私の世界は、赤かった。
血の色だった。
生まれたときから、私は“赤ずきん”と呼ばれていた。
赤い髪。赤い目。
誰も、私を名前で呼ばなかった。
村では、もともと赤は祝福の色だった。
結婚式も、祭りも、花嫁は赤ずきんを被った。
けれど私のそれは、血を吸った呪いの布だと、皆は笑った。
私が生まれた年、村に病が流行り、作物は実らなかった。
ただそれだけで、私の赤い髪と瞳は“厄災の証”にされた。
都合よく言い伝えに当てはめて。
「赤の子が生まれれば、村に災いが降る」と。
村人たちは私に石を投げた。
目を合わせたら不幸がうつると唾を吐き、
母は、私を汚い雑巾のように扱った。
私は、それが当たり前なんだと、飲み込むしかなかった。
――ただ一人。お婆さんだけが、私を「ルージュ」と呼んでくれた。
村の外れ、森のそばの小屋に住まわされていた、変わり者扱いの老女。
「気味が悪い」「昔からおかしかった」――そんな理由で、追いやられた人だった。
本当はもっと会いたかった。
けれど、母にバレれば怒鳴られる。
村人の目を避けるには、夜明け前や宵闇を選ぶしかなかった。
それでも、私は森の小道を抜けて、こっそり訪ねていた。
あの人の声だけが、優しかった。
あの人の手だけが、私を撫でてくれた。
なのに、お婆さんは、狼に食われた――と、村人たちは言った。
(どうして、私のたった一人のお婆さんまで、奪われるんだ)
私は、森へ行った。
お婆さんを殺したという狼を、殺すために。
恐れる理由なんて、もうどこにもなかった。
私にとって、失うものは何一つ残っていなかったのだから。
「ねぇ、いるんでしょ?」
お婆さんの家の近くで、私は呼びかけた。
狼は耳がいい、と聞いたことがあった。
──ガサリ。
少し離れた茂みが揺れ、大きな人影が現れる。
黒い毛並み。
長く垂れた尻尾。
黄金の瞳。
人よりも大きな背丈で、二本足で悠然と立っていた。
──こいつが、狼。
ただ黙って、こちらをじっと見ていた。
私は、怒りに任せて一歩踏み出し、拳を握りしめた。
その距離はまだ遠いのに、叫ばずにはいられなかった。
「なぜ、お婆さんを殺した……ッ!」
その瞬間。
空が、裂けた。
赤い光が、世界を呑み込んだ。
私も。狼も。
すべてが、赤く染まっていった。
そして、声が聞こえた。
『いいね、その顔』
誰かが、私に話しかけてきた。
姿は見えない。けれど、声は笑っていた。
『そんな目をする子、大好きだ』
(ふざけるな……私は狼を殺すんだ。邪魔をするな!)
『僕は神様だからね。面白そうだし、君に力をあげるよ。そして別の世界に招待してあげる。もっと面白くしてね』
『君だけじゃない。君が憎んでるヤツも、一緒に連れていってあげるそこで君の望むままに、壊していいよ』
(……あの狼も、私と同じ場所に?)
(なら、どこでもいい。狼を、どこまでも追って、殺す)
『いいねえ、どっちが先に壊れるか。楽しみだ』
赤い光が私を包んだ。
気づけば、私は知らない世界にいた。
***
知らない空。知らない人間たち。
神の仕業なのか、言葉はなぜか通じた。
異世界だろうが、どうでもよかった。
私は、狼を探した。
お婆さんを奪った憎い狼を。それ以外、私には意味がなかった。
最初に出会ったのは、この世界で“魔物”と呼ばれる獣だった。
村では「呪い」だと決めつけられていた私には、そんな力はないと信じていた。
でも──私は、その魔物を斬っていた。
知らない力が、私の中から湧き出し、私の手を、刃を、魔物の血に染めさせた。
(……これが、私の力?)
違う。 あの神だと名乗った声が、確かに言っていた。
『好きにしていい』と。
この力は、あいつが押しつけたもの。
自分が楽しむために。
なら、使ってやる。
この憎しみのままに。
私が魔物を倒すと、人々は地に伏して頭を垂れた。
「赤の乙女だ……!」
「伝説の、救世主様……!」
私は、何も変わっていないのに。
血を吸った私の力は、この世界では「神聖な祝福」と呼ばれた。
赤い髪も、赤いずきんも、「赤の乙女」だと跪かれた。
最初は、ただの噂だった。
やがて王と神殿が目をつけ、私に新たな称号を与えた。
──「赤の聖女」
それは祈りの象徴。神の意志を伝える器。
名も、意志も、差し出すことを求められた。
まるで、私自身が“物”になったようだった。
王も、聖職者も、私を「赤の聖女」と呼び、宝物のように飾り立てた。
誰も、私の名前すら知ろうとしなかった。
(私は、こんなもの求めてない)
(私が欲しいのは、お婆さんのように、私をちゃんと見てくれる人──名前を呼んでくれる人)
だけど私は、従った。
利用できるものは、利用する。
この世界で、狼を見つけるためなら、何でもする。
神殿で情報を集めた。
商人の話。奴隷商の噂。討伐報告。
そして──見つけた。
黒い獣人。黄金の瞳。
今、帝都の奴隷市で競売にかけられているらしい。
狼の獣人は、既に滅びたとされていた。
だからこそ、私は確信した。
──こいつだ、と。
私は、正面から奴隷市に乗り込んだ。
聖女の特権を使えば、誰も逆らえなかった。
「本日の目玉はこちら!北方の魔獣地帯で捕獲された、絶滅されたと噂される希少種の獣人──黒狼!」
会場がどよめき、歓声が上がる。
その中央、台の上に繋がれた鎖の先に、いた。
黒い毛並み。
黄金の瞳。
傷だらけの体。
──間違いない。
(ふふ……こうもあっさり会えるとはね)
牙も剥かず、黙ってこちらを見ていた。
その目は、冷たく、虚ろで、諦めたような光を湛えていた。
(何よ……なんで、そんな目で見るのよ)
(あんたは、お婆さんを殺したくせに……私を、無視していいわけない!)
私は、スッと手を挙げた。
「この奴隷、私が買うわ。──金貨五百枚」
場がざわめいた。けれど誰も反論しなかった。
私は“赤の聖女”だったから。
狼は、何も言わず、何も抵抗しなかった。
だからこそ、苛立った。
(いいわ。あんたが壊れるまで、私が飼ってやる)
(逃がさない。絶対に)
金貨袋を奴隷商に叩きつけると、狼は鎖を引かれ、私のもとへと引き渡された。
思っていたよりも、ずっと痩せていた。
でも、私は憐れまなかった。
(あんたは、これから私が飼い殺してやるんだから)
私は、生まれたときから、自由なんて与えられたことがなかった。
そして狼もまた、同じだった。
……このときの私は、それをまだ、知らなかった。