セレノア王国の朝は穏やかだ。青い空に白い雲が浮かび、王宮の庭園では色とりどりの花が風に揺れている。鳥のさえずりと、城内の奥深くから聞こえる微かな楽器の音色が、平和そのものの雰囲気を醸し出していた。
しかし、その平穏な空気を一変させる出来事が起きようとしていた。
「リリィ・セレノア王女殿下!」
広間の中心に立つ男の声が響く。その声は低く力強く、同時にどこか冷たい響きを帯びていた。
声の主は隣国ヴェリタス王国の第一王子、クラウディウス。金髪に鋭い青い瞳、整った顔立ち――貴族たちが称賛する通りの美貌を持ちながらも、その表情は尊大で威圧的だった。
「私は、本日をもって貴殿との婚約を破棄することをここに宣言する!」
一瞬、広間が静まり返る。王族や貴族たち、そして使用人たちが目を丸くして彼を見つめた。全員が「婚約」という言葉に驚き、その場にいる者たちは、リリィに視線を向ける。
だが、リリィ本人はというと――。
「……え?」
首をかしげ、ぽかんとした顔を浮かべている。驚きというより、状況が理解できないといった表情だ。
リリィ・セレノア。彼女はセレノア王国の末姫であり、普段は温厚で控えめな姫として知られている。しかし今、その穏やかな性格が災いしてか、場の空気を全く読まずに質問を投げかけた。
「婚約……破棄?ちょっと待ってください。そもそも、婚約なんてした覚えがないんですが?」
広間に再び沈黙が訪れる。今度は、困惑と驚愕が入り混じった静寂だ。隣に座っていた彼女の父、セレノア国王も小さく咳払いをしながら、リリィの顔を覗き込む。
「リリィ、本当に覚えがないのか?」
「はい、本当にないです!」
リリィは即答した。彼女の表情には嘘偽りがなく、むしろ「なぜ私が疑われるのか」と言いたげだ。
一方、クラウディウスはその言葉に鼻で笑い、腰に手を当てると、さらに声を張り上げた。
「そのような詭弁は無駄だ!我々の王国には、君と私が婚約した証拠がある!」
そう言うと、クラウディウスは取り巻きの従者に合図を送る。すると、一冊の分厚い書類が広間の中央に運ばれ、彼はそれを自信満々に開いて見せた。
「これがその証拠だ。正式な婚約証明書だよ。君の名前も署名も、ここにしっかりと記されている!」
リリィは書類を一瞥し、さらに困惑した。そこには確かに自分の名前があり、署名も記載されている。しかし――。
「これ、筆跡が私のじゃないんですけど。」
淡々とそう言い切ったリリィに、周囲の視線が集中する。彼女の冷静な指摘に、クラウディウスは一瞬たじろいだが、すぐに表情を引き締めた。
「そ、そんな馬鹿な!君は記憶を曖昧にしているだけだ!あるいは、署名をしたことを忘れたのではないか?」
「忘れた?いえ、婚約なんて重大なこと、絶対に忘れるわけありませんよ。それに、私はこれまで婚約の話なんて一度も聞いたことがありません。父上、聞いてますか?」
リリィは隣にいる父王に向けてそう問いかけた。国王は、困ったように眉をひそめ、曖昧な笑みを浮かべた。
「いや、その……。そういえば昔、ヴェリタスの国王と飲み会をした時に、そんな話をした気がしないでもないな……。」
「……飲み会のノリで決めた婚約話だったんですか!?」
リリィは思わず声を荒げた。
「待ってください、それって正式な契約じゃないですよね?」と念を押すリリィ。しかし、クラウディウスは頑なに譲らない。
「いずれにせよ、これは我が国にとって正式な記録だ。それを否定するならば、君は国家間の信頼を損ねることになる!」
リリィは頭を抱えたくなった。「国家間の信頼」などと言われても、こちらからすれば寝耳に水の話である。だが、何がどうなっているにせよ、この婚約話には何か裏があるに違いない――リリィの中でそんな確信が芽生えた。
「わかりました。証拠があると言うなら、きちんと調べさせていただきます。その間、この婚約破棄という宣言は保留ということで。」
冷静にそう告げたリリィに対し、クラウディウスは苛立ちを隠せない様子だったが、無理やりその場を収めるしかなかった。
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その夜、リリィは王宮の一室で、近衛騎士団長のエリックを呼び出した。
「エリック、この婚約話、どう考えてもおかしいと思わない?」
「ええ、確かに怪しいですね。ただの偽造ではなさそうです。」
エリックは冷静な口調で答えたが、その目は真剣だった。
「これはただの個人の仕業じゃない。国家規模の陰謀かもしれません。」
リリィは深く頷く。表の顔は王女、しかし裏の顔は隠密姫。そのスキルを駆使し、彼女はこの謎を暴く決意を新たにした。
「婚約破棄?そもそも、婚約なんてした覚えがないわ!でも、ここまで大騒ぎになった以上、逃げるわけにはいかないわね……。」
リリィの声は静かだが、燃え上がる闘志がそこに宿っていた。