目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第3話 シュレッケン=ナハト

 戦火に塗れたナハト王国。


 シュレッケン=ナハトは王座に就いてからというもの、「力こそ正義」という苛烈な政治を敷いた。

 従わぬ者には死を。血を流し、支配し、誰も逆らえぬ恐怖の王として君臨していた。


 だがある夜、王の耳に妙な噂が入る。


「グリュック国の奥深くに、幸運と富をもたらす蒼い精霊がいる」


 シュレッケンは最初、その噂を鼻で笑った。

 富も地位も、美も、権力も――すでに手にしている。

 だが、その“精霊”の噂が日を追うごとに奇妙な形で語られるようになる。


「それは青き翼を持つ美しき鳥――ブルーバード」

「彼女を見た者は魂を奪われる」

「欲深き者には決して微笑まない」


 面白い。

 シュレッケンはそう思った。


 もはや国を治めるという行為にすら退屈していた彼は、百騎を従え、精霊の国――グリュックへ向かう。


 グリュックは他の国とは違っていた。

 空気には光が満ち、木々は囁き、風が笑っていた。

 精霊たちの住まうその土地では、武器は鈍り、道は迷い、兵たちは夢を見るように歩いた。


 多くの兵が森に取り込まれ、道を見失い、気づけば独りになっていた者もいた。

 だが、シュレッケンだけは違った。

 彼は剣を振るい、迷いを斬り、精霊の罠を力で踏み潰し、暴風の如く前進した。


 そして、彼は辿り着いた。


 大樹の頂に広がる青い光の泉――そこに佇むのは、蒼き翼、蒼き髪、蒼き瞳の少女。

 柔らかく、冷たく、まるで空そのものが人の形を取ったような存在だった。


 彼女が目を向けた瞬間、シュレッケンの心は何かに飲み込まれた。

 それは恐怖でも怒りでもない。

 ただ、その蒼に、心が触れたような――奇妙な、熱い痛み。


「お前が、ブルーバードか」


 少女は答えない。

 風が吹き、青い羽がはらりと舞った。

 逃げようともしない。ただ、見つめる。


「……私に逆らわぬ者などいない。だが、お前は……」


 王は、その感情が何なのかわからなかった。

 欲しい、手に入れたい、閉じ込めてしまいたい。

 だが、それが“愛”などという名を持つものだとは、まだ気づいていなかった。


 シュレッケン=ナハトは少女を乱暴に抱き上げた。


「連れて帰る。お前は、私のものだ」


 少女は声をあげなかった。ただその瞳に、深い哀しみのような、遠くを見つめるような光を宿していた。



 ナハト王国の北端、王宮の影にそびえる古の塔。

 誰も近寄らぬその場所に、ひとつの檻がある。


 大きな鳥籠。

 その中に、ひとりの少女が座っていた。

 蒼い髪、蒼い目、蒼い翼――精霊の国グリュックから連れ去られた、ブルーバード。

 だが今、彼女は王によって「トリ」と呼ばれていた。


 鉄の格子の中で、トリは今日も空を見上げる。

 外の空気に触れることはできず、誰とも会話を交わすことはない。

 ただ、囁くように歌を紡いでいた。風も光も届かぬ塔で、彼女だけが時を紡いでいた。


 その扉が、今日も乱暴に開かれる。


「……またそんな顔をしているのか」


 現れたのは、シュレッケン=ナハト王。

 鎧を纏わずともその存在は獣のような圧を放ち、鳥籠の中を威圧する。

 トリは、静かに目を伏せるだけだった。


「私には決して、笑わぬ癖に……」


 王の顔が歪む。

 あの蒼の瞳が、自分以外の者に向ける微笑。

 侍女に、通りすがりの兵士に、時には空の小鳥にさえ――そのやさしさを見せるのに。

 自分には、何も向けてくれない。


「……トリ、笑ってみせろ。私にだけ、笑え!」


 叫びながら王は鳥籠の中へ踏み込む。

 トリの片翼を、力任せに引き上げた。


「なぜ、なぜだ……なぜ私には!」


 バキッ、と嫌な音が空気を裂く。

 トリの蒼い片翼が、根元から引き裂かれた。


 苦悶の声が上がることはなかった。

 だがトリの細い体は崩れ落ち、青い羽が血を滴らせて舞い散った。


 王は、その羽をまじまじと見つめた。

 血の付いた蒼い羽。

 精霊の祝福を帯びた羽根は、彼の私室の壁に飾られることとなった。

 宝石よりも、美酒よりも、彼にとって貴重な戦利品となった。


 だが満たされぬ。

 手に入れても、捕らえても、笑顔ひとつ向けられない。


「なぜ私には懐かぬ?」


 その問いに、トリは答えない。

 ただ静かに、痛みに耐えながら、空の彼方を見る。

 シュレッケンの心に、燃えるような憎しみが渦巻いた。


 嫉妬――その感情を、彼は知らなかった。

 愛情――それが何か、理解すらできなかった。


 彼は王だ。すべてを力で手にしてきた。

 心を通わせるなどという、弱さのようなものは、知らぬまま生きてきた。


「だったら、お前を誰にも渡さぬ。誰にも、だ!」


 そしてトリは、塔の最上階にあるこの鳥籠に閉じ込められた。

 誰も触れられぬように。誰も言葉を交わせぬように。

 王の目にだけ映るように。


 その日から、塔の上には小さな灯りがともるようになった。

 蒼い少女が、失われた空を見上げて歌う、囁くような旋律が、風に混ざって流れていた。


 シュレッケン=ナハトは、怒りと哀しみに燃えながら、今日もその歌を聴いていた。

 ただの音にしか聞こえないその歌が、なぜか心の奥に残って離れなかった。


 それが“愛しさ”なのだと、彼が気づく日は――まだ遠い。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?