ノワールの生活には、音がなかった。
重い鎖の擦れる音、息遣い、布が揺れる気配──それ以外のすべてが、沈黙していた。
彼は無言のまま、鎖の範囲内で淡々と動くだけ。
命令には従い、食事も取る。けれど、そこに“心”は、どこにもなかった。
私は、それが歯がゆくて、つらくて、悔しかった。
(どうして。あんたも、私と同じく、壊れた存在のはずなのに)
私は、心を暴こうとする。何度も、何度も。
「ノワール。……あんたは、本当に何も思わないの?」
声をかけたのは、食事を下げた直後だった。
空になった皿を前に、ノワールは静かに口を拭いていた。
「私のこと、どう思ってるの。飼い主?主?……それとも、敵?」
ノワールは顔を上げた。
その目は、やっぱり濁っていた。けれど、その中に――わずかに影が揺れた。
「……わからない」
「わからないって、何がよ」
「お前が、優しいのか、狂ってるのか」
私は言葉を失った。
でも、否定する言葉は浮かばなかった。
優しいふりをしている。
でも、やっていることは、村人と何が違うのか。
(私だけが、違うと思いたかっただけ)
「そう。……どっちも、正しいわよ」
苦笑がこぼれる。
「私はね、優しくて、狂ってるの。……優しくしてるのに、あなたを繋いでる。だって、あんたが私を見てくれないのが、嫌でたまらないんだもの」
そのときだった。
ノワールが、少しだけ視線を伏せた。
私は、ゆっくりと手を伸ばす。
彼の頬に触れ、額を寄せた。
「……私は、傷を見せたくないの。ずっと隠してた。お婆さんが死んで、全部壊れたって思って……でも、ほんとは違った」
ノワールの呼吸が、微かに震えた。
私はそれに気づいて、静かに言う。
「私の中で一番深い傷は、“愛されたかったのに、愛されなかった”ってことよ。ノワール。……あんたも、そうなんじゃない?」
ノワールの手が、かすかに動いた。
でも、私には触れなかった。
それが、逆にやるせなかった。
「……いいわ。今すぐじゃなくても。でも、いつか。あんたの傷を、私の手で塞いでみせる。だからそれまで……逃げないで。ここにいて」
ノワールは、何も答えなかった。
だけどその目は、いつかよりほんの少しだけ、温度を取り戻していた気がした。
***
その日は、王都の大司教との謁見が予定されていた。
表向きは、聖女としての儀式的な交流。 けれど実際には、権力者たちが“赤の聖女”をどう扱うかを測るための、試金石のような場だった。
「随分と、珍しい従者をお連れですね」
厳かな壇上で、大司教は白い仮面の奥からそう言った。
指先を揃えて、ノワールを見下ろす。
「聖女様にふさわしいのは、気高く、清らかな存在であって。そのような、忌むべき獣を傍に置くというのは……いささか、聖性に影を落としはしませんか?」
「神意、ですか?」
私は笑っていた。
「ええ。あなたに与えられた力は“神の祝福”。ならば、その力を穢すような“情”に流されるのは、神への冒涜かと」
「情?」
私の声が冷えた。
「そう、情です。聖女様は時に“人間味”を見せすぎる。先日も、街で“あのような獣”の耳を撫でておられたとか。……聖女とは、そうした感情を超越した存在であるべきでは?」
(──超越。感情を捨てた偶像になれって言うのね)
その時だった。
──ガシャン
鎖の音が跳ねた。 ノワールが、一歩、前へ出た。
「ノワール……?」
名を呼んだ瞬間、ノワールの低い声が響いた。
「……貴様に、ルージュを語る資格はない」
仮面の奥で、大司教の表情がわずかに揺れる。
周囲の神官たちもざわめきかけたが──誰一人、口を開けなかった。
ノワールの声は、まるで聖域を踏みにじる咆哮のように、堂内に響いていた。
「貴様らが、彼女の何を知ってる。彼女がどれだけのものを背負ってきたか、知らずに“神”だの“清らかさ”だの、上っ面だけで決めるな」
私は、言葉を失った。
ノワールが、私の名前を呼んだ。
あの、誰にも心を見せなかったノワールが。
私を――“守ろう”としている?
「……ノワール」
彼がこちらを向いた。
その黄金の瞳には、はじめて明確な色があった。
怒り、痛み、そして――強い、意思。
私は、胸の奥が、ぎゅっと掴まれたような気がした。
「私の……ために?」
「……お前だけが、“俺を人間として見た”」
それだけを言って、ノワールは静かに私の背後へ戻った。
自分の意志で、檻の中に戻るように。
その姿が、あまりにも強くて、哀しかった。
堂内には、誰ひとり言葉を発せぬまま、沈黙だけが流れていた。
大司教は仮面の奥で何かを呑み込み、手をひらりと振る。──すべてが静まり返ったまま、謁見の幕は引かれた。
外の空気は冷たく、けれどその静けさが、今はありがたかった。
私たちは何も言わず、屋敷へと戻った。
***
その夜、部屋に戻ったノワールは、窓辺の影に座っていた。
鎖の先に繋がれた彼の姿が、なぜか今は、檻の中の囚人には見えなかった。
でも今、この瞬間だけは、ノワールのほうが、私よりずっと自由だった。
(あんたのその牙が、私を選んでくれたなら――)
外では誰にも見せない涙が、そっと頬を伝った。
ノワールの目が、少しだけ揺れた。
……きっと。その奥に、何かが隠れてる。
私と同じように、誰にも言えず、しまい込んできた痛みが。
「ノワール。……いつか、教えて。あんたが、どうしてそんな目をするのか。そんなに何も望まないふりをするのか」
私はただ、真っすぐに願っていた。
「私はあんたの全部を欲しがる。だから、隠さないで」
ノワールはしばらく沈黙していた。けれど、そのあと……
彼はゆっくりと視線を落とし、小さく息を吐いた。
「……話すつもりなんてなかったが」
その声は、これまでよりも少しだけ低く、けれど静かで、確かに“彼の声”だった。
彼が何かを語ろうとしている。
それだけで、胸が痛くなるほど強く脈打った。
私は、ただ、息をひそめて彼の言葉を待った。
彼が、ついに、心の奥を少しだけ見せようとしているのだと気づいたからだ。
「お前が俺の全部を欲しいと言うなら。……それなら、少しだけ聞いてくれ」
ノワールの言葉に、私は黙って頷いた。
急かせば壊れてしまいそうで、余計な言葉は挟めなかった。
彼は、ランプの揺れる灯りをじっと見つめながら、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「……母は、森で“狼”に恋をした女だった」
その言葉に、私は目を見開く。
「父は俺よりも獣に近い姿だった。誰もが馬鹿にした。獣に身を任せた女だって。……でも、母は、森に通い続けたらしい。 そして俺を身籠った。人の姿をしてるけど、耳と尻尾を持つ“混ざりもの”として」
ノワールの手に、私はそっと触れた。
彼は、それを振り払わなかった
「母は、俺を産んですぐに死んだ。……俺には顔すら知らない。 家にいた人間たちは、俺を“呪い”だと言った。人間の皮を被った獣だと」
その声は、静かで、だからこそ痛みが滲んでいた。
「家族は、ただ義務で置いていただけだった。温もりなんて、最初からなかった。 だから俺は、小さな頃に、森に逃げた。……父がいるはずの森に」
私は息を呑んだ。
「父は、そこにいた。獣の姿をしていたけど、俺を“息子”だと認めてくれた。 森の中で、ふたりで暮らした。……穏やかで、静かな日々だった」
ノワールはそこで、少しだけ唇を噛んだ。
「でも、俺が熱を出して動けなくなった時……父は、人間の里に薬を取りに行った。 そして、戻ってこなかった」
私は、彼の手を強く握った。
ノワールはそれを受け入れ、少しだけ目を伏せた。
「人間たちは、俺の父を“魔物”として殺した。 何も奪わず、何も壊さず、ただ薬を求めに来ただけの、優しい獣を」
ランプの明かりが、ゆらりと揺れる。
「それからは、誰も信じなかった。期待しなければ、失わずにすむと思ってた。 森の中で静かに暮らせば、それでいいと……そう思ってた」
ノワールは、私を見た。
「――お前に会うまでは」
その目に、ようやく、色があった。
痛みと、戸惑いと、そして、微かな光。
「人に求められた事なんてない。……だから、今もまだ、怖いんだ」
私の胸の奥が、きゅう、と締めつけられた。
ノワールの声は淡々としていたのに、私は、痛いくらいその孤独を想像していた。
あの冷たい瞳の奥に、どれだけの時間、どれだけの孤独が眠っていたのだろう。
だから、私は言った。
「……じゃあ、あんたがずっと閉じこもってたその世界、私が壊してあげる」
ノワールは、少しだけ目を見開いた。
私は、ノワールの手を、そっと強く握った。
「もう一人じゃなくていい。あんたが閉じこもるなら、私がその檻の中に入ってあげる」
囁くように告げると、ノワールは少しだけ目を伏せて言った。
「……囚われるぞ、俺に」
その低く苦い声に、私は小さく笑った。
「いいじゃない。それに、もう私は、あんたと鎖で繋がれてるんだからお相子よ」
ノワールは黙ったまま、私の顔を見つめた。
その目が、初めて、ほんの少しだけ――優しく、揺れた気がした。
(ああ、やっと、あんたの傷口に触れられた)
(あんたの檻の中に、ほんの少しだけ、私の居場所ができた気がする)
そして、静かに──彼が言った。
「……本当の名前が、ある」
私は、わずかに息をのんだ。
「けど、もう呼ぶ人もいないし……俺は、お前のものなんだから。 “ノワール”で、いい」
その声に、偽りはなかった。
それは名を捨ててでも、今の関係に身を委ねる覚悟の声だった。
私は、ゆっくりとその名を口にした。
「ノワール……」
彼は、微かに目を伏せて、頷いた。
この夜の静けさだけは、嘘じゃなかった。
***
翌朝、私は少しだけ早く目を覚ました。
薄明かりの差し込む部屋で、ノワールは、私の腕に頭を預けて眠っていた。
その寝息は静かで、乱れはない。
まるで、ようやく眠ることを許された子どものように。
(……このまま、時間が止まればいいのに)
そう思ってしまう自分がいた。
彼の心に触れた夜。
すべてが解けたわけじゃない。
だけど、ほんの少しだけ、あの冷たい瞳に「私」が映った気がした。
私は、そっと指先でノワールの髪を撫でる。
「ノワール……」
名前を呼ぶと、彼のまつげがかすかに震えた。
目覚めた彼は、ぼんやりとした目で私を見上げて、しばらく黙っていた。
その無言が、今はもう怖くなかった。
やがて、ノワールは低く、けれど確かに言った。
「……昨日の話。お前は、後悔しないのか?」
「なにを?」
「俺の過去を聞いても。……一緒にいると、きっと巻き込まれる。この世界でも俺は同じだ」
「巻き込まれてるわよ、もう。今さら何よ。それに、私だって大概よ?」
私は笑う。
「……あんたの檻の中に入ったのは、私の意思よ。私の居場所は、もうここにしかないの」
ノワールは、ほんの少しだけ視線を逸らした。
その仕草が、人間らしくて、愛おしいと思ってしまう。
「……わからない。お前が、何を見ているのか」
「それでいい。わからないなら、私が教えてあげる。私はあんたのことを、ずっと見てる。だから、安心していいのよ」
ノワールの喉がわずかに鳴った。
けれど、何も言わず、ただ手を伸ばして、私の指に触れた。
軽く、微かに触れただけのその仕草に、心臓が痛くなるほど跳ねる。
(ああ、これが、はじめての──)
求められる感覚。
たとえわずかでも、この瞬間だけは、ノワールの中に私がいた。
「……なぁ、ルージュ」
ノワールが私の名を呼ぶ。
それだけで満たされる。
「……なんでもない」
ノワールはそう言って、また目を閉じた。
私は、その名前を呼んだ声だけを胸に刻んで、彼の手を包み込んだ。
(大丈夫。
私はもう、誰にも奪わせない。
あんたを、私の中に閉じ込めてやる。今度は優しく、あたたかく)
私の檻に、あんたを閉じ込める。
でもきっとそれは、あんたの檻でもあって、私の居場所でもある。
この共鳴が、壊れてもいい。
静かに、眠るノワールの頬に自分の額を寄せる。
やっと触れられた心の奥に、自分のぬくもりを刻みつけるように。
その夜、私ははじめて、ノワールと“対等な夢”を見た気がした。