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第3話 陰謀の影

 ロダニアの町に移り住んでから、アルテミスは薬師としての腕を着実に磨きつつあった。頼れる師匠・レオルトの厳しくも的確な指導と、町の人々との温かな交流が彼女の心を支えている。そのうえ、様々な症例に触れる機会が増えたことで、アルテミスの調合技術や知識はぐんと深まっていた。

 そんなある日、アルテミスは用事で町の広場を訪れていた。そこでは市場が開かれ、多くの人が行き交っている。野菜や果物、手工芸品などが色とりどりに並び、活気にあふれた景色が広がっていた。だが、その活気の中に混じって、どこか張り詰めた緊張感も感じられるのは気のせいだろうか。アルテミスは周囲を見回し、何か異様な雰囲気を覚えた。

 その雰囲気の原因は、耳をすませばすぐに分かった。複数の露店主がひそひそと囁いているのだ。

「……何でも、隣の村で病人が続出しているって話だ」

「しかも、高熱や嘔吐があって、手当てが間に合わず亡くなった人もいるらしい」

「えぇ……それって、もしかして疫病か?」

 聞こえてくる断片的な言葉に、アルテミスの胸がざわつく。疫病。それは薬師の知識があっても容易に対処できるものではない。封じ込めに失敗すれば、あっという間に周辺地域に広がる恐れがある。王都でも過去に幾度か流行し、多くの犠牲者を出したとされる。

(まさか、ここロダニアにも……?)

 不安が胸をよぎりながらも、アルテミスは冷静さを失わないように自分を叱咤した。もし本当に疫病の兆候があるのなら、早急な対応が必要だ。この辺境で医療体制が整っているとは言いがたい。ひとたび感染が拡大すれば、大惨事になりかねない。

 アルテミスは市場での用事をさっと切り上げると、急いでレオルトの店へと足を運んだ。すでに他の住民も噂を聞きつけているようで、薬局の前には相談を求める人がちらほらと立ち尽くしている。中に入ると、レオルトが落ち着いた表情で、困り顔の客に対応している姿が見えた。

「先生、今お話よろしいですか?」

 順番を待ってから恐る恐る声をかけると、レオルトは手元の作業を一段落させ、アルテミスの方へ振り返った。

「おう、アルテミスか。疫病の噂は耳にしたか? なんでも隣町のベイル村で立て続けに病人が出ているそうだ。熱と嘔吐、下痢が主な症状らしいな」

「はい……もし本当に疫病だとしたら、早めに調査が必要です。今のところ、私たちの町には感染例は確認されていないようですが……」

 アルテミスが危惧を伝えると、レオルトも難しい顔でうなずいた。

「そうなんだよ。感染症というのはあっという間に広がる。それもこの辺境は、あまり人が密集していないからこそ感染拡大は遅いとはいえ、都市と違って医療や支援が乏しい。いったん流行したら被害は計り知れないんだ」

「やはりそうですよね……。私、行ってみようと思います。ベイル村に。先生もご一緒に……と言いたいところですが、長距離の移動は負担になりますから、私と何人かで現地を調べてきます」

 レオルトは少し目を丸くしたが、すぐに納得したように口を開いた。

「お前さんも随分やる気だな。でも、確かにこの町の若い薬師はお前さんくらいしかいない。俺は足腰にガタがきてるし、連れていけても町の青年くらいだろう。……ああ、そうだ、あの男がいるじゃないか。カイルだ」

「カイルさんですか?」

「そうだ。あいつは最近、近隣の警備や治安維持を手伝っているらしいが、何やら騎士のような動きが板についている。腕も立つだろうし、何より冷静だ。もし協力が得られれば心強いぞ」

 レオルトの言葉に、アルテミスは確かにそうだと思い当たった。カイルが怪我人を助けたときの様子や、町の有力者たちともさりげなくやりとりしている様子から考えても、普通の町人とは思えない落ち着きと行動力がある。彼ならきっと、危険な村への道中も心強い味方になってくれるだろう。

 アルテミスは店を出ると、まずはカイルを探すべく町を歩き始めた。


カイルの正体


 カイルを探していると、小さな畑の横で農作業を手伝っている姿を見つけた。黒い上着を脱いで腕まくりし、額に汗をにじませながら、慣れた手つきで作業をしている。話しかけると、彼はすぐに手を止めてアルテミスを振り返った。

「アルテミスさん、何かあったのか? こんな場所で俺を探すとは」

 カイルは少し驚いた様子だったが、その瞳には穏やかな色が宿っている。アルテミスは簡潔に状況を説明した。ベイル村で流行の兆しを見せる疫病のこと、調査と支援のために自分が現地へ行こうとしていること、そしてできればカイルにも同行してほしいこと。

「分かった。……いや、むしろちょうどよかった。実は俺のほうも『そろそろ隣町を巡回してほしい』と上の方から要請を受けていたんだ」

 そう言ってカイルは曖昧に笑う。上の方という言い回しに引っかかるものを感じつつも、アルテミスはとりあえず一安心だった。

「じゃあ、早速支度をして出かけましょう。今は時間が惜しいですから」

「そうだな。俺はここの作業を片付けたらすぐに準備する。アルテミスさんも装備や薬の用意があるだろうから、一時間後に町の門で合流ということでどうだ?」

「はい、分かりました。ありがとうございます」

 カイルと別れ、アルテミスは宿屋へ戻って必要な道具をまとめ始めた。まずは万一の怪我や症状悪化に備えた応急処置セット。調合用の薬草、器具、保存用の瓶や包帯など、あれこれ詰め込むうちにカバンはずっしりと重くなる。

(でも、これくらい持っていかないと不安だわ……)

 アルテミスはため息をつきながらも、結局すべてを持っていくことにした。そして約束の時間。町の門の前へ急ぐと、先に来ていたカイルが姿を見せ、彼はスッと手を差し出す。

「荷物が多いね。少し持とうか?」

「あ、ありがとうございます。でも、そんな……」

「遠慮はなしだ。疫病の現場はどんな状況か分からないんだろう? そこでは君の知識と判断力が必要になる。体力を温存しておくべきだ」

 そう言ってカイルは、アルテミスの大きな鞄を軽々と抱え上げる。まるで重量を感じさせないその動きに、アルテミスはやはり彼が並外れた体力を持っていると再認識した。

 こうして二人はロダニアを出発し、隣町ベイル村を目指して歩き出した。途中、カイルは道中の森や小川を確認しながら、警戒を怠らない。何か危険が迫ればすぐに対処できるように、まるで訓練された兵士のように周囲を見回している。

 やがて、アルテミスはふと気づいた。カイルが腰に帯剣をしている。今までも彼が剣のようなものを所持しているのは見たことがあったが、普段はあまり目立たないようにしていたように思う。

「カイルさんって……本当は騎士か何かなのでは?」

 アルテミスが思い切って尋ねると、カイルは少し戸惑った表情を浮かべたが、やがて苦笑混じりに答えた。

「隠していたわけじゃないけど……俺は隣国の騎士団に所属している。しかも団長の地位にある。もっと正確に言えば、『王国同士の友好の証』としてこの辺境に派遣されてる形だな。王都には、俺がこっちで動いていることをあまり大々的に知られたくないらしい」

「えっ……! 団長、ですか。すごい……」

 アルテミスは驚きと同時に合点がいった。確かにあの落ち着いた指揮ぶりや、身体能力の高さは騎士団長という肩書きなら納得がいく。

「けど、どうして辺境に? 隣国の騎士団長なら、本国にいて国を守るのが普通じゃないですか?」

「それが、どうも国同士の思惑が絡んでいるようでな。うちの国は、このあたりの領地に昔から興味を示していたらしい。荒れ果てた土地だけど、実は資源があるだの、戦略的要衝だの、色々な噂が絶えない。そこで俺に“派遣”の名目を与え、こっそり探って来いというわけだ。……まあ、それに加えて、この国の人々の暮らしぶりを知っておくことは、将来的にも大きな利になる、というのが俺の上司の意見だな」

 カイルはそう言って肩をすくめる。

「もちろん、どこかを侵略しようとか、そういう物騒な話ではない。表向きは友好関係にあるからな。ただ、情報は多いに越したことはない。そんなところさ。俺も正直、まだこの任務をどう扱うべきか迷っている段階だ」

 アルテミスは彼の言葉に、複雑な思いを抱きながらも、少なくともカイル自身は悪意のある人物ではないと感じていた。むしろ、町の人々を助け、危険にも立ち向かう姿勢を見れば、彼が真摯で誠実な性格であることは明らかだ。

「そうだったんですね……。でも、カイルさんが私たちの力になってくれるなら、こんなに心強いことはありません」

 アルテミスが微笑むと、カイルも優しく笑みを返した。

「ありがとう。俺もアルテミスさんがいるなら、疫病の調査も捗りそうだ。君がいてくれれば、医療面で大きく助かるからな」

 こうして二人の間には、騎士団長と薬師という立場を超えた信頼が芽生え始めていた。


疫病の現場へ


 数時間歩き続けた末、ようやく二人はベイル村の入口にたどり着いた。しかし、そこはまるで重苦しい霧が立ちこめているような雰囲気で、活気が感じられない。道行く村人たちはみな疲弊した表情を浮かべ、うつむきがちに歩いている。中には、道端にへたり込んでいる者もいた。

「これは……想像以上に深刻そうだな」

 カイルが眉間にしわを寄せる。アルテミスも同じ気持ちだった。これほどまでに荒んだ光景は初めて見る。

 とりあえず村の中心部へ向かおうと歩き出すと、途中で声をかけてきたのは痩せこけた壮年の男性だった。

「おい、あんたら……何者だ? まさか、この村に感染を広めに来たわけじゃないだろうな……」

 疑心暗鬼に駆られたような目で睨まれ、アルテミスは困惑したが、なんとか丁寧に説明を試みる。

「私たちは隣町ロダニアから来ました。私は薬師の見習いで、こちらで流行っている病を調べたいと思って……」

 すると男性ははっとしたように目を見開き、次いで力なく笑った。

「薬師……か。そうか、遠路わざわざ来てくれたんだな。ここんところずっと、村の人間は高熱や嘔吐で倒れる者が続出しているんだ。町医者みたいな人はもともと少ないし、それどころか自分たちも罹患してしまって、手が回らない状況でな。あんたが助けてくれるなら、ほんとにありがたい」

 男性の言葉には、どこか諦めにも似た陰鬱さが混じっていた。アルテミスは胸を痛めながらも、すぐに医療行為に取りかかれる場所を確保する必要があると考え、話を続ける。

「まずは症状の重い方をまとめて診たいので、どこか人が集まれる建物はありますか? 村長さんなど、責任者にお話を伺えれば……」

「それなら村の真ん中にある集会所だ。もう野戦病院みたいな状態だが、行けば誰かしらいるだろう」

 男性の案内を受け、アルテミスとカイルはその集会所へと急いだ。そこには、すでに多くの村人が床に伏しており、うめき声が聞こえてくる。数人の女性や老人が看病しているようだが、皆疲れ切った表情をしていた。

 その様子を見て、アルテミスは咄嗟に行動を開始する。

「カイルさん、まずは窓を開けて空気の通りを良くしてください。集会所の空気がよどんでいます。あと水が必要です。患者さんたちの汗や嘔吐で脱水状態になっているかもしれませんから」

「わかった。すぐ動く」

 カイルがきびきびと指示に従い、周囲の手伝いそうな若者たちをまとめて水の運搬や換気を行わせる。村の集会所は簡易的な建物だが、幸いにも広めで窓が多い。少し風を通すだけでも嫌な臭いが和らぎ、患者たちの呼吸がいくらか楽になるはずだ。

 アルテミスは薬草道具を取り出し、手持ちの材料で作れる簡易的な解熱・消炎の煎じ薬を調合し始めた。まだ原因不明の部分は多いが、とにかく高熱で苦しむ患者を放置はできない。熱を下げ、嘔吐や下痢による脱水を防ぐための対症療法が先決だ。

 やがて、どこからか現れた初老の村長が、カイルの姿を見て少し安堵したように声をかける。

「貴公は……確か、騎士か? どこかでお見かけした記憶があるが……」

「ええ、隣国から派遣されているカイルです。今回は薬師のアルテミスさんと来ました。村長さん、ご挨拶が遅れて申し訳ありませんが、まずはこの集会所の衛生状況や患者のリストが欲しいところです。どれくらいの人が病にかかっていて、重症者は何人いるのか……」

 カイルが手短に要望を伝えると、村長は疲弊しきった表情で「分かった」と頷き、近くの若者を呼びつけて患者の大まかな数を確認しに行かせる。

 ほどなくしてわかった情報によれば、この病にかかった者はすでに村全体の三割にも及んでおり、そのうち半数以上が高熱と嘔吐、下痢で動けない重症の状態だという。中には呼吸が浅く、意識が朦朧としている者もいるらしい。

「そんな……三割……」

 アルテミスは、あまりにも早いペースで感染者が増えている現実に驚きを禁じ得なかった。一体何が原因なのか。食糧や水の汚染? それとも空気感染する病か? いずれにせよ、すぐに何らかの対策を講じなければ、村は壊滅の危機に瀕する。

「アルテミスさん、どうする?」

 カイルが小声で尋ねてくる。アルテミスは歯を食いしばり、集会所の患者たちに目をやりながら答えた。

「まずは対処療法で患者さんたちの症状を和らげるのが最優先。大半が発熱と嘔吐、下痢で衰弱しているから、水分と栄養を補給する必要があります。それから、感染ルートを探りましょう。飲み水の井戸や食糧庫がどんな状態なのか、あるいは流通経路で何か問題があったのか……」

「分かった。じゃあ俺は村長に協力を求めて、地形と物資の流れを調べてみる。この村の井戸がもし汚染されていたら、そりゃ大変なことになるからな」

「お願いします。私は患者の症状をもう少し詳しく見て、何か共通点がないか探ってみます」

 二人は役割分担し、すぐに行動に移った。


疫病の謎と協力関係


 アルテミスは集会所の患者一人ひとりの症状を確認した。発熱は38度から40度近い高熱まで幅があり、嘔吐や下痢で脱水症状を起こしている者が多数。中には皮膚に発疹が出ている人も見受けられた。重症化した人は、意識が混濁し始めてうわ言を言っている。

 アルテミスは彼らの脈や舌の状態を調べ、どの段階まで病状が進んでいるかを記録していく。同時に、彼らがどの地区に住んでいるかや、仕事は何をしているか、普段の食事や水の使用状況なども村人から聞き取りしてまとめる。

 休む間もなく作業を続けるアルテミスの脳裏には、かつて王都で目にした古い医書の内容が甦っていた。高熱と嘔吐、下痢。呼吸が苦しくなって皮膚に変色や斑点が生じるケース。いくつか似た症状の疫病が記録されているが、決定的に共通する特徴を探らなくては。

 そうこうしていると、カイルが戻ってきた。彼の後ろには、地図のようなものを手にした村長と若者が付き従っている。

「井戸や食糧庫を見てみたが、一部にカビや変色が確認される食材があった。中には既に腐りかけているものも……。ただ、それだけでここまで大規模に広がるかは疑問が残る。飲み水の井戸は表面上は問題なさそうだったが……」

「分かりました。私が集めた情報では、感染が確認されているのは村の南側に住む人が多いようです。でも、北側の住人も発症している。全体的にまんべんなく広がっている印象ですね」

「ということは……特定の地区だけが汚染されたわけではないと。やはり空気か、水系統のどこかに原因があるのかもしれない。あるいは外部からの持ち込みか……」

 カイルが険しい表情で呟くと、その横から村長が申し訳なさそうに口を開いた。

「実は、少し前から怪しげな商人が出入りしていてな。珍しい薬草だとか、疫病を防ぐ魔道具だとかを売りに来ていたんだ。最初はみんな怪しんでいたが、病人が出始めると、切羽詰まった村人がそいつに頼るようになったらしくて……」

「薬草や魔道具……?」

 アルテミスは嫌な胸騒ぎを覚える。悪質な業者が本当は何の効果もない偽薬を売りつけ、村を混乱に陥れている――そんな可能性があるかもしれない。

「そいつはまだ村にいるんですか?」

 カイルが問いただすと、村長は首を振った。

「いや、2、3日前に『次の町へ行く』とか言って出て行ったきりだ。名前もあやふやで、どこの国の商人かも分からん。薬を売りつけたあと、病人が急に増え始めたと聞いている」

「なるほどね……。もしその怪しげな薬草に何か毒性や病原菌が混じっていたら、一気に広がってもおかしくない。あるいは、最初に病にかかった人に偽薬を使わせて、治らないまま周囲に感染が拡大した可能性もある」

 カイルは推測を口にしながら、集会所の床に視線を落とす。アルテミスも深く頷いた。

「いずれにせよ、このままじゃ村が大変なことになる。今は私たちができる範囲で治療をして、原因を突き止め、感染拡大を防がなくちゃ」

 村長は頭を下げ、涙声で言った。

「お二人とも、どうか力を貸してくれ。もうこのままじゃ、我々はどうしていいか……」

「分かりました。私たちも全力を尽くします」

 アルテミスの言葉に、カイルも静かに頷く。かくして二人は、ベイル村で発生している疫病の原因を突き止めるため、本格的な調査を開始した。


王都の迷走


 ――その頃、王都では別の問題が起こっていた。聖女カトレアの力を過信した王太子アレクトが、たび重なる失態を演じて評判を落としているという。

 もともと、平民出身のカトレアが突然「聖女」として担ぎ上げられ、王宮で特別な待遇を受けていることには、貴族階級の一部から不満の声が上がっていた。だが、王太子が彼女を溺愛し、あえて反論を許さないような空気を作っていたため、表立って批判する者はいなかった。

 ところが、カトレア本人は確かに不思議な力を持っているものの、それが本物の聖女かどうかは疑わしいと感じている者も多い。というのも、彼女が行う“奇跡”がいずれも中途半端だったり、あるいは後から不都合が生じたりするケースが続出しているからだ。

 たとえば、大規模な祝祭で披露した“浄化の奇跡”。王太子アレクトは「これを見よ、真なる聖女の力だ」と大々的に宣伝したが、実際は少し離れた場所にいた参列者の中に体調不良を訴える者が続出。浄化どころか謎の病を引き起こしたのではないかと囁かれた。

 また、他国の要人との会談でも、カトレアがあまりに純粋な立ち居振る舞いを見せるあまり、礼儀を欠いたと思われる場面が目立ち、王太子や王族たちの顔をつぶしてしまう場面もあった。

「我が国の聖女を侮辱するな」とアレクトは怒鳴り散らし、その場は一応収拾がついたものの、相手国には悪い印象を残す結果に……。

 こうした出来事が重なり、王太子アレクトの名誉は失墜し始めていた。周囲の貴族たちも「さすがに殿下のやり方はまずいのでは」と思いつつ、表立っては何も言えない。王も王妃も、すでに息子の暴走を止める気力がないのか、あるいはカトレアの力を本物だと信じ込んでいるのか。どちらにせよ、王都は混迷の度合いを深めつつあった。

 さらに悪いことに、近頃は街中で疫病に似た不穏な病が散発的に起きているという噂も立ち始めている。平民層は治療を受けられずに苦しみ、王宮では「聖女様がなんとかしてくれるだろう」と期待をかけるが、カトレアの“奇跡”はどうやら当てにならない。

 そうした中、かつて王太子の婚約者だったアルテミス・ヴァルターが、辺境の町で薬師として活動しているらしいという噂もじわじわと広まりつつあった。もっとも、公式には「追放された令嬢」であるため、多くの者は「彼女に関わると面倒だ」と黙殺しているが、極一部の貴族はこんな声を上げ始めていた。

「アルテミス令嬢は、あの若さで優秀な薬学の知識を持っていたとか……聖女よりよほど民衆を救えるのではないか?」

 だが、その声は王太子や彼を取り巻く権力者たちの耳に届くことはなく、届いたとしても取り合ってもらえないだろう。王都は今、カトレアの神秘の力に期待を寄せるしかない――そんな空気に包まれている。

 かくして、王太子アレクトの評判は急速に地に落ち、近隣諸国からも「王位継承者として危ういのではないか」と囁かれ始めていた。しかし当のアレクトは、そうした声を認めようとはしない。彼はカトレアとともに豪奢な舞踏会を開き、「我々こそが新時代を切り開く存在だ」と宣伝する始末。もはや周囲の苦言に耳を貸す様子は微塵もなかった。


疫病の原因と不穏な気配


 一方、ベイル村に滞在中のアルテミスとカイルは、連日の調査と治療に追われていた。アルテミスは患者の容態を観察しながら、夜通し古い薬学書をめくり、レオルトと手紙で情報交換もしながら原因究明を急いでいる。

 そんな折、患者の一人が小さな声でこんなことを漏らした。

「……あの商人に、治療薬だと言われて買った薬草を煎じて飲んだんです。最初は少し良くなった気がしたんですが、しばらくするとひどい頭痛と熱が出て……」

 アルテミスはその話を聞いて眉をひそめる。どうやら、やはり怪しげな薬草が原因の一端になっているらしい。しかし、単に「偽薬」なだけならまだしも、飲んだ後に状態が悪化しているというのはただ事ではない。何か毒素か病原菌が混入していたと考えられる。

 さらに調べを進めると、その商人から薬草を買った村人たちの発症率がかなり高いことが判明した。同時に、別のルートで同じような薬草が隣接する村にも流れている可能性があるとわかり、アルテミスとカイルはぞっとした。

「もしこれが計画的なものだとしたら……ただの自然発生の疫病じゃなく、誰かが意図的に仕組んだ可能性がある。そう思うと背筋が寒くなるな」

 カイルが険しい声で言う。アルテミスも同感だった。

「もしそうなら……何のために? この辺境で疫病を広めて、一体誰が得をするんでしょう……」

「分からない。だが、隣国としては、この国が混乱してくれたほうが都合がいいと考える輩もいるかもしれない。あるいは、王都に混乱を引き起こして聖女や王太子の権威を下げたい勢力とか……いろんな可能性が考えられる」

 そう言いながらも、カイルははっきりと「自国がやった」とは決めつけていない。むしろ彼自身、この状況を憂慮しており、なんとか止めたいと願っているのが伝わってくる。

 アルテミスはほっと息をつき、少なくとも目の前の村を救うために最善を尽くそうと心に決めた。

「原因究明は大事だけど、それ以上に、今いる患者さんたちを一人でも多く救わないと。私、薬草の調合を見直して、同時に少しでも早く体力を回復させるレシピを考えます。カイルさんは安全と秩序を保つのをお願いしますね」

「ああ、任せてくれ。村人の恐怖心が広がりすぎると、暴動や逃亡が起こる可能性もあるからな。俺がしっかり止めてみせるよ」

 アルテミスとカイルが固く頷き合ったその瞬間、外から悲鳴のような声が上がった。

「な、なんだ……!?」

 カイルが外に飛び出すと、そこには苦しげに喘ぎながら倒れ込む若者の姿がある。どうやら新たな感染者のようだった。

 この村では刻一刻と状況が悪化している――。そんな危機感が、二人をさらに奮い立たせるのだった。


次への布石


 こうして、辺境の地ロダニア周辺では、原因不明の疫病が広がりを見せ始めていた。アルテミスとカイルは調査と治療に奔走し、少しずつ手応えも感じつつあるが、まだ全容解明には至っていない。

 一方、王都では聖女カトレアと王太子アレクトが失態を重ねるばかりで、国全体が不穏な空気に包まれ始めている。追放された令嬢アルテミスが、この災いを鎮める鍵になるかもしれない――そんな噂が、徐々にささやかれ始めているが、当の彼女はまだ何も知らない。

 果たして、疫病の真の原因は何なのか。暗躍する「謎の商人」は何者なのか。そしてカイルが持ち込む“隣国の思惑”は、この国にどのような影響を及ぼすのか――。

 陰謀の影は着実に広がり始めていた。アルテミスは自分の意志と薬師としての知識を頼りに、人々を守り抜くことができるのだろうか。今後の展開は、さらに波乱を伴いながらも、彼女の運命を大きく揺さぶるに違いない。



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