戦火に塗れたナハト王国。
シュレッケン=ナハトは王座に就いてからというもの、「力こそ正義」という苛烈な政治を敷いた。
従わぬ者には死を。血を流し、支配し、誰も逆らえぬ恐怖の王として君臨していた。
だがある夜、王の耳に妙な噂が入る。
「グリュック国の奥深くに、幸運と富をもたらす蒼い精霊がいる」
シュレッケンは最初、その噂を鼻で笑った。
富も地位も、美も、権力も――すでに手にしている。
だが、その“精霊”の噂が日を追うごとに奇妙な形で語られるようになる。
「それは青き翼を持つ美しき鳥――ブルーバード」
「彼女を見た者は魂を奪われる」
「欲深き者には決して微笑まない」
面白い。
シュレッケンはそう思った。
もはや国を治めるという行為にすら退屈していた彼は、百騎を従え、精霊の国――グリュックへ向かう。
グリュックは他の国とは違っていた。
空気には光が満ち、木々は囁き、風が笑っていた。
精霊たちの住まうその土地では、武器は鈍り、道は迷い、兵たちは夢を見るように歩いた。
多くの兵が森に取り込まれ、道を見失い、気づけば独りになっていた者もいた。
だが、シュレッケンだけは違った。
彼は剣を振るい、迷いを斬り、精霊の罠を力で踏み潰し、暴風の如く前進した。
そして、彼は辿り着いた。
大樹の頂に広がる青い光の泉――そこに佇むのは、蒼き翼、蒼き髪、蒼き瞳の少女。
柔らかく、冷たく、まるで空そのものが人の形を取ったような存在だった。
彼女が目を向けた瞬間、シュレッケンの心は何かに飲み込まれた。
それは恐怖でも怒りでもない。
ただ、その蒼に、心が触れたような――奇妙な、熱い痛み。
「お前が、ブルーバードか」
少女は答えない。
風が吹き、青い羽がはらりと舞った。
逃げようともしない。ただ、見つめる。
「……私に逆らわぬ者などいない。だが、お前は……」
王は、その感情が何なのかわからなかった。
欲しい、手に入れたい、閉じ込めてしまいたい。
だが、それが“愛”などという名を持つものだとは、まだ気づいていなかった。
シュレッケン=ナハトは少女を乱暴に抱き上げた。
「連れて帰る。お前は、私のものだ」
少女は声をあげなかった。ただその瞳に、深い哀しみのような、遠くを見つめるような光を宿していた。
ナハト王国の北端、王宮の影にそびえる古の塔。
誰も近寄らぬその場所に、ひとつの檻がある。
大きな鳥籠。
その中に、ひとりの少女が座っていた。
蒼い髪、蒼い目、蒼い翼――精霊の国グリュックから連れ去られた、ブルーバード。
だが今、彼女は王によって「トリ」と呼ばれていた。
鉄の格子の中で、トリは今日も空を見上げる。
外の空気に触れることはできず、誰とも会話を交わすことはない。
ただ、囁くように歌を紡いでいた。風も光も届かぬ塔で、彼女だけが時を紡いでいた。
その扉が、今日も乱暴に開かれる。
「……またそんな顔をしているのか」
現れたのは、シュレッケン=ナハト王。
鎧を纏わずともその存在は獣のような圧を放ち、鳥籠の中を威圧する。
トリは、静かに目を伏せるだけだった。
「私には決して、笑わぬ癖に……」
王の顔が歪む。
あの蒼の瞳が、自分以外の者に向ける微笑。
侍女に、通りすがりの兵士に、時には空の小鳥にさえ――そのやさしさを見せるのに。
自分には、何も向けてくれない。
「……トリ、笑ってみせろ。私にだけ、笑え!」
叫びながら王は鳥籠の中へ踏み込む。
トリの片翼を、力任せに引き上げた。
「なぜ、なぜだ……なぜ私には!」
バキッ、と嫌な音が空気を裂く。
トリの蒼い片翼が、根元から引き裂かれた。
苦悶の声が上がることはなかった。
だがトリの細い体は崩れ落ち、青い羽が血を滴らせて舞い散った。
王は、その羽をまじまじと見つめた。
血の付いた蒼い羽。
精霊の祝福を帯びた羽根は、彼の私室の壁に飾られることとなった。
宝石よりも、美酒よりも、彼にとって貴重な戦利品となった。
だが満たされぬ。
手に入れても、捕らえても、笑顔ひとつ向けられない。
「なぜ私には懐かぬ?」
その問いに、トリは答えない。
ただ静かに、痛みに耐えながら、空の彼方を見る。
シュレッケンの心に、燃えるような憎しみが渦巻いた。
嫉妬――その感情を、彼は知らなかった。
愛情――それが何か、理解すらできなかった。
彼は王だ。すべてを力で手にしてきた。
心を通わせるなどという、弱さのようなものは、知らぬまま生きてきた。
「だったら、お前を誰にも渡さぬ。誰にも、だ!」
そしてトリは、塔の最上階にあるこの鳥籠に閉じ込められた。
誰も触れられぬように。誰も言葉を交わせぬように。
王の目にだけ映るように。
その日から、塔の上には小さな灯りがともるようになった。
蒼い少女が、失われた空を見上げて歌う、囁くような旋律が、風に混ざって流れていた。
シュレッケン=ナハトは、怒りと哀しみに燃えながら、今日もその歌を聴いていた。
ただの音にしか聞こえないその歌が、なぜか心の奥に残って離れなかった。
それが“愛しさ”なのだと、彼が気づく日は――まだ遠い。