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第2話 新しい生活の始まり

 王都を離れ、馬車を乗り継いで数日。アルテミス・ヴァルターがようやく辿り着いたのは、王国の辺境と呼ばれる山あいの町、ロダニアだった。

 ここは王都からかなり離れており、交通の便が悪い上に、大きな街道から外れた場所に位置するため、商人や旅人以外が訪れることは稀だという。だがその分、豊かな自然が残され、人々はのんびりと暮らしていると聞いていた。

 町の入り口に到着したとき、アルテミスは馬車の窓から顔を出し、広がる景色に驚嘆した。なだらかな丘に点々と並ぶ家並みの向こうには、雄大な山が青空にそびえ立ち、足元には色とりどりの草花が風に揺れている。王都の華やかな喧騒とはまるで違う、のどかな光景だった。

 アルテミスがこの町に来ようと決めたのは、かつて貴族としての教養を学ぶ中で目にした“薬草”にまつわる書物がきっかけだ。ロダニア周辺には珍しい薬草が自生しているという記述があり、古くから薬師や学者が訪れる場所だと記されていた。その情報は、王都の誰もが知っているわけではない。アルテミスも好奇心から古い文献を読んでいたときに偶然見つけただけだった。

 今となっては、自らの追放の経緯を知る人間が少ない土地へ身を寄せたいという思いもある。王都では貴族や王家にまつわる噂がすぐ広がり、彼女の身の上もすぐに知れ渡るだろう。しかしここロダニアなら、誰もが自分のことを知っているとは限らない。静かに新生活を始めるには、都合のいい場所と言える。

 アルテミスは小さな荷物を抱えて馬車を降り、見知らぬ町の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。王都の空気よりもずっと澄んでいて、森の香りが混じっているような気がする。町の入り口を守るように門があるが、警備兵もいるにはいるものの、まるで顔見知りかのような人当たりの良さで旅人を迎えているらしい。

 ほどなくして、門の脇にいた若い兵士がアルテミスに声をかけた。

「おや、旅の方ですか? ここはロダニアの町ですよ」

「ええ、はじめて来ました。しばらく滞在する予定なのですが……宿か下宿先を探さなくては」

 アルテミスがそう答えると、兵士はにこやかにうなずいた。

「なるほど。町の中心部には宿屋がいくつかありますが、あまり規模が大きくないので、滞在期間が長いようなら、下宿を紹介してもらうのもいいですね。宿屋の主人や雑貨商人に相談すれば、きっと力になってくれますよ」

「ありがとうございます。助かりますわ」

 アルテミスが礼を言うと、兵士は「どうぞごゆっくり」と軽い敬礼をして門の方へ戻っていった。王都とは違い、辺境の町の兵士はずいぶん気さくな印象だ。アルテミスのこれまでの人生では、こうしたくだけたやりとりは新鮮に感じる。

 ――こうして、誰も自分の素性を知らない場所で、穏やかに生きていけるのなら。そう思うと、少しだけ未来が明るくなるような気がした。


静かな町と最初の出会い


 アルテミスはまず、町のメインストリートとおぼしき道を歩き出した。大通りとはいえ、王都のそれに比べればずいぶんとこぢんまりしているが、両側に並ぶ木造の建物には食料品店や雑貨店、仕立て屋などが見られる。どの店も装飾は控えめで素朴な印象だが、そこに飾られた花や看板は人々の温かみを感じさせる。

 馬車の旅で体がくたびれているため、まずは宿を探そうと考えたアルテミスは、道沿いにあった宿屋“風見鶏亭”の看板を見つけ、ドアを押した。

 すると、中からはいい香りが漂ってくる。どうやら食事も提供している宿のようだ。入口近くにカウンターがあり、そこで恰幅のいい初老の女性がにこやかに迎えてくれた。

「いらっしゃい、旅人さんかしら? うちは宿泊も食事もやってるわよ」

「泊まれるお部屋は空いているでしょうか。しばらくこちらに滞在したいと思っているのですが……」

 アルテミスは礼儀正しく問いかける。王都では貴族らしい気品を求められていたが、ここでは肩ひじ張らずに話そうと思っていた。とはいえ、長年身に付いた言葉遣いはそう簡単には抜けない。やや丁寧すぎる口調に気づき、内心少し照れくささを覚える。

「ええ、大丈夫よ。この町はそんなに大勢の旅人が来るところでもないからね。長期滞在したいなら、その分お得にしてあげるわ」

 女性――女将だろう――はそう言うと、宿泊費の説明をしてくれた。予想よりも安く、王都の下級宿屋の半分程度の料金だ。アルテミスは申し訳ないと思いつつも、ありがたくその提案を受けることにした。

「朝食と夕食が付くけど、昼の食事は町の食堂を利用する人が多いの。うちでも用意はできるから、必要なら言ってね」

「はい、わかりました。ありがとうございます」

 アルテミスはカウンターの上で支払いを済ませると、女将は部屋の鍵を差し出しながら顔を近づけ、小声で尋ねてきた。

「ところで、お嬢さんは貴族の出身なのかい?」

 その問いに、アルテミスはドキリとした。服装は旅装束に近い地味なものを選んだが、やはり所作や言葉遣いに育ちの良さがにじみ出てしまっているのかもしれない。

 アルテミスは一瞬どう答えるか迷ったが、ここで正直に話す必要はないだろう。なにしろ、自分の過去をペラペラと話して回るつもりはないし、追放されたという事実を知られれば、好奇の目や余計な噂を呼びかねない。

「いえ、とある学者の家系でして……薬草の研究に興味を持って、こちらを訪れただけなんです。まあ、少しは裕福だったかもしれませんけど」

 嘘ではないが、正確でもないという曖昧な答えをする。女将は「そうかい」と頷き、深くは追及しなかった。

「この町には変わった薬草や植物も多いって聞くからね。研究に来たなら、きっと収穫があるよ。困ったことがあったら遠慮なく言ってちょうだい」

 その言葉に、アルテミスはほっと胸を撫で下ろした。こうして温かく接してくれる人がいるのはありがたい。彼女は改めて礼を言い、部屋へと向かった。


薬草との出会い


 翌朝、アルテミスは宿屋で簡単な朝食を済ませると、さっそく町の周辺を散策することにした。まずは地形や店の場所、住民の雰囲気などを把握したかったからだ。

 町の中心部は大通りから少しそれた場所に広場があり、そこで市場が開かれているという。そこへ足を運ぶと、野菜や果物、魚の干物などが並ぶ中に、薬草を扱う露店が数軒あった。

 アルテミスが興味深そうに薬草を覗き込んでいると、店の主と思われる年配の男性が声をかけてくる。

「お嬢さん、薬草に興味があるのかい?」

「はい、実は薬学を学んでいまして……」

 そう答えると、男性は目を丸くしたあと、嬉しそうに笑った。

「へえ、勉強熱心だねえ。ここの薬草は王都なんかにはあまり出回らないものも多いんだよ。特に、この“ミスラの葉”は擦り潰して傷口に貼ると驚くほど治りが早い。地元の人間なら昔から馴染み深いもんだが、外の人間にはなかなか知られていないな」

 そう言って差し出されたのは、長さ5センチほどの細長い葉。濃い緑色をしていて、淡い白い線が筋状に入っている。アルテミスはそっと手に取ってみた。すると、葉をこするとほんのりと薬草特有の香りが漂ってくる。

「――なるほど、すごいですね。確か文献で見たことがありますが、実物を手にするのは初めてです」

「そうかそうか。あとは『キラビの花粉』なんかもあるぞ。これは咳や気管支の病に効く。もっとも、花そのものは希少で、花粉を集めるにも手間がかかるがね」

 男性の話を聞きながら、アルテミスは心の中で歓喜に似た感情が湧き上がるのを感じた。王都でのぎすぎすした生活から逃れてきて、新しい一歩を踏み出そうとしている自分にとって、こうした未知の薬草との出会いは何よりも新鮮で刺激的だ。

 彼女はその場でいくつかの薬草を少量ずつ購入した。観察と試作をするのが目的で、大量に買っても使いきれないし、何より研究の下地となる知識をまずは整理する必要がある。

 その後も広場を巡り、ほかの店や露店をひととおり見て回った。王都で見かけるような高級品は置いていないが、地元の特産物や職人の手仕事による小物など、どれも温かみがあって興味深い。アルテミスは必要最小限の生活用品を揃えながら、町の人々に顔を覚えてもらうためにも笑顔で挨拶を心がけた。

 そうこうしているうちに、お昼になっていた。広場の一角には屋台が何軒かあり、焼きたてのパンやシチューなどが売られている。アルテミスはその中でも繁盛している屋台へ並んで、簡単な昼食を取ることにした。

 注文を済ませ、待っていると、店先でふとした拍子に小さな少年とぶつかりそうになった。

「ご、ごめんなさい……」

 少年はみすぼらしい格好をしており、少し痩せているように見える。アルテミスが謝ると、少年ははっとして身を引いた。

「いえ、こちらこそ急に走ってきちゃって……ごめんなさい!」

 そう言って頭を下げる少年。その頬はやせこけており、唇が少し青い。気になったアルテミスは、どこか具合が悪そうだと感じて尋ねてみた。

「……あなた、大丈夫? 顔色が優れないように見えるけど」

「えっ、あ……はい、平気です」

 少年は言葉を濁したが、胸のあたりを手で押さえて苦しそうに咳き込んだ。これは咳が出るだけの単なる風邪ではなさそうな気配だ。アルテミスはどこかで見たことのある症状だと感じた。――昔、王城に勤める侍女が同じように咳を繰り返し、熱を出したことがあった。

「少し、無理をしないほうがいいわ。……お医者さんや薬師さんは、この町にいるのかしら?」

「えっと……いるにはいるんです。でも、僕はお金がなくて診てもらえなくて……」

 少年は申し訳なさそうに視線を落とす。貧しい暮らしゆえに治療を受けられないのだろうか。

 アルテミスは悩んだ末、先ほど買った薬草や、自分が宿屋で調合しようと考えていた道具を思い浮かべた。知識としては、風邪や気管支系の症状の初期段階に有効な薬草の組み合わせをある程度把握している。もちろん、本職の薬師ではないし、あくまで基礎的な勉強しかしていなかったが、困っている子を放っておくのは性分に合わなかった。

「わかったわ。もしよかったら、私に少しだけ手伝わせてもらえないかしら。すぐに完治するかはわからないけれど、楽になるかもしれない」

「え……でも……」

 少年は戸惑った表情を浮かべたが、アルテミスの優しい眼差しと穏やかな口調に、やがて「ありがとうございます」と小さく頭を下げた。

 その後、アルテミスは屋台で購入したシチューとパンを少年に手渡し、空腹を満たすように勧めた。少年は遠慮がちにそれを受け取り、胃袋を落ち着かせた後、二人で少し離れた広場のベンチに腰を下ろす。

 アルテミスは自分のバッグから薬草袋を取り出し、先ほどの市場で買った「キラビの花粉」と、一般的に呼吸器系の炎症を和らげるとされる「テルコの根」を探し出した。

「これは、お湯で抽出すれば少し楽になるはず……」

 そう呟いて考え込む。問題は、いきなりこの場で調合を始めても道具やお湯がないことだ。そこで、彼女は宿屋に戻って煎じる作業をしようと決めた。

「あなた、名前は?」

「……マキ、です」

「マキね。私はアルテミスよ。これから宿屋に戻って、少し薬を作ってみるから、そのあと飲んでみない? 痛みや咳が和らぐと思うわ」

「はい……ありがとうございます」

 マキはまだ警戒している様子だったが、自分の病を治そうとしてくれる人に拒否する理由はないのだろう。アルテミスはマキと連れ立って宿屋へ戻り、女将に相談し、台所の片隅を借りることにした。女将は「困っている子どもなら放っておけないわね」と協力してくれ、アルテミスが持ってきた薬草をお湯で煎じる作業を手伝ってくれる。

 やがて、独特の苦味を含んだ香りが広がってきた。

「この匂い……すごいですね」

「ちょっと薬草独特の匂いがあるけど、我慢して飲んでちょうだいね」

 そう言って、アルテミスは簡単な道具を使って花粉や根からエキスを抽出し、マグカップ代わりの器に注いだ。淡い褐色の液体が立ち上る湯気とともに揺れる。

 それを慎重に冷ましてから、マキに差し出す。

「少し熱いけど、ゆっくり飲んで。できれば一日に何回か、分けて飲むのがいいんだけど……」

 マキはおずおずと器を受け取り、一口ふくむ。苦味に顔をしかめたが、何とか飲み下した。

「苦い……でも、温かくて……」

「まだ最初の一杯だから、すぐ劇的に良くなるわけではないけど。しばらく飲み続けて、休養をちゃんと取れば、きっと身体が楽になると思うわ」

 アルテミスはそう励ますように微笑む。すると、女将が奥から出てきて、マキに毛布や簡単な寝床を用意してくれた。しばらく体を休められるようにという配慮だ。

「お代はいいから、この子が落ち着くまで、うちで寝かせてあげるわよ」

「本当にいいんですか? 助かります……」

 アルテミスは女将の心遣いに深く頭を下げた。王都では見知らぬ子どもをこんなに気軽に泊まらせるなんて、まず考えられない。変な疑いをかけられたり、トラブルを恐れて断られたりするのが普通だろう。だがロダニアでは、助け合いの精神が根付いているのかもしれない。

 マキも恐縮しながら布団に潜り込み、アルテミスと女将はそっと部屋を後にした。


才能の片鱗


 その晩、アルテミスは女将と少し話をする機会を得た。食堂の片隅で、今日あった出来事を報告しつつ、マキの容態や薬草の効能について簡単に説明する。王都の貴族令嬢がここまで薬草に詳しいことは、女将にとってもやや意外だったらしく、感心した様子で耳を傾けていた。

「そういうことなら、もしよかったら、この町にいる薬師のところへ行ってみたら? “レオルト先生”って人がいるんだけど、もうずいぶん年を召していてね。腕はいいけれど弟子がいなくて、そろそろ引退を考えてるって噂なの」

「薬師の先生、ですか。……なるほど、その方にお話を聞いてみたいです」

 アルテミスはうなずく。この町に来た一番の理由は薬草の研究をすること。ならば、地元に根差した熟練の薬師がいるなら、ぜひ師事してみたいと思うのは当然だった。

「そうね、きっとお嬢さんなら話が合うと思うわ。明日にでも会いに行ってみたらどう? 確か、町の西側の小高い場所に小さな薬師の店を構えてるはずよ」

 女将はそう言うと、場所を詳しく教えてくれた。アルテミスは礼を言って、自室へ戻る。

 こうしてこのロダニアで暮らし始めてわずか二日ほどだが、すでにアルテミスの心には、一種の安堵感が広がっていた。ここは人々が温かく、誰かが困っていれば自然と手を貸す。王都のような政治的な駆け引きや、貴族間の見栄の張り合いがまるで感じられないのだ。

 もちろん、実際に暮らしてみればさまざまな問題や対立があるのかもしれないが、それでも今のアルテミスには、この町が自分にとって「新たな始まり」を迎えるのにふさわしい場所に思えてならなかった。

 ――王都での屈辱。婚約破棄と、家族からの追放。思い返すと今でも胸が苦しくなる。だが同時に、そこに戻る気は全く起きない。アルテミスは布団に入り、ランプを消しながら、固く自分に言い聞かせた。

(もう、あの場所に戻ったところで、私には何もない。それに、追放されたとはいえ、こうして受け入れてくれる場所が見つかったんだから……)

 そうして静かに瞳を閉じた。遠くで、マキが咳をするかすかな音が聞こえたが、やがてすぐにそれも収まっていった。


薬師レオルトとの邂逅


 翌朝、アルテミスは朝食をとり、マキの容態を確認してから宿屋を出た。少年はまだ寝ていたが、女将が「深い眠りについているから、きっと昨日の薬が効いているのよ」と言ってくれたので、ひとまず安心する。

 教えられた道順をたどり、町の西側へ向かうと、やがて石造りの古い建物が見えてきた。入口にかけられた木製の看板には、「薬師レオルトの店」と書かれている。

 戸を開けると、そこはこぢんまりした調剤所になっていた。壁沿いには薬草や調合道具が並び、一目見ただけでかなり歴史のある場所だとわかる。

 中に入ると奥から杖を突いた初老の男性が現れた。白髪混じりの髪を短く刈りそろえ、細身の体をローブのような服で包んでいる。彼こそが薬師のレオルト先生らしい。

「どなたかな? 用があるならここまで来なさい。老いぼれでな、足腰があまり良くないんだよ」

 レオルトは声音こそぶっきらぼうだが、どこか温かみを感じる雰囲気があった。アルテミスは失礼のないように姿勢を正して一礼する。

「失礼いたします。私はアルテミスと申します。最近この町に来たのですが、薬草に興味があって……レオルト先生のお話を伺えればと思い、こちらにお邪魔しました」

 するとレオルトは、アルテミスをじっと見つめてから、ふんと鼻を鳴らした。

「珍しいこともあるものだな。若い娘が、しかもよそ者が俺のところへ来るとは。大概、町の人間は俺に用があるときだけ来て、用が済んだらさっさと帰るんだがね。ところで、お前さんはどこで薬草の勉強をしていたんだ?」

 アルテミスはどう答えるか迷った。王都の学者や貴族の教育で学んだとは言えない。そこで、なるべく嘘にならないように言葉を選ぶ。

「王都の図書館などで、古い文献を読んで独学で勉強していました。正式に師事したわけではないので、まだまだ拙い知識しかありません。でも、こちらでいろいろな薬草に触れて実践的なことを学びたいと思っています」

 レオルトはもう一度アルテミスを眺めるように見てから、「ふむ」と小さく唸った。

「……まあいい。お前さんが本気で学びたいってんなら、一つ手を貸してやるか。ちょうど昨日、町外れの農家から『家畜が謎の病気にかかった』って相談があったんだが、俺も足腰が悪くてな、あまり遠出をしたくないんだよ。代わりに見に行ってみるか?」

「え……私が、ですか?」

 突然の申し出に驚くアルテミス。だが同時に、こうした実地の経験こそが何より貴重だと感じた。

「もちろん、俺も一緒に行けるなら行きたいんだが、杖を突きながら長時間歩くのは骨が折れる。お前さんが何か気づいたら持ち帰って教えてくれれば、それを元に薬を調合してやれるだろう」

 レオルトはそう言うと、棚の奥からメモ用の紙とペンを取り出してアルテミスに差し出した。

「家畜って……馬や牛でしょうか」

「牛だ。もう老牛らしくてな、ここしばらく食欲もなくなってるらしい。飼い主の話だと、咳をするような仕草もあるとか。もし気になる草や排泄物があったら、ちゃんと調べるんだぞ。症状をメモして帰ってきてくれれば、何か分かるかもしれん」

 アルテミスは、一瞬ためらいを覚えたものの、自分の知識を試すいい機会だと思い、素直に引き受けることにした。

「はい。私にできる限りのことをやってみます」

 そう答えると、レオルトは「よし」と頷き、少しだけ満足そうな表情を見せる。

「お前さんがそこまでやる気なら、今夜か明日には、俺のところで一緒に薬を調合してみよう。ほかにも病の相談が来ててな、若い手を借りたいところだったんだ。……ただし、俺の教えは厳しいぞ。覚悟するんだな」

 そう言い残して、レオルトは奥に引っ込み、何やらごそごそと調合道具の準備を始める様子だった。アルテミスは思わぬ展開に少し胸を高鳴らせつつ、店を後にする。

 薬師としての第一歩は、想像よりも早く開かれようとしているのかもしれない――そう思うと、不思議な高揚感がこみ上げてきた。


自信を取り戻す日々


 その後、アルテミスはレオルトの助言に従い、町外れの農家を訪れて老牛の症状を観察した。食欲不振の原因は歯が弱っていることもあるが、口内炎のような炎症を起こしている可能性もある。咳き込むのはのどに潰瘍ができているのかもしれない。

 アルテミスはできる範囲で丁寧に調べ、飼い葉や水の状態もチェックしてメモを取った。牛の飼育は門外漢ではあるものの、薬師視点で見れば原因の糸口がつかめるかもしれない。

 また、町の人々が抱えるちょっとした不調や悩みについても、アルテミスが持つ知識が役に立つことがあった。とくに女性や子どもたちの中には、王都の医者などにかかるお金がなく、ちょっとした風邪や打撲などを我慢して過ごしている人が多いようだ。

 アルテミスは自分で判断しかねる症状の場合はレオルトに相談し、アドバイスを受けながら薬を調合する。彼女はそれまで古い文献で読んだ知識は豊富だったが、実際に病人やケガ人を前にして処置する機会はほとんどなかったため、最初は不安もあった。しかし、レオルトの的確な指導と、自分自身の勉強熱心さが相まって、思いのほか順調に成果を上げていく。

 特に、前日に宿屋で煎じた薬を飲んだ少年・マキの回復は、アルテミスにとって大きな自信になった。マキは宿屋で数日間休養を取り、アルテミスが調合した薬を飲み続けたことで、咳がほぼ治まり、顔色も戻ってきたのだ。

「アルテミスさん、本当にありがとうございます。こんなに早く楽になるなんて……」

 マキが満面の笑みを浮かべて頭を下げる姿を見たとき、アルテミスは心が温まるような喜びを感じた。王都での辛い思い出や、家族の仕打ちから生じる暗い気持ちを、少しずつ塗り替えてくれるような充実感。そして「自分は誰かの役に立てる」という確信。

(ここでなら、私は私のまま、生きていけるかもしれない)

 そう思うと、追放された自分を不憫がったり、惨めな存在だと思う必要など微塵もないということに気づく。もちろん、王都の華やかな世界から見れば、辺境の町は地味で不便な場所かもしれない。だが、アルテミスにはむしろその距離感が心地良かった。

 そして何より大きいのは、レオルトをはじめ町の人々が、彼女の能力を素直に評価してくれることだ。貴族社会のように血筋や肩書きで判断されるのではなく、どんな人間か、何ができるのかをちゃんと見てくれる。アルテミスが提供する薬が効き目を示せば、それだけで「助かったよ」「ありがとう」と感謝され、必要とされる存在になれる。

 アルテミスは新しい生活に手応えを感じるにつれ、王都へ戻る必要はまったくないという思いを強くしていった。あの場所には、自分を捨てた王太子アレクトや父ギルバート、そして聖女カトレアらがいる。思い返すだけで悔しく、哀しい気持ちになるが、同時に「もう関わりたくない」とも強く思う。

 ある日の夜。宿屋の二階にある自室で、ランプの明かりを頼りに薬学の書物を読み返していたアルテミスは、ふと窓の外に目をやった。そこには、王都よりもはるかに澄んだ星空が広がっている。

(……もう、戻らない。あの人たちの思い通りにはならない。私はここで薬師として生きていくんだから)

 心の中で固くそう誓った。誰に知られるわけでもない、小さな誓い。それでも彼女にとっては、追放されて以来はじめて実感を伴って抱いた「確固たる決意」だった。


謎の男性・カイルとの遭遇


 そんなある日のこと。アルテミスがレオルトの店で薬の調合を手伝っていると、突然、店の扉が勢いよく開け放たれた。

「おい、レオルト先生! 大変なんだ、うちの若い衆が山で大怪我をして……」

 戸口から飛び込んできたのは屈強な男だった。どうやら森で木材を伐採する仕事に就いているらしく、土埃まみれで息を切らせている。聞けば、仲間が木から落ちて骨折したかもしれないとのこと。

 レオルトは顔をしかめ、「もう歳だからなあ。そんな大怪我にすぐには対応できん」と苦々しく呟いた。それでも「仕方ない、見に行くか」と杖を取って立ち上がる。

「アルテミス、お前さんもついて来るか? こういう怪我の応急処置を学ぶいい機会だぞ」

 アルテミスは一も二もなく頷いた。この町で薬師として活動していくなら、外での急患にも対処できるようにならねばならない。

 そして山道をたどり、現場へと急行する。そこには痛みに呻く若い男が倒れていた。足が変な方向に折れ曲がっており、見た瞬間に骨折であることが分かる。その周囲には何人か仲間たちが心配そうに見守っている。

「アルテミス、骨が折れた部分を固定するんだ。まずは当人をあまり動かさず、板や枝を当ててしっかり縛る。応急処置だけでもだいぶ違うからな」

 レオルトの指示を受け、アルテミスは手際よく周りの枝や手持ちの布を使って、患部を固定していく。手は震えるが、ここで落ち着いて対処しないと相手が痛むだけだ。

 仲間たちがアルテミスの動きに感心していると、そこへもう一人、黒いマントを翻して駆け寄ってくる男がいた。

「大丈夫か? 今、医者……いや、薬師が来ているのか」

 そう言って状況を確認すると、固定作業を手伝おうとする。男の顔立ちはすっきりしており、目つきは鋭いが整った容貌をしていた。年齢はアルテミスと同じくらいだろうか。

 アルテミスは骨折した若者に声をかけながら、必死で応急処置を進める。レオルトは「あまり動かすな、痛みが増す」と指示し、仲間たちも力を合わせて慎重に行う。

 一通りの固定を終え、少し落ち着いたところで、男がアルテミスの存在に気づいたように声をかけてきた。

「あなたは……薬師、ですか? はじめて見る顔だが」

 アルテミスは少しだけ息を整え、涼やかに答えた。

「ええ、私はここでレオルト先生の手伝いをしているんです。アルテミスと言います」

「そうだったのか。俺はカイル。最近まで隣国の方を回っていてな。ここの森の警備なんかを手伝うことになった。怪我をしたのは俺の知り合いでもあるんだが、助かるよ」

 カイルと名乗った男はそう言って、ほっとしたような笑みを浮かべた。その時、アルテミスは彼の瞳がどこか探るような光を帯びているのを感じた。気のせいかもしれないが、何か底知れないものを秘めている――そんな印象を受ける。

「カイルさん、ですね。こちらこそ、お力になれてよかった。もう少し詳しい治療は町に戻ってからになりますが……まずはこのまま慎重に運ぶしかありません」

「分かった。ここの仲間たちで担いで運ぼう。アルテミスさん、レオルト先生、手伝ってくれて本当に感謝する」

 そう言うと、カイルは率先して仲間たちに指示を出し、手際よく現場の片づけや負傷者の搬送を進めていく。どうやらただの森の警備というわけではなさそうだ。彼の落ち着いた所作や冷静な判断力には、どこか騎士や兵士のような雰囲気が漂っていた。

 アルテミスはそんなカイルの姿を横目で見ながら、自然と胸の奥に小さな好奇心が芽生えていた。この辺境の地で、あのような整った身なりときびきびした動きをする男がいるとは。ただの町の青年ではなさそうだが……。

 いずれにせよ、今日のところは負傷者を町へ運ぶことが最優先だ。アルテミスは再び気を引き締めて、レオルトや仲間たちと一緒に急患を連れ帰った。

 応急処置が功を奏し、青年は町の宿で静養することになった。アルテミスは必要な薬や包帯を用意し、痛みを和らげるための煎じ薬を作る。カイルはその様子を黙って見守っていたが、最後に改めてアルテミスに声をかけてきた。

「アルテミスさん、あなたがいなければ、もっと取り返しがつかないことになっていたかもしれない。本当に感謝する。もし困ったことがあれば、遠慮なく言ってくれ。俺も力になりたい」

「ありがとうございます。そう言ってもらえると心強いですわ」

 アルテミスは微笑んで答える。カイルの礼儀正しい態度と真摯な眼差しに、少しだけ心が揺れるのを感じた。追放されてから初めて出会った、同世代らしき男性。そして、どこか謎めいた雰囲気を纏う彼。

 こうして、アルテミスは辺境の町で新たな生活を始める中で、着実に薬師としての才能を開花させつつあった。そして、町の人々との触れ合いの中で「もう王都には戻らない」という決意をより強くする。

 ――しかし、その決意がやがて大きな波乱を巻き起こすことになるとは、まだこのときのアルテミスは知る由もなかった。

 彼女の前に現れた謎の男性・カイル。いずれ、その存在がアルテミスの運命に大きく関わることになる。けれども今は、彼女がこの町で手に入れた穏やかな日常と、薬師としてのやりがい、そして人々の笑顔が、アルテミスを力強く支えていた。



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