屋敷の一室。
贅沢すぎる装飾に囲まれた、無駄に広い私の部屋。
その中央に、狼が座っていた。
首には、奴隷の証でもある首輪。
頑丈な鎖が壁の鉄環に繋がれている。
だが、鎖に繋がれていても、その黄金の目だけは、どこまでも冷え切っていた。
私が何をしても、決して屈しない。
そんなことはわかってる。
けれど私は、その目を睨み返した。ただの“獣”なんかじゃない──“彼”として、見据えていた。
「……何よ。人間の言葉、話せるんでしょ?」
当然のように問いかけると、狼はほんのわずかに目を細めた。
「……森で会ったな」
低く、抑揚のない声。
まるで通りすがりの誰かにでも言うような、誰に対しても変わらぬ、温度のない声だった。
(森で、会った?──あんたが、私のすべてを奪ったくせに……!)
怒りが再び煮えたぎる。
「そうよ。森で、あんたは私のお婆さんを殺した!」
狼──彼は、ほんのわずかに眉をひそめた。
「知らない」
「は……?」
私の声が震えた。怒りか、悔しさか、自分でもわからない。
けれど狼は、ただ淡々と告げた。
「お前の言う“お婆さん”は、森の端で暮らしていた女か?」
私は歯を食いしばった。
「そうよ!……あんたが、あの人を殺したんでしょう!」
だが、狼は静かに首を振った。
「俺じゃない。直接は見ていない。だが、あの日、あの家の周りには村の奴らが大勢いた」
「嘘つけ……! 村の奴らは、あんたがやったって……!」
「そう言われただけだろう。お前は実際に見たのか?」
「……見てない、けど……」
言葉がかすれる。
そのとき、心のどこかで思った。
(あの村の連中なら……)
お婆さんを追い出し、私に石を投げ、唾を吐きかけてきた奴ら。
あの人たちなら、本当に、そんなことをしていても、おかしくない。
(あの村で、優しくしてくれたのは……お婆さんしかいなかった)
狼の言葉が、まるで嘘とは思えなかった。
狼は、低く続けた。
「俺は家の近くにいた。けど手は出さなかった。出せば、次は俺が殺される。……だから、高い枝から気配だけを探っていた」
「……そんな……」
「それにな」
狼の視線が、鋭く私を射抜いた。
「奴らは“次の贄”も決めていた。“赤ずきんの娘”──赤い髪の忌み子。赤い頭巾を被った、不吉な女だってな」
「っ……!」
「お前は村じゃ有名だったろう。俺の耳はいい。あいつらはお前を恐れていた。“次はお前を森の奥で捧げる”──そう言っていた」
全身の血が引いていく。
ぞわりと背骨を這う冷気。
「嘘……」
かすれた声が漏れた。
狼の目は変わらない。冷たく、真実だけを突きつけてくる。
「俺は、お前の村の人間には何も期待していない。お前のことも、狩るつもりはなかったけど、奴らは違う。“厄災”だと、決めつけていた」
私は、崩れるようにその場に座り込んだ。
(違う……違う、違う……!私は……あんたに奪われたと思って……)
全身が震える。
私は、何も知らなかった。
お婆さんを奪ったのは、狼じゃなくて──
「……私は……」
言葉が零れかけたその時、狼が静かに告げた。
「俺は、お前に買われたが、お前のものにはならない」
その言葉が、胸を刺した。
(だったら、私は何のためにここまで来た?復讐のために、ここまで来たのに──)
「何と言おうが、あんたは私が買ったんだ。私のものよ。……私が、あんたを飼いならしてやる」
この狼は、私が初めて「欲しい」と思って手に入れた存在だった。
村では生きるために最低限のものしか与えられなかった。
欲しがることすら、許されなかった。
お婆さんはもういない。
異世界に連れてこられ、村人に復讐することも叶わない。
何もかもを失った私が手に入れた――初めての、“私だけのもの”。
膝をついたまま、狼の鎖を握り締めた。
(あんたは、私と同じ。人に奪われ、閉じ込められ、壊された存在。……私なら、わかってあげられる)
「……いいわ。あんたが拒んでも、従いたくなるまで、私が大切に飼ってあげる」
私は今まで「狼」としか呼んでこなかったが、この狼に名前はあるのだろうか?
「そういや……あんた、名前とか、あんの?」
狼は、わずかに目を細めた。
「あるさ」
「へぇ。じゃあ、何?」
「教えない」
きっぱりとした拒絶。
だが、その瞬間、狼の目がほんの一瞬だけ伏せられた気がした。
胸の奥をぎゅっと掴まれるような感覚に陥った。
(……そう。別にいいわ。どうせあんたなんか、“狼”で十分)
私は鎖を強く握り直した。
「だったら、私があんたに名前をつけてやる」
それは、どこまでも独りよがりで、歪んだ宣言だった。
「私が飼うんだから、私が決める。あんたの名前も、居場所も、何もかも」
狼は、何も返さなかった。
その瞳は、空虚な金色だけを湛えていた。
「私の狼――あんたの名前は、ノワールよ」
その言葉は、私の中でずっと渇いていた場所に、ゆっくりと沈んでいった。
黒。
この世界で忌み嫌われる“黒”の象徴。
私と同じ、差別される側。
だから、ぴったりでしょ。
私だけが呼んであげる。私だけの“黒”。
他の誰にも知られなくていい。
……その瞬間から、あんたはもう“狼”じゃない。名前を与えた瞬間、“人”として意識してしまった自分がいた。
(違う、そんなはずないのに)
けれど、私はそう呼ばずにいられなかった。
彼――ノワールとの生活は、静かだった。
あまりにも静かで、私は満たされないままだった。
***
王都の屋敷。贅沢すぎる部屋。
その中心に、鎖で繋がれたノワール。
私のもの。私が買った、私だけの狼。
……そう思い込みたかった。
でも、ノワールはただ黙って座り、私を見返してくるだけだった。
鎖を引いても、食事を与えても、声をかけても、何も変わらない。
私がどれだけ優しくしても、彼は従わず、心も開かない。
(違う。私は村人たちみたいに、あんたを痛めつけたりしない)
(私は、あんたを“愛してやれる”。だって、私とあんたは同じだから)
そう信じて、そう自分に言い聞かせた。
なのに、この胸は、こんなにも苦しい。
「……ほら、言いなさいよ」
私は鎖を引き、顔を覗き込む。
「“あなたが飼い主です”って。私が、あんたのご主人様だって、ちゃんと認めなさいよ」
ノワールは何も言わなかった。
その目は、相変わらず冷たく、遠かった。
(あんたは、私に奪われるべきなのよ)
(……違う。奪ったのは、あの村人たち。私は奪うんじゃない、“与えてる”んだ。なのに、どうしてあんたは、私を見てくれないの?)
私は、ノワールの首元にそっと触れた。
冷たい鉄の感触が、あの日の記憶を呼び起こす。
差別され、追い出され、何もかもを奪われた日々。
誰からも必要とされず、存在を否定されたあの日々。
(……私は、違うはずなのに。なのに、なぜ……受け入れられないの?)
私は、愛し方なんて知らない。
ノワールの体を抱きしめる。
彼は無感情に、それを受け入れるだけ。
あたたかい。確かなぬくもりがある。
でも、その体温は、私の胸の穴を埋めてはくれなかった。
「……いいわ。あんたが何も言わなくても、あんたは私のもの。優しく、大事に、大事にしてあげる」
独りよがりな囁きは、虚しく空気に溶けていった。
ノワールは、手を払うこともなく、ただ冷たく私を見つめていた。
(あんたも私も、誰にも必要とされなかった。だから、私が、あんたを必要とする。私がノワールを満たしてやる……そうすれば、きっと……)
私は、彼に触れながら、気づかぬうちに歪んだ笑みを浮かべていた。
***
久しぶりに、私は屋敷の外へ出た。
目的は、ノワールの首輪を新調すること。
今の鎖は、奴隷市で買った粗末なもの。
もっと丈夫で、もっと“私だけの”ものに変えてやりたかった。
ノワールを連れて行く必要はなかった。
だけど、わざと連れて行った。
(見せびらかしたいわけじゃない。……ただ、あんたが逃げないって、証明したかっただけよ)
王都の通りを歩けば、誰もが私に跪く。
赤の聖女。神の使い。──滑稽だ。
ノワールは首輪を繋がれ、無言で私の後ろを歩いていた。
誰よりも大きな体で、獣の耳と尾を持つノワール。
珍しいと見られても、所詮は“化け物”扱い。
それでも、ノワールは何も言わず、静かに従っていた。
通りすがりの商人たちが、遠巻きにささやく。
「……獣人の奴隷じゃないか?」
「なんであんな化け物が聖女様の後ろに……不吉だな」
「見ろよ、あの姿……気持ち悪ぃ」
私は、ふと立ち止まった。
胸が、ざらついた。
こういう声には慣れていた。
昔、村で私も、同じように言われていたから。
だから、怒りでも悲しみでもなく──ただ、嫌だった。
胸の奥に、冷たい泥のような感情がじわじわと溜まっていく。
ノワールは、何も言わなかった。顔色ひとつ変えずに前を見ている。
でも、私はわかっていた。
ノワールは、ずっとこういう目を受け続けてきたのだ。
私と同じように。──いや、私以上に。
だからこそ、誰とも関わらず、森に隠れて生きていたのだろう。
(……あんた、そんな顔して、何も感じてないはずないでしょ)
私は、通りすがりの商人の一人に、ゆっくりと振り向いた。
「──誰が、不吉だって?」
商人たちは青ざめて、すぐに跪いた。
「し、失礼を……!」
「これが私のものだって、知らなかった?」
「も、申し訳ありません……!」
私は、ノワールの首輪を引き寄せ、無理やり顔を近づけた。
ノワールは無表情のまま。
だけど──ほんの一瞬、目が伏せられた気がした。
「聞いたでしょ? この世界でも、あんたは“そう”見られるのよ」
──でも、私は違う。
私は、あんたをそう見ない。あんたを、蔑まない。
私は、誰よりもあんたを必要とできる。
「覚えておきなさい。あんたを侮辱できるのは、私だけ。あんたを守れるのも、愛せるのも──私だけよ」
商人たちはさらに震え上がる。
ノワールはやはり、何も言わない。
私は苛立ちのまま、彼を引き寄せ、耳を撫でた。
(あんたが拒んでも、私のものにする。私だけのノワールに)
その手で、彼の髪を執拗になぞる。
まるで、自分の所有を刻み込むように。
(そう。あんたが拒んでも、私はやめない。私が、あんたを“愛してやる”。あんたが望まなくても、私だけが、あんたを必要としてやる)
誰よりも傷つけられてきたあんたを──
誰よりも歪んだ形で、愛してやる。
ノワールの耳は、震えもせず、ただ静かに私の手の中にあった。
***
屋敷に戻った夜、私はノワールを、いつもの部屋の真ん中に座らせた。
薄暗いランプの灯りの中、彼は鎖につながれ、無言で私を見返してくる。
その目は、やっぱり何も映していなかった。
私は苛立ちを抑えきれず、床に座り込む。
「……ノワール」
名前を呼んでも、ノワールは反応しない。
私は、そっと耳に触れた。
他の誰にも触らせやしない。
私のノワール。彼は私の手から逃げることはなかった。
ここだけは、私だけの場所。
「ねぇ、わかってるよねあんたには、もう逃げ場所なんかないって」
私は、彼の顔を両手で挟んだ。
そのぬくもりだけが、私を確かにしてくれる。
「あんたに、誰も手を差し伸べたりしない。この世界で、ノワールを必要とするのは──私だけなんだから」
彼は何も言わない。
ただ、静かにそこにいる。
(そうだ。あんたには、私だけが世界)
(私が、そうしてやる。私しか知らないように)
「……私も、そうしてほしいんだよ」
無意識だった。
その瞬間、自分の声が震えているのに気づいた。
きっと私は、誰かに必要とされたくて、仕方がなかった。
それが、たとえ狼でも。
──ピクリ、と。
ノワールの耳が、わずかに動いた気がした。
その瞳の奥に、一瞬だけ、揺らぎのような光が灯った……ような気がした。
でも、次の瞬間には、また何もなかったように、ただ静かにそこにいた。
「だからさ。あんたが、私だけを見て、私だけに従って、私だけに牙を剥いてほしいんだよ」
私は、彼の首元に顔を寄せた。
ぬくもりが、ひどく遠かった。
まるで私ひとりが空回りしてるみたいだった。
「……あんた、私のものなんだから。わかってるよね?」
その問いにも、ノワールは答えなかった。
私は、わざと耳元で囁いた。
「……あんたは、私の世界だけを生きる。それ以外、全部、忘れさせてやる。あんたは、私だけを見てればいいんだよ」
気づかぬうちに、いちばん哀しい声をしていたのは、きっと私だった。
ノワールは、ただじっと、変わらない黄金の瞳で私を見ていた。
私は、その無表情すら、私だけのものにしたくて──
彼の鎖を、強く引き寄せた。
正しい愛じゃないかもしれない。
でも、それが──私のすべてだった。
──あんたは、私だけのノワール。
あんたは、私だけが許してやる。
あんたは、私だけが、愛してやる。
だから、もう……私以外、何も見ないで。
「……ノワール。夢の中でも、私だけを見て」
その夜、私はノワールの隣で眠った。
鎖を巻いたまま。
彼が逃げられないように。
彼が、私だけしか見られないように。