ノワールの唇から、私の名前がこぼれた――たったそれだけのことなのに、胸の奥が震えた。
それだけのことで、私は――壊れてしまいそうだった。
心臓が何度も、苦しいほど脈打つ。
それが、どれほどの意味を持っているのかも、彼自身はわかっていなかったのかもしれない。
けれど、あの瞬間、確かに私の中で、何かが音を立てて崩れた。
(“ルージュ”って、名前を)
(私は、ずっと名前を呼ばれたかっただけなのに)
前の世界は私を赤ずきんと呼んだ。
“呪い”と呼んだ。
“厄災”と呼んだ。
この世界は、私を“赤の乙女”と呼んだ。
“聖女”と呼び、
“象徴”と呼んだ。
どちらの世界でも──お婆さん以外は誰も、私を「ルージュ」とは呼ばなかった。
でもノワールは、私の名前を、私の存在を、まっすぐに呼んでくれた。
彼は――私を、私として見てくれた。
それが、どんな拙く不器用なものであっても。
朝の静かな空気の中、私はノワールの頭をそっと撫でる。
「……名前で呼ばれるって、こんなに嬉しいんだね」
「……そうだな」
「でも、あんたはずっと、私の声を無視してたじゃない」
ノワールは、微かに眉を動かした。
そして、戸惑い混じりに呟いた。
「……すまない」
その一言が、あまりにも不器用で、あまりにも優しかった。
私は、膝に崩れ落ちそうな衝動を、なんとか押しとどめた。
「……ねえ、ノワール」
「なんだ」
「私ね、あんたを壊してしまいたいくらい、愛してるの」
ワールの目が揺れた。怯えでも怒りでもなく、ただ――理解できないという色。
それでも、彼はもう拒絶しなかった。
「それは……愛なのか?」
「知らない。でも、きっとこれが、私なりの愛なんだと思う」
歪んでいても、偏っていても。
私の感情は、全部ノワールに向いていた。
執着で、依存で、独占で、恋で、哀しみで、寂しさで、渇望で――すべて。
「ねえ、ノワール。お願い。今だけは、そばにいて」
ノワールは、何も言わずに、私の隣に座った。
そして、鎖の音が小さく鳴った。
私はその音に、奇妙な安堵を感じた。
まるで、それが私たちをつなぐ“絆”のように思えた。
あんたを閉じ込めてるのに、
あんたに閉じ込められてるのは、きっと私のほうだった。
私は、静かに目を閉じた。
(壊してしまいたいくらい、愛してる)
(だけど、本当は――)
私はまだ、あんたの声が欲しい。
あんたの体温が欲しい。
あんたの心が、欲しい。
この世界で、たった一人、私を名前で呼んだ、ノワールが欲しい。
***
謁見から数日後の夜、ノワールは珍しく自分から望む言葉を発した。
「……海を、見てみたい」
「……は?」
私は、思わず聞き返した。
彼は静かに視線を下げたまま、続けた。
「父が言ってた。父と過ごしたのは短い期間だったが、何度も寝る前に話してくれたんだ。“海ってのは、どこまでも広くて、空と混ざるほど青い”って」
その目は、夢を見るようにどこか遠くを見つめていた。
「でも、俺は自由に出歩くことなんて出来ないから……見たことないんだ。海なんて」
それは、檻の中で生きてきた獣の、ささやかな願い。
私は、言葉に詰まった。
元の世界では普通の人であるなら行けない距離ではなかった。
でも――
「……私も、見たことないよ。海」
ノワールが、少し驚いたようにこちらを見る。
「村人や、旅商人の話で聞いたりはあったけど……実際には、行ったことない」
私たちは、ただ“閉じ込められてきた”んだ。
檻の中に。差別の中に。呪いの言葉の中に。
「……いいよ。あんたが見たいなら、行こう」
自分で言って、少し驚いた。
私はずっと、ノワールを“私のもの”として閉じ込めてきたのに。
彼の望みを叶えてやりたいと思った。
私は“世界を一緒に見る相手”になりたかった。
「でも、逃げたら鎖、倍にするからね?」
ノワールは、わずかに口元を動かした。
それは……たぶん、笑いかけていた。
***
旅に出るなんて、いい顔はされないだろう。
聖女が、奴隷を連れて屋敷を離れるなど、噂にでもなれば面倒なことになる。
だけど、私はそれを押し通した。
赤の乙女。聖女。救世主。
――そんな称号、利用するために背負ってきたんだ。
今までも、国が求める役割をこなすふりをして、私は何度も外に出てきた。
各地の祭礼に顔を出し、神殿の代理として民の声を聞き、祝福を与える。
そのすべての“建前”の裏で、私は狼――ノワールを探していた。
(つまり、あたしの目的は最初から変わってない)
だから今回も、その続きみたいな顔をして、屋敷を離れた。
ただ、傍らに、ノワールがいるだけで。
――そう、それだけ。
でも、それだけなのに、今までとは見える景色が違う気がした。
「これ、持った?」
「……ああ」
私が差し出した小さな包みを、ノワールは静かに受け取った。
中身は乾燥果物と硬めのパン、それから非常用の治癒薬。
「それにしても……あんた、本当に何もいらないのね?荷馬車も嫌がるし」
「……必要がなかった。今まで、乗ったことがない」
森の中を、一人で生き延びてきた獣人。
木々の間を走り、岩を飛び越え、誰の助けも借りず生きてきた存在に、旅の道具なんて、そもそも無縁だった。
「そりゃ、馬より速いかもしれないけど……」
私はノワールの肩についた埃を払ってやる。
すると、ノワールは一瞬、ぴくりと耳を動かした。
だけど、それ以上何も言わなかった。
(少しずつでいい。こうして触れて、慣れてくれれば)
私は、ノワールの横顔を盗み見る。
鎖は、もうつけていない。
逃げないノワールの隣を歩くことが、少しだけ誇らしかった。
「ねえ、ほんとに見たいの? 海」
私がそう聞くと、ノワールは、ゆっくりと頷いた。
「父は昔、海を見たことがあると言っていた。限りなく広くて、どこまでも青い場所だと。見れば世界が変わると」
「へぇ……そんなに凄いんだ」
一人なら見に行こうなんて思わなかっただろう。
彼が望むから、私も見たいと思うのだ。
「……じゃあ、出発しようか」
ノワールは小さく頷く。
旅の準備は万端。
これから、海を目指して進むだけ。
その行き先がどれだけ遠くても、私は後ろを振り返らない。
(あたしが欲しいのは、あんたと見る世界だ。あたし一人じゃ、意味がない)
赤の乙女も、聖女も、救世主も。
そんな肩書きなんか、どうでもいい。
ノワールと並んで歩く、その一歩が、今の私にとって何よりも大事だった。
***
海は、すべてを飲み込むように広がっていた。
空よりも青く、空よりも深くて、果てがない。
風が波を運び、波が砂を撫でて、それでも尽きることなく打ち寄せてくる。
私も、ノワールも、しばらく何も言えなかった。
立ち尽くして、ただその景色に、目も心も奪われていた。
「……これが、海か」
ノワールの声が、震えていた。
無口で、いつも表情の乏しい彼から感情が伝わってくる。
「……すごいわね。本当に、どこまでも続いてる」
私も、その景色に胸をさらわれたような気がした。
風が髪を煽り、波の音がすべてを覆う。
──綺麗、だけじゃない。
この“広さ”に触れて、初めて、世界はこんなにも広くて、自分はこんなにも小さいんだと思い知らされる。
けれど、それが怖くはなかった。
「……俺の父が言ってたとおりだ。海は、本当に、すべてを包んでくれる」
横に立つノワールの横顔が、まるで子供のようだった。
いつも冷静で、何も求めないような顔しか見せなかった彼が、いまはただ、目を見開いて、夢を見た少年のようにそこにいた。
「……ノワール」
私の声に、彼はゆっくりとこちらを向く。
「叶ったのね。あんたの望みが」
ノワールは、何も言わなかった。
だけど、穏やかな目で頷いて、海を見つめ直した。
私は、海にも感動していた。
けれどそれ以上に──誰かと、同じものを見て、同じ場所で同じ感情を分かち合うこと。
その“初めて”に、胸を打たれていた。
(……こんな風に、新しいものを見て、知らないことを知って……どこかへ行ける。望んだ先に、ちゃんと足を運べる)
それは、村にいた頃には考えられなかったこと。
閉じ込められ、忌まれ、ただ生きていたあの世界にはなかった自由。
そして、いま。
隣には、ノワールがいる。
誰も信じず、誰も愛せなかった私の隣で、彼はちゃんとそこにいる。
「……ねぇ、ノワール」
私は、不意に問いかける。
「これからも、こうして一緒に、新しいものを見ていけたら……それって、素敵なことだと思わない?」
ノワールはしばらく何も言わずに、ただ波を見ていた。
そして、静かに口を開いた。
「……ああ。思うよ」
それだけの言葉が、胸の奥を温かく満たした。
私は、彼の手をそっと取った。
もう、鎖なんていらない。
このぬくもりが、自分から離れないと、そう信じられる気がした。
(あんたと一緒に見るこの世界が、私のすべてになっていく)
波音は、どこまでも続いていた。
***
海から帰った数日後、私は神殿の奥に呼び出された。
清められた白壁の廊下を歩く間中、付き従う侍女たちは無言だった。
ただ、その背筋の張り方が、いつもと違うことだけが、妙に気になった。
案内されたのは、聖職者の謁見室。
王と並び、赤の聖女の監視権を持つ“高位の白”。
私は、静かに膝を折った。
「赤の聖女よ」
開口一番、彼女の声には冷たさがあった。
「近頃、あなたの部屋に“奴隷”を留め置いていると聞く」
その言葉に、私は目を伏せた。
そう、ノワールの存在だ。
「……はい。治療のため、保護しています」
「その“治療”が、夜通しに及ぶことも?」
刺すような視線。
私は答えなかった。
高位聖女は静かに目を閉じる。
「赤の乙女は、神に選ばれし存在。“穢れなき器”でなければなりません。――その意味は、理解していると信じています」
その言葉の裏にある意図は、明白だった。
この世界に来てから、私がずっと着せられてきた、あの赤の象徴。
“処女”という名の鎖。
(くだらない……)
けれど、私は笑わなかった。
お婆さんを失って、村人には騙され命も狙われ、神に遊ばれこの世界に落とされた。ようやく居場所を得たのが、この“赤の聖女”だったから。だがノワールの存在は許されないのか。
「……神に誓えるというのなら、これ以上は問わない。だが――その覚悟、見せてもらいましょう」
問うているのは、“誓える”かではない。
“越えるな”と、宣告しているだけだ。
「……承知しました」
私は頭を垂れた。
──ギィィ……バタン。
高位聖女が背を向けると、重い扉が静かに閉じられた。──まるで、何かが裁かれたように。
背筋に冷たいものが這い上がる。
この国は、私たちを裂こうとしている。
私と、ノワールを。
***
部屋に戻ると、ノワールは変わらず鎖に繋がれ、座っていた。だがその鎖の片端は何処にも繋がっていない。
「……どうした」
珍しく、彼の方から声をかけてきた。
「……何でもない。少し、風にあたってきただけよ」
私は微笑んだ。
ノワールが、眉をわずかに寄せる。
彼はもう、私の嘘に気づけるくらい、私を知ってしまっている。
それが、どうしようもなく嬉しくて、苦しい。
「ノワール……」
私は彼のもとに歩み寄り、跪く。
「今夜は、そばにいてもいい?」
「お前が決めることだろ」
「……ううん、違うの。今日は、“そうしたい”って、私が思ってるだけ。強制じゃないわ」
ノワールは、少しだけ目を伏せた。
彼の肩にそっと額を預ける。
(何を失っても、あんたのことだけは、手放したくない)
(国も、神も、私たちを否定するなら……)
(私が、この手で全部、壊してやる)
その夜、私は眠れなかった。
ノワールの体温が隣にあるだけで、心が波打って、焼けそうだった。