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第2話:鎖の檻と二人の距離

 屋敷の一室。

 贅沢すぎる装飾に囲まれた、無駄に広い私の部屋。

 その中央に、狼が座っていた。


 首には、奴隷の証でもある首輪。

 頑丈な鎖が壁の鉄環に繋がれている。


 だが、鎖に繋がれていても、その黄金の目だけは、どこまでも冷え切っていた。

 私が何をしても、決して屈しない。

 そんなことはわかってる。


 けれど私は、その目を睨み返した。ただの“獣”なんかじゃない──“彼”として、見据えていた。


 「……何よ。人間の言葉、話せるんでしょ?」


 当然のように問いかけると、狼はほんのわずかに目を細めた。


 「……森で会ったな」


 低く、抑揚のない声。

 まるで通りすがりの誰かにでも言うような、誰に対しても変わらぬ、温度のない声だった。


(森で、会った?──あんたが、私のすべてを奪ったくせに……!)


 怒りが再び煮えたぎる。


 「そうよ。森で、あんたは私のお婆さんを殺した!」


 狼──彼は、ほんのわずかに眉をひそめた。


 「知らない」


 「は……?」


 私の声が震えた。怒りか、悔しさか、自分でもわからない。

 けれど狼は、ただ淡々と告げた。


 「お前の言う“お婆さん”は、森の端で暮らしていた女か?」


 私は歯を食いしばった。


 「そうよ!……あんたが、あの人を殺したんでしょう!」


 だが、狼は静かに首を振った。


 「俺じゃない。直接は見ていない。だが、あの日、あの家の周りには村の奴らが大勢いた」


 「嘘つけ……! 村の奴らは、あんたがやったって……!」


 「そう言われただけだろう。お前は実際に見たのか?」


 「……見てない、けど……」


 言葉がかすれる。

 そのとき、心のどこかで思った。


 (あの村の連中なら……)


 お婆さんを追い出し、私に石を投げ、唾を吐きかけてきた奴ら。

 あの人たちなら、本当に、そんなことをしていても、おかしくない。


 (あの村で、優しくしてくれたのは……お婆さんしかいなかった)


 狼の言葉が、まるで嘘とは思えなかった。

 狼は、低く続けた。


 「俺は家の近くにいた。けど手は出さなかった。出せば、次は俺が殺される。……だから、高い枝から気配だけを探っていた」


 「……そんな……」


 「それにな」


 狼の視線が、鋭く私を射抜いた。


 「奴らは“次の贄”も決めていた。“赤ずきんの娘”──赤い髪の忌み子。赤い頭巾を被った、不吉な女だってな」


 「っ……!」


 「お前は村じゃ有名だったろう。俺の耳はいい。あいつらはお前を恐れていた。“次はお前を森の奥で捧げる”──そう言っていた」


 全身の血が引いていく。

 ぞわりと背骨を這う冷気。


 「嘘……」


 かすれた声が漏れた。

 狼の目は変わらない。冷たく、真実だけを突きつけてくる。


 「俺は、お前の村の人間には何も期待していない。お前のことも、狩るつもりはなかったけど、奴らは違う。“厄災”だと、決めつけていた」


 私は、崩れるようにその場に座り込んだ。


 (違う……違う、違う……!私は……あんたに奪われたと思って……)


 全身が震える。

 私は、何も知らなかった。

 お婆さんを奪ったのは、狼じゃなくて──


 「……私は……」


 言葉が零れかけたその時、狼が静かに告げた。


 「俺は、お前に買われたが、お前のものにはならない」


 その言葉が、胸を刺した。


 (だったら、私は何のためにここまで来た?復讐のために、ここまで来たのに──)


 「何と言おうが、あんたは私が買ったんだ。私のものよ。……私が、あんたを飼いならしてやる」


 この狼は、私が初めて「欲しい」と思って手に入れた存在だった。

 村では生きるために最低限のものしか与えられなかった。

 欲しがることすら、許されなかった。


 お婆さんはもういない。

 異世界に連れてこられ、村人に復讐することも叶わない。


 何もかもを失った私が手に入れた――初めての、“私だけのもの”。


 膝をついたまま、狼の鎖を握り締めた。


 (あんたは、私と同じ。人に奪われ、閉じ込められ、壊された存在。……私なら、わかってあげられる)


 「……いいわ。あんたが拒んでも、従いたくなるまで、私が大切に飼ってあげる」


 私は今まで「狼」としか呼んでこなかったが、この狼に名前はあるのだろうか?


 「そういや……あんた、名前とか、あんの?」


 狼は、わずかに目を細めた。


 「あるさ」


 「へぇ。じゃあ、何?」


 「教えない」


 きっぱりとした拒絶。

 だが、その瞬間、狼の目がほんの一瞬だけ伏せられた気がした。


 胸の奥をぎゅっと掴まれるような感覚に陥った。


 (……そう。別にいいわ。どうせあんたなんか、“狼”で十分)


 私は鎖を強く握り直した。


 「だったら、私があんたに名前をつけてやる」


 それは、どこまでも独りよがりで、歪んだ宣言だった。


 「私が飼うんだから、私が決める。あんたの名前も、居場所も、何もかも」


 狼は、何も返さなかった。

 その瞳は、空虚な金色だけを湛えていた。


 「私の狼――あんたの名前は、ノワールよ」




 その言葉は、私の中でずっと渇いていた場所に、ゆっくりと沈んでいった。


 黒。

 この世界で忌み嫌われる“黒”の象徴。

 私と同じ、差別される側。


 だから、ぴったりでしょ。

 私だけが呼んであげる。私だけの“黒”。

 他の誰にも知られなくていい。


 ……その瞬間から、あんたはもう“狼”じゃない。名前を与えた瞬間、“人”として意識してしまった自分がいた。


 (違う、そんなはずないのに)


 けれど、私はそう呼ばずにいられなかった。




 彼――ノワールとの生活は、静かだった。

 あまりにも静かで、私は満たされないままだった。




***




 王都の屋敷。贅沢すぎる部屋。

 その中心に、鎖で繋がれたノワール。

 私のもの。私が買った、私だけの狼。


 ……そう思い込みたかった。


 でも、ノワールはただ黙って座り、私を見返してくるだけだった。

 鎖を引いても、食事を与えても、声をかけても、何も変わらない。

 私がどれだけ優しくしても、彼は従わず、心も開かない。


 (違う。私は村人たちみたいに、あんたを痛めつけたりしない)


 (私は、あんたを“愛してやれる”。だって、私とあんたは同じだから)


 そう信じて、そう自分に言い聞かせた。

 なのに、この胸は、こんなにも苦しい。


 「……ほら、言いなさいよ」


 私は鎖を引き、顔を覗き込む。


 「“あなたが飼い主です”って。私が、あんたのご主人様だって、ちゃんと認めなさいよ」


 ノワールは何も言わなかった。

 その目は、相変わらず冷たく、遠かった。


 (あんたは、私に奪われるべきなのよ)


 (……違う。奪ったのは、あの村人たち。私は奪うんじゃない、“与えてる”んだ。なのに、どうしてあんたは、私を見てくれないの?)


 私は、ノワールの首元にそっと触れた。

 冷たい鉄の感触が、あの日の記憶を呼び起こす。

 差別され、追い出され、何もかもを奪われた日々。

 誰からも必要とされず、存在を否定されたあの日々。


 (……私は、違うはずなのに。なのに、なぜ……受け入れられないの?)


 私は、愛し方なんて知らない。


 ノワールの体を抱きしめる。

 彼は無感情に、それを受け入れるだけ。


 あたたかい。確かなぬくもりがある。

 でも、その体温は、私の胸の穴を埋めてはくれなかった。


 「……いいわ。あんたが何も言わなくても、あんたは私のもの。優しく、大事に、大事にしてあげる」


 独りよがりな囁きは、虚しく空気に溶けていった。

 ノワールは、手を払うこともなく、ただ冷たく私を見つめていた。


 (あんたも私も、誰にも必要とされなかった。だから、私が、あんたを必要とする。私がノワールを満たしてやる……そうすれば、きっと……)


 私は、彼に触れながら、気づかぬうちに歪んだ笑みを浮かべていた。




***




 久しぶりに、私は屋敷の外へ出た。

 目的は、ノワールの首輪を新調すること。


 今の鎖は、奴隷市で買った粗末なもの。

 もっと丈夫で、もっと“私だけの”ものに変えてやりたかった。


 ノワールを連れて行く必要はなかった。

 だけど、わざと連れて行った。


 (見せびらかしたいわけじゃない。……ただ、あんたが逃げないって、証明したかっただけよ)


 王都の通りを歩けば、誰もが私に跪く。

 赤の聖女。神の使い。──滑稽だ。


 ノワールは首輪を繋がれ、無言で私の後ろを歩いていた。

 誰よりも大きな体で、獣の耳と尾を持つノワール。

 珍しいと見られても、所詮は“化け物”扱い。


 それでも、ノワールは何も言わず、静かに従っていた。


 通りすがりの商人たちが、遠巻きにささやく。


 「……獣人の奴隷じゃないか?」


 「なんであんな化け物が聖女様の後ろに……不吉だな」


 「見ろよ、あの姿……気持ち悪ぃ」


 私は、ふと立ち止まった。

 胸が、ざらついた。


 こういう声には慣れていた。

 昔、村で私も、同じように言われていたから。


 だから、怒りでも悲しみでもなく──ただ、嫌だった。

 胸の奥に、冷たい泥のような感情がじわじわと溜まっていく。

 ノワールは、何も言わなかった。顔色ひとつ変えずに前を見ている。


 でも、私はわかっていた。

 ノワールは、ずっとこういう目を受け続けてきたのだ。

 私と同じように。──いや、私以上に。

 だからこそ、誰とも関わらず、森に隠れて生きていたのだろう。


 (……あんた、そんな顔して、何も感じてないはずないでしょ)


 私は、通りすがりの商人の一人に、ゆっくりと振り向いた。


 「──誰が、不吉だって?」


 商人たちは青ざめて、すぐに跪いた。


 「し、失礼を……!」


 「これが私のものだって、知らなかった?」


 「も、申し訳ありません……!」


 私は、ノワールの首輪を引き寄せ、無理やり顔を近づけた。

 ノワールは無表情のまま。

 だけど──ほんの一瞬、目が伏せられた気がした。


 「聞いたでしょ? この世界でも、あんたは“そう”見られるのよ」


 ──でも、私は違う。

 私は、あんたをそう見ない。あんたを、蔑まない。

 私は、誰よりもあんたを必要とできる。


 「覚えておきなさい。あんたを侮辱できるのは、私だけ。あんたを守れるのも、愛せるのも──私だけよ」


 商人たちはさらに震え上がる。

 ノワールはやはり、何も言わない。


 私は苛立ちのまま、彼を引き寄せ、耳を撫でた。


 (あんたが拒んでも、私のものにする。私だけのノワールに)


 その手で、彼の髪を執拗になぞる。

 まるで、自分の所有を刻み込むように。


 (そう。あんたが拒んでも、私はやめない。私が、あんたを“愛してやる”。あんたが望まなくても、私だけが、あんたを必要としてやる)


 誰よりも傷つけられてきたあんたを──

 誰よりも歪んだ形で、愛してやる。


 ノワールの耳は、震えもせず、ただ静かに私の手の中にあった。



***



 屋敷に戻った夜、私はノワールを、いつもの部屋の真ん中に座らせた。

 薄暗いランプの灯りの中、彼は鎖につながれ、無言で私を見返してくる。


 その目は、やっぱり何も映していなかった。

 私は苛立ちを抑えきれず、床に座り込む。


 「……ノワール」


 名前を呼んでも、ノワールは反応しない。

 私は、そっと耳に触れた。


 他の誰にも触らせやしない。

 私のノワール。彼は私の手から逃げることはなかった。


 ここだけは、私だけの場所。


 「ねぇ、わかってるよねあんたには、もう逃げ場所なんかないって」


 私は、彼の顔を両手で挟んだ。

 そのぬくもりだけが、私を確かにしてくれる。


 「あんたに、誰も手を差し伸べたりしない。この世界で、ノワールを必要とするのは──私だけなんだから」


 彼は何も言わない。

 ただ、静かにそこにいる。


 (そうだ。あんたには、私だけが世界)


 (私が、そうしてやる。私しか知らないように)


 「……私も、そうしてほしいんだよ」


 無意識だった。

 その瞬間、自分の声が震えているのに気づいた。


 きっと私は、誰かに必要とされたくて、仕方がなかった。

 それが、たとえ狼でも。


 ──ピクリ、と。


 ノワールの耳が、わずかに動いた気がした。

 その瞳の奥に、一瞬だけ、揺らぎのような光が灯った……ような気がした。

 でも、次の瞬間には、また何もなかったように、ただ静かにそこにいた。


 「だからさ。あんたが、私だけを見て、私だけに従って、私だけに牙を剥いてほしいんだよ」


 私は、彼の首元に顔を寄せた。

 ぬくもりが、ひどく遠かった。

 まるで私ひとりが空回りしてるみたいだった。


 「……あんた、私のものなんだから。わかってるよね?」


 その問いにも、ノワールは答えなかった。

 私は、わざと耳元で囁いた。


 「……あんたは、私の世界だけを生きる。それ以外、全部、忘れさせてやる。あんたは、私だけを見てればいいんだよ」


 気づかぬうちに、いちばん哀しい声をしていたのは、きっと私だった。

 ノワールは、ただじっと、変わらない黄金の瞳で私を見ていた。

 私は、その無表情すら、私だけのものにしたくて──

 彼の鎖を、強く引き寄せた。


 正しい愛じゃないかもしれない。

 でも、それが──私のすべてだった。


 ──あんたは、私だけのノワール。


 あんたは、私だけが許してやる。


 あんたは、私だけが、愛してやる。


 だから、もう……私以外、何も見ないで。


 「……ノワール。夢の中でも、私だけを見て」


 その夜、私はノワールの隣で眠った。

 鎖を巻いたまま。

 彼が逃げられないように。


 彼が、私だけしか見られないように。







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