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第2話 ツイファ−

 空は灰色だった。

 太陽など、ここでは一度も見たことがなかった。


 豚小屋の中に、彼はいた。

 名を呼ばれた記憶はなかった。だが、ある時から他の子供たちが「ツイファー」と呼ぶようになった。汚れた小さな体、乾いた唇、骨のような腕――それが彼のすべてだった。


 ツイファーは、両親を知らなかった。生まれた時からこの豚小屋で、奴隷として扱われていた。他の子供たちも同じだった。だが、彼らの姿は日に日に減っていった。


 労働。折檻。飢え。病。


「生き残るのは、一番強い奴だけだ」

 そう教えてくれる者もいなかったが、自然と体がそれを理解していた。


 ある日、給餌の桶が一つしか落とされなかった。

 中にはかびたパンの欠片と、塩水のような汁。


「どけよ、ツイファー! それ、俺の分だ!」

「違う、俺が先に見た!」


 仲間の少年たちが手を伸ばす。ツイファーもその一つをつかもうとした。

 何が起きたのか、よくわからなかった。


 パンの欠片を掴んだと同時に、彼の手が誰かの頭を殴っていた。

 ぐったりと倒れた少年の顔は、二度と動かなかった。


 手が震えた。足も震えた。周囲の子供たちは何も言わず、目を伏せた。

 泣いていたのは、自分だけだったかもしれない。


「――お前、名前は」

 声がした。小屋の扉が開き、金属音とともに兵士の影が差し込む。


「……ツイファー、です」


「ふん、血の匂いを恐れぬ奴か。気に入った。ついてこい」


 ツイファーは、その日から労働奴隷ではなく、戦闘奴隷として扱われるようになった。


 剣は重かった。盾は痛かった。

 だが、痛みを超えた先にだけ、生き延びる術があると知った。


 戦場に出されたのは、十歳にもならぬ頃。仲間を斬り、敵を斬り、褒美をもらい、また斬った。

 冷たく鋭い瞳と、流れるような剣筋――いつしか「戦場の子狼」と呼ばれるようになった。


 そして数年。

 無数の血を浴び、彼はようやく「平民」という地位を与えられた。





「――よく来たな、ツイファ−」


 ナハト王国の玉座の間。巨大な王座の上に座るのは、巨躯の男。

 ナハト王国の現王だ。威風堂々とした態度に、家臣たちが膝をつく。


「お前の名は戦場で鳴り響いておる。奴隷の出でありながら、七十の戦に勝ち、生き延びた。そんな者はこの王国の歴史にもおらぬ」


「恐悦至極にございます、陛下」


 地に膝をつき、ツイファーは頭を下げた。

 しかしその心は冷え切っていた。王など恐れるものか。

 この男の背を越える、それだけのために生きてきたのだから。


 王は、にやりと笑い、玉座の脇に立つ一人の少女を示した。

 艶やかな黒髪、薄紅の唇。王の姫――高貴な血の象徴。


「次なる戦で我が王国が勝利すれば、お前にこの姫を与えよう。

 そして――王座も、お前に譲ってやる」


 ざわめく臣下たち。嘲笑する貴族たち。

 だがツイファ−は静かに頷いた。


「御意にございます、陛下」


 それから始まったのは、地獄のような戦争だった。


 敵国は、森と自然を重んじる民が住まう国ボッシュ。

 かつて深緑の森に守られ、風と精霊と共に生きていた民の国。

 森そのものが城壁であり、自然が守護者だった。

 金や鉄よりも、水と木と風を尊ぶこの国は、ナハト王国の膨張政策に最初に狙われた。


 だがボッシュの民は、精霊の力を借り、森を迷路に変え、奇襲と罠で幾度もナハトの兵を葬った。

「森は我らの刃、風は我らの矢」とうたいながら、森の戦士たちは矢を放ち、火を封じ、血を流させた。


 そのとき、ナハト軍の指揮をとっていたツイファ−であった。

 元奴隷でありながら無敗の将軍。

 彼は森の知恵を“炎”で焼き尽くす道を選んだ。


「森ごと、消せばいい」


 ボッシュ国の神木――巨きな命の象徴に火が放たれた。

 煙が空を覆い、精霊は姿を消し、森の戦士たちは自らの根を断ち切られた。

 抵抗運動は地下に潜ったが、ツイファ−の密偵と討伐隊に次々と狩られていった。


「ボッシュの炎」という名で語られツイファ−の冷酷さの象徴となった。


 だが最後の抵抗は、国が滅ぶその日にもあった。


 王都に迫るナハト軍の前に、ボッシュの弓兵たちが現れた。

 彼らは黒いマントに身を包み、最後の矢筒を携えていた。

 火を背に、倒れゆく国を背に――彼らは矢を空へ放った。


 それは、王に届くことのない怒りの矢。

 滅びの叫びを風に乗せて放つ、命がけの抵抗だった。


「我らは消えぬ。森が覚えている限り――ボッシュの名は残る」


 その言葉と共に、最後の森の民たちは斬られ、焼かれ、踏み潰された。

 国は滅び、地図からその名が消されても、

 ナハトの兵の中には今でも夜中に木々のざわめきを聞く者がいるという。


 ――ボッシュの森は、死してなお、恨みをささやき続けている。



 そして数日後、血に塗れた鎧をまとい、髪に灰と血を絡めたまま、彼は王宮に戻った。

 玉座の間の扉を蹴破り、跪くことなく進み出る。


「勝利をもって、参上した――王よ、約束のとおり、姫を。そして、王座を」


 だが王は笑った。重々しく立ち上がり、威圧の声で放った。


「何のことだ、ツイファ−。我はそのような戯れ言を口にした覚えはない。

 奴隷の出などが、王を名乗るなど――身の程を知れ!」


 一瞬、時が止まったようだった。


 そして次の瞬間、血が噴き出した。


 王の喉に剣が突き刺さっていた。玉座の間が悲鳴に包まれる。

 王の目に恐怖が宿るより早く、刃がその首を断った。


「――この王座は、約束によって得たものではない」


 ツイファ−はその首を掲げ、血に染まった足で玉座に登る。


「奪って得たものだ。弱者から、強者が」


 王冠を拾い、かぶる。


 その瞬間、新たな王が生まれた。

 血と怒りと誓いの中から生まれた、

 災厄の王――シュレッケン=ナハト。

 闇の中から生まれ、闇を喰らって生き延びた者。

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