ利用されるだけの存在で終わるつもりはなかった。
そしてその夜、ルーチェは初めて「呪われた花嫁」の名を武器に変えようと考えた。どれだけ周囲に嘲られようとも、彼女は逆境を力に変えて、この冷たい世界で生き抜くことを決意する。
冷たい祝宴の中で、ルーチェの心に火が灯ったのだった。
セクション3:虚ろな新婚生活
ルーチェがアレクトの広大な屋敷に到着したのは、結婚式から数日後だった。屋敷は石造りの重厚な建物で、外観はまるで城のようだった。だが、その荘厳な佇まいとは裏腹に、中に足を踏み入れた瞬間、彼女はどこか冷たく無機質な空気を感じた。
廊下を歩く使用人たちは、彼女が通り過ぎても一切視線を向けない。挨拶をする者もなく、まるで彼女がいないかのような扱いだった。それは当然だった。彼らにとってルーチェは「契約上の妻」であり、主として敬うべき存在ではないのだ。
「こちらが奥様のお部屋になります。」
案内役の執事が淡々とした声でそう告げると、大きな扉を開いた。そこに広がっていたのは、豪華ではあるが、どこか冷たさを感じさせる部屋だった。白と銀を基調とした内装は、まるで彼女の心情を映し出しているかのように無機質で静まり返っていた。
「ご用がありましたら、こちらのベルをお鳴らしください。それでは。」
執事は短い説明を終えると、何の感情も見せずに退室した。彼の無機質な態度に、ルーチェは小さく息を吐いた。
---
数日が過ぎても、アレクトとの接触はほとんどなかった。屋敷の中では彼を見かけることすら稀で、彼女は一人きりの食事や散歩に慣れつつあった。そんな中、彼の存在を感じるのは、日々屋敷を満たす重い空気だけだった。
ある夜、ルーチェは寝室で読書をしていたが、どうにも落ち着かない気配を感じていた。窓の外から風が吹き込む音、廊下の奥で微かに聞こえる足音。それらが妙に耳につき、胸騒ぎが収まらなかった。
「……誰かが私を見ている?」
彼女はベッドから立ち上がり、部屋を見渡した。もちろん誰の姿もない。だが、確かに誰かの視線を感じる。ルーチェは咄嗟にカーテンを閉じ、窓の鍵をかけた。
「気のせい……よね?」
そう自分に言い聞かせながらも、彼女は深い眠りに落ちることができなかった。
---
翌日、ルーチェは屋敷内を歩き回ることにした。普段は誰も通らないような裏廊下や物置部屋を巡るうちに、彼女は一つの不自然な扉に気づいた。それは普通の扉よりも重厚で、鍵がかけられているようだった。
「ここは……?」
好奇心に駆られたルーチェは、使用人たちが目を離した隙に鍵を探し出し、扉を開けた。中に広がっていたのは、膨大な量の資料が詰まった書庫のような部屋だった。古びた本棚には無数の書物が並び、机の上には見慣れない地図や紙束が散乱している。
その中の一枚に目を留めた瞬間、ルーチェの心臓が跳ねた。そこに記されていたのは、彼女の過去に関する情報だった。元婚約者たちとの破談の詳細や、彼女の家族の借金状況に至るまで、事細かに記録されている。
「どうして……こんなものがここに?」
彼女がその紙を手に取った瞬間、背後から冷たい声が響いた。
「勝手に入るとは、なかなか肝が据わっているな。」
振り返ると、そこにはアレクトが立っていた。彼の鋭い瞳が、彼女を見下ろしている。
「これは……」
「言い訳は必要ない。だが、君には知る権利があるだろう。」
そう言ってアレクトは部屋の中央にあった椅子に腰を下ろした。彼の冷静な態度が、逆にルーチェを緊張させた。
「君はただの『契約上の妻』だと思っていただろうが、それは表向きの話だ。この結婚には、それ以上の意味がある。」
「それ以上の意味……?」
彼の言葉にルーチェは眉をひそめた。彼女が疑問を口にしようとした瞬間、アレクトは静かに手を振って彼女を黙らせた。
「まだ話す段階ではない。だが、この結婚が単なる形式的なものだと考えているなら、考え直すべきだ。」
それだけ告げると、アレクトは再び立ち上がり、部屋を出ていった。その背中には、何か大きな計画を秘めた者の自信が漂っていた。
---
アレクトの言葉が頭の中で何度も反芻された。彼が何を企んでいるのかは分からないが、確実にルーチェを利用しようとしていることだけは明らかだった。
「私は道具じゃない……」
ルーチェはそう自分に言い聞かせた。彼女はこの結婚生活がただ彼の都合のために進むことを許さないと心に誓った。
だが、その一方で、屋敷内には奇妙な噂が流れ始めていた。
「奥様が呪いを運んできたのではないか……」
「このところ、妙な出来事が増えている。」
使用人たちの間で囁かれるその噂は、やがて彼女の耳にも届くことになる。そして、その噂がどこから生まれたのかを探ることが、彼女の次なる課題となるのだった。
セクション4:陰謀の予兆
ルーチェは書庫で発見した資料の数々に心を奪われていた。それらには彼女の過去、家族の財政状況、さらには彼女と関わった人々の詳細な情報が記されていた。一見して彼女の人生そのものが丸裸にされているようで、息苦しさすら感じた。
特に目を引いたのは、彼女の元婚約者たちに関する情報だった。破談の詳細が異様なほど細かく記録されている。たとえば、最初の婚約者エドモンドが事故で命を落とす直前の行動や、その周囲で起きた不審な出来事。そして、二人目の婚約者が失踪する直前に誰と会っていたかまでが書かれていた。
「どうしてこんなことを……?」
思わず呟いたその声は、静かな書庫に吸い込まれた。資料の一部には赤いインクでメモが記されており、その内容は彼女を何らかの目的で追跡し、調査していることを示していた。さらに、その調査が単なる興味ではなく、何か意図を持って進められていることは明白だった。
---
ルーチェはその夜、自室に戻っても眠れなかった。頭の中でアレクトの冷たい声が繰り返し響いていた。
「この結婚が単なる形式的なものだと考えているなら、考え直すべきだ。」
彼は明らかに何かを企んでいる。そして、彼女の過去を利用してそれを実行しようとしている。だが、それが一体何なのかはまだ掴めない。
「私を利用するつもりなら……私はただ黙って従うだけではいられない。」
彼女は決意を固めた。まずは屋敷内で流れる奇妙な噂について調べることから始めるべきだと考えた。アレクトにとって彼女が何の「道具」になるのかを知るには、その噂が何を意味しているのかを突き止める必要があった。
---
翌朝、ルーチェは使用人たちの視線を感じながら、廊下を歩いた。彼らの間ではすでに彼女が「呪われた花嫁」であることが噂されているようだった。耳を澄ませば、使用人たちの囁きがかすかに聞こえてくる。
「ここ数日、妙なことが続いているんだ。」
「夜中に物音がするって話もあるし、庭で飼っていた鳥が急に死んだって……。」
「奥様が来てからだろう? やっぱり呪いなんだよ。」
彼女は足を止めずに歩き続けたが、内心では不安が募った。呪いの噂が再び彼女を追い詰めるのではないかという恐れがあった。だが、それ以上に、この噂がどこから生まれたのかを解明しなければならないという決意が強かった。
---
その日の午後、ルーチェは庭師のエマと話をする機会を得た。エマはこの屋敷で唯一、彼女に対して敵意を見せない使用人だった。細い体つきと優しい笑顔のエマに、ルーチェは少しずつ心を開き始めていた。
「エマ、この屋敷で最近何か変わったことはある?」
ルーチェが尋ねると、エマは少し考えるそぶりを見せた後、小声で答えた。
「実は……奥様がいらっしゃる少し前から、夜中に廊下で何かが動く音を聞くんです。誰もいないはずなのに。」
「それは……人間の仕業だと思う?」
「分かりません。でも、不気味です。あと、庭の花壇に変な足跡があったんです。まるで獣のような……。」
その言葉に、ルーチェは心がざわつくのを感じた。足跡や夜中の物音。それはただの偶然なのだろうか? それとも、誰かが意図的に仕組んだものなのだろうか?
「ありがとう、エマ。あなたの話、とても参考になったわ。」
ルーチェは微笑みながら礼を言ったが、その背中には緊張が走っていた。
---
その夜、彼女は廊下を一人で歩き回った。エマの話を確かめるためだ。薄暗い灯りの中、足音が廊下に響くたびに、心臓が跳ねるようだった。
しばらく歩き回っていると、ふと遠くで何かが動く気配を感じた。振り返ると、廊下の端にある扉がわずかに開いているのが見えた。誰かが中に入ったのかもしれない。彼女は慎重に足を進め、扉をゆっくりと開けた。
そこは小さな物置部屋だったが、棚の隙間から外へ続く秘密の通路が見えていた。
「こんな場所があったなんて……。」
彼女は通路に足を踏み入れた。狭い石の通路は、冷たい空気に満ちており、彼女の呼吸が白く染まるほどだった。その奥へと進むと、やがて広い地下室のような場所にたどり着いた。そこにはまたもや大量の資料が散乱していた。
その中の一部を手に取ると、そこには「ルーチェ」の名前が赤く記されていた。そして、赤字で記されていた言葉を読んだ瞬間、彼女の体が凍りついた。
「呪いを証明するための実験」
---
彼女は息を呑み、次の資料を開いた。そこには、彼女の過去を元に計画された陰謀の概要が書かれていた。アレクトの目的は、彼女を「呪われた花嫁」という存在に仕立て上げ、彼自身の目的を果たすための駒として利用することだった。
「やっぱり……私は利用されている……。」
しかし、ルーチェはすぐに立ち直った。ここでただ怯えているだけでは何も変わらない。むしろ、彼の陰謀を逆手に取り、自分の運命を切り開くための糸口にするべきだと感じた。
「見ていなさい、アレクト……私はただの道具なんかじゃない。」
ルーチェの目には、覚悟の光が宿っていた。冷たい陰謀の影に立ち向かうため、彼女はこの屋敷で始まる戦いに備えるのだった。
---