クリ−ク=ナハト。
ナハト王国の第一王女。
美と知性を兼ね備えた彼女は、人々からこう呼ばれた――深紅の薔薇姫。
その生まれは王族の中でも特別だった。
父はナハト王国の第二王子、母は由緒ある公爵家の令嬢。
政略ではなく、愛によって結ばれたふたりの間に生まれた子。
それが、クリ−クだった。
本来、王位に縁のなかった父だったが、兄である第一王子が狩猟の最中、落馬事故により命を落とす。
急遽、王位継承の座が彼に巡り、帝王学を一から叩き込まれることとなる。
それは苛酷で孤独な道のりだったが、支えたのは最愛の妻と、幼いクリ−クの存在だった。
母はかつて、亡き第一王子の婚約者だった。
だが、母に密かに想いを寄せていた第二王子は、兄の死によって運命が自らに傾いたことを、神に感謝したという。
彼女を手に入れた王子は、決して冷たく扱うことなく、真に愛し、敬った。
母もまた、王子にすべてを捧げた。
クリ−クはそんなふたりの愛の結晶だった。
生まれた時から非の打ち所のない美貌を持ち、父王の寵愛を一身に受けた。
だが、運命は彼女から幸福の片翼を奪っていく。
クリ−クが六つの歳を迎えた年、母は病に倒れる。
出産のときに負った身体の負担が、長年の無理を重ねたことで彼女を蝕んでいた。
「私の代わりに、この子を……どうか、よろしく……」
最期にそう遺し、母は静かに息を引き取った。
父は二度と誰も妃に迎えず、娘であるクリ−クをそのすべての愛で包んだ。
教育は厳しく――未来のナハトを担う者として育てられた。
だがその一方で、彼女の望むものは惜しみなく与えられた。
平民とは一線を画す存在として、徹底的に高貴さを植え付けられた。
少女は、誰よりも美しく、誰よりも孤独に育った。
クリ−クが十五になったある日。
勉学に疲れ、北の離れにある小さな部屋で紅茶を楽しんでいた。
その部屋の窓からは、訓練場が見える。
騎士見習いの兵たちが、泥と汗にまみれて剣を振るう姿。
その中に、一際目を引く若者がいた。
肌は褐色、体格はがっしりしていて、動きは野生の獣のように鋭い。
だが何より、顔が整っていた。
高貴な血を引かぬのに、なぜか「気品」さえ感じさせる眼差しを持っていた。
彼の名は――ツイファー。
奴隷出身という噂があった。
それでも、次々と戦功を上げ、騎士候補生として王城に呼ばれた実力者。
兵士の間では、恐れと畏敬を込めて名が囁かれていた。
クリ−クはその男の姿を見るのが、密かな楽しみとなった。
そして、自分でも気付かぬうちに――ほのかな恋心が芽生えていた。
けれど、彼女は王女。
彼は元奴隷の戦士。
その差はあまりにも大きく、想いを告げることなど叶わない。
心に咲いた薔薇は、誰にも摘まれることなく、胸の奥で静かに赤を深めていった。
ある日、王の間に呼び出されたクリ−ク。
玉座の横に立たされた彼女は、不安と好奇心の入り混じる視線で父を見た。
王は口元に微笑をたたえ、扉の方を見つめていた。
扉が静かに開く。
そこから現れたのは――ツイファー。
逞しい身体に戦装束をまとい、背には血に染まった剣。
彼は堂々と王の間を歩き、玉座の前で跪いた。
「次なる戦で我が王国が勝利すれば、お前にこの姫を与えよう。
そして――王座も、お前に譲ってやる」
空気が凍りついた。
ざわつく臣下たち、失笑する貴族たち。
だがツイファーは、微動だにせず、静かに頭を下げた。
「御意にございます、陛下」
玉座の横でそれを聞いたクリ−クは、心臓が跳ねるのを感じた。
かつて北の部屋から眺めた、あの男。
ただ見ているだけだった存在が、いま、現実として自分の前に立っている。
(夢ではない。これは、運命かもしれない)
彼女は自分の想いが現実に実を結ぶかもしれないことを、幸福だと感じていた。
だが――
その約束は、父の戯れ言にすぎなかった。
元奴隷など、使い捨ての駒。
功績は称えても、王家の血に混ぜる気など初めからない。
クリ−クには、いずれ公爵家から王配を迎えるつもりだった。
そして戦が終わる。
ツイファーは帰ってきた。
血と煙の臭いを纏い、誰よりも早く玉座の間へと現れた。
「勝利をもって、参上した――王よ、約束のとおり、姫を。そして、王座を」
堂に響く声。
正義と確信をもって告げられたその言葉に、王は一瞬だけ黙した。
だが、すぐに乾いた笑いを浮かべ、重々しく立ち上がる。
「何のことだ、ツイファー。
我はそのような戯れ言を口にした覚えはない。
奴隷の出などが、王を名乗るなど――身の程を知れ!」
その言葉を最後に、ツイファーは動いた。
剣閃ひとつ。
その鋭さは風より速く、雷より鋭く。
王の首が、玉座の前に転がった。
血の玉座が、完成した。
クリ−クはその場に立ち尽くしたまま、父を失った。
だがその瞬間、もう一人の「王」が、血と炎の中から生まれたのだった。
彼女が幼い日に窓から見つめた男。
遠すぎると思っていた存在が、運命の渦に飲まれ、伴侶として玉座の隣に立つこととなった。
そしてこの日を境に、
元奴隷ツイファーは――シュレッケン=ナハトとなり、
血と鉄の支配を始まるのだった。
戦に勝利し、血の玉座に就いたシュレッケン=ナハトは、王妃としてクリ−クを迎えた。
それはナハト王国にとって、かつてないほどの盛大な祝祭の日であった。
戦勝と戴冠、そして婚儀。
城門から街まで続く石畳には、王国中の民が詰めかけ、歓喜と喝采がこだました。
白金と紅で飾られた王都の空の下、新王と新王妃がテラスから手を振る。
王妃クリ−クのドレスは深紅の薔薇を思わせ、まさに“深紅の薔薇姫”の名にふさわしかった。
だが、テラスで微笑むその裏に、彼女の心は揺れていた。
(私の愛した人が……父を殺した)
その記憶は夜ごとに甦る。だが――
それでも彼女は、自らの運命と愛に忠実であろうとした。
王妃として国を支えるために。女として、ひとりの男を信じるために。
初夜、彼は荒々しかった。
まるで獣のように彼女を求めた。
だがその中に、言葉では表せない「孤独」や「焦がれ」を感じた彼女は、それすらも愛おしいと感じた。
日が経つにつれ、夫婦としての時間は減っていった。
政務に追われているのか、あるいは――
彼の心がどこか遠くに行ってしまったのか、クリ−クには分からなかった。
そして噂が広がる。
“グリュック国の奥地に、幸運と富をもたらす蒼き
最初はただの民間伝承かと思われた。
だが、シュレッケンは突如としてその噂に興味を持ち、兵を率いて遠征に出る。
クリ−クの胸には、説明のつかない不安が灯った。
(何かが……変わってしまう)
そして、その不安は的中した。
彼は帰ってきた。だが、隣には――あの蒼い少女がいた。
ブルーバード。
蒼い髪、蒼い目、そして背中には輝く蒼の羽根。
「名前は、トリだ」とシュレッケンは言った。
王は彼女に執着した。
その瞳は、もはや王妃クリ−クさえ映していなかった。
かつて自分のすべてを注いだはずの男が、
今は別の女に心を奪われている――
クリ−クの中に、燃えるような嫉妬が芽生えた。
トリは何も知らない顔で、無垢に微笑む。
自分に見向きもしないあの少女の存在が、王妃の誇りを踏みにじる。
(私の目の前から、消えてもらわなければ)
「もう王に愛など求めてはいないわ……けれど!」
王妃の瞳に、深紅の薔薇と同じ、毒の色が宿った。
「また、あの蒼い鳥に……トリなどという、取るに足らない名前の癖に……!」
その目は、宝石よりも冷たく、血よりも深く赤かった。
「タクティク。私に忠義を誓うなら、あの鳥を、引き裂きなさい。王が飽きる前に、私の手で終わらせるのよ」
「御意――お后様の紅の望み、必ず叶えましょう」