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第4話 世界は私たちを許さない

 ノワールの唇から、私の名前がこぼれた――たったそれだけのことなのに、胸の奥が震えた。

 それだけのことで、私は――壊れてしまいそうだった。


 心臓が何度も、苦しいほど脈打つ。


 それが、どれほどの意味を持っているのかも、彼自身はわかっていなかったのかもしれない。

 けれど、あの瞬間、確かに私の中で、何かが音を立てて崩れた。


 (“ルージュ”って、名前を)


 (私は、ずっと名前を呼ばれたかっただけなのに)


 前の世界は私を赤ずきんと呼んだ。


 “呪い”と呼んだ。


 “厄災”と呼んだ。



 この世界は、私を“赤の乙女”と呼んだ。


 “聖女”と呼び、


 “象徴”と呼んだ。


 どちらの世界でも──お婆さん以外は誰も、私を「ルージュ」とは呼ばなかった。

 でもノワールは、私の名前を、私の存在を、まっすぐに呼んでくれた。



 彼は――私を、私として見てくれた。

 それが、どんな拙く不器用なものであっても。


 朝の静かな空気の中、私はノワールの頭をそっと撫でる。


 「……名前で呼ばれるって、こんなに嬉しいんだね」


 「……そうだな」


 「でも、あんたはずっと、私の声を無視してたじゃない」


 ノワールは、微かに眉を動かした。

 そして、戸惑い混じりに呟いた。


 「……すまない」


 その一言が、あまりにも不器用で、あまりにも優しかった。

 私は、膝に崩れ落ちそうな衝動を、なんとか押しとどめた。


 「……ねえ、ノワール」


 「なんだ」


 「私ね、あんたを壊してしまいたいくらい、愛してるの」


 ワールの目が揺れた。怯えでも怒りでもなく、ただ――理解できないという色。

 それでも、彼はもう拒絶しなかった。


 「それは……愛なのか?」


 「知らない。でも、きっとこれが、私なりの愛なんだと思う」


 歪んでいても、偏っていても。

 私の感情は、全部ノワールに向いていた。


 執着で、依存で、独占で、恋で、哀しみで、寂しさで、渇望で――すべて。


 「ねえ、ノワール。お願い。今だけは、そばにいて」


 ノワールは、何も言わずに、私の隣に座った。

 そして、鎖の音が小さく鳴った。


 私はその音に、奇妙な安堵を感じた。

 まるで、それが私たちをつなぐ“絆”のように思えた。


 あんたを閉じ込めてるのに、

 あんたに閉じ込められてるのは、きっと私のほうだった。


 私は、静かに目を閉じた。


 (壊してしまいたいくらい、愛してる)


 (だけど、本当は――)


 私はまだ、あんたの声が欲しい。

 あんたの体温が欲しい。

 あんたの心が、欲しい。


 この世界で、たった一人、私を名前で呼んだ、ノワールが欲しい。



***



 謁見から数日後の夜、ノワールは珍しく自分から望む言葉を発した。


 「……海を、見てみたい」


 「……は?」


 私は、思わず聞き返した。


 彼は静かに視線を下げたまま、続けた。


 「父が言ってた。父と過ごしたのは短い期間だったが、何度も寝る前に話してくれたんだ。“海ってのは、どこまでも広くて、空と混ざるほど青い”って」


 その目は、夢を見るようにどこか遠くを見つめていた。


 「でも、俺は自由に出歩くことなんて出来ないから……見たことないんだ。海なんて」


 それは、檻の中で生きてきた獣の、ささやかな願い。

 私は、言葉に詰まった。


 元の世界では普通の人であるなら行けない距離ではなかった。


 でも――


 「……私も、見たことないよ。海」


 ノワールが、少し驚いたようにこちらを見る。


 「村人や、旅商人の話で聞いたりはあったけど……実際には、行ったことない」


 私たちは、ただ“閉じ込められてきた”んだ。

 檻の中に。差別の中に。呪いの言葉の中に。


 「……いいよ。あんたが見たいなら、行こう」


 自分で言って、少し驚いた。

 私はずっと、ノワールを“私のもの”として閉じ込めてきたのに。


 彼の望みを叶えてやりたいと思った。

 私は“世界を一緒に見る相手”になりたかった。


 「でも、逃げたら鎖、倍にするからね?」


 ノワールは、わずかに口元を動かした。

 それは……たぶん、笑いかけていた。



***



 旅に出るなんて、いい顔はされないだろう。

 聖女が、奴隷を連れて屋敷を離れるなど、噂にでもなれば面倒なことになる。

 だけど、私はそれを押し通した。


 赤の乙女。聖女。救世主。

 ――そんな称号、利用するために背負ってきたんだ。


 今までも、国が求める役割をこなすふりをして、私は何度も外に出てきた。

 各地の祭礼に顔を出し、神殿の代理として民の声を聞き、祝福を与える。

 そのすべての“建前”の裏で、私は狼――ノワールを探していた。


 (つまり、あたしの目的は最初から変わってない)


 だから今回も、その続きみたいな顔をして、屋敷を離れた。

 ただ、傍らに、ノワールがいるだけで。


 ――そう、それだけ。


 でも、それだけなのに、今までとは見える景色が違う気がした。


 「これ、持った?」


 「……ああ」


 私が差し出した小さな包みを、ノワールは静かに受け取った。

 中身は乾燥果物と硬めのパン、それから非常用の治癒薬。


 「それにしても……あんた、本当に何もいらないのね?荷馬車も嫌がるし」


 「……必要がなかった。今まで、乗ったことがない」


 森の中を、一人で生き延びてきた獣人。

 木々の間を走り、岩を飛び越え、誰の助けも借りず生きてきた存在に、旅の道具なんて、そもそも無縁だった。


 「そりゃ、馬より速いかもしれないけど……」


 私はノワールの肩についた埃を払ってやる。

 すると、ノワールは一瞬、ぴくりと耳を動かした。

 だけど、それ以上何も言わなかった。


 (少しずつでいい。こうして触れて、慣れてくれれば)


 私は、ノワールの横顔を盗み見る。

 鎖は、もうつけていない。


 逃げないノワールの隣を歩くことが、少しだけ誇らしかった。


 「ねえ、ほんとに見たいの? 海」


 私がそう聞くと、ノワールは、ゆっくりと頷いた。


 「父は昔、海を見たことがあると言っていた。限りなく広くて、どこまでも青い場所だと。見れば世界が変わると」


 「へぇ……そんなに凄いんだ」


 一人なら見に行こうなんて思わなかっただろう。

 彼が望むから、私も見たいと思うのだ。


 「……じゃあ、出発しようか」


 ノワールは小さく頷く。

 旅の準備は万端。

 これから、海を目指して進むだけ。


 その行き先がどれだけ遠くても、私は後ろを振り返らない。


 (あたしが欲しいのは、あんたと見る世界だ。あたし一人じゃ、意味がない)


 赤の乙女も、聖女も、救世主も。

 そんな肩書きなんか、どうでもいい。


 ノワールと並んで歩く、その一歩が、今の私にとって何よりも大事だった。



***



 海は、すべてを飲み込むように広がっていた。

 空よりも青く、空よりも深くて、果てがない。

 風が波を運び、波が砂を撫でて、それでも尽きることなく打ち寄せてくる。


 私も、ノワールも、しばらく何も言えなかった。

 立ち尽くして、ただその景色に、目も心も奪われていた。


 「……これが、海か」


 ノワールの声が、震えていた。

 無口で、いつも表情の乏しい彼から感情が伝わってくる。


 「……すごいわね。本当に、どこまでも続いてる」


 私も、その景色に胸をさらわれたような気がした。

 風が髪を煽り、波の音がすべてを覆う。


 ──綺麗、だけじゃない。


 この“広さ”に触れて、初めて、世界はこんなにも広くて、自分はこんなにも小さいんだと思い知らされる。


 けれど、それが怖くはなかった。


 「……俺の父が言ってたとおりだ。海は、本当に、すべてを包んでくれる」


 横に立つノワールの横顔が、まるで子供のようだった。

 いつも冷静で、何も求めないような顔しか見せなかった彼が、いまはただ、目を見開いて、夢を見た少年のようにそこにいた。


 「……ノワール」


 私の声に、彼はゆっくりとこちらを向く。


 「叶ったのね。あんたの望みが」


 ノワールは、何も言わなかった。

 だけど、穏やかな目で頷いて、海を見つめ直した。


 私は、海にも感動していた。

 けれどそれ以上に──誰かと、同じものを見て、同じ場所で同じ感情を分かち合うこと。

 その“初めて”に、胸を打たれていた。


(……こんな風に、新しいものを見て、知らないことを知って……どこかへ行ける。望んだ先に、ちゃんと足を運べる)


 それは、村にいた頃には考えられなかったこと。

 閉じ込められ、忌まれ、ただ生きていたあの世界にはなかった自由。


 そして、いま。

 隣には、ノワールがいる。


 誰も信じず、誰も愛せなかった私の隣で、彼はちゃんとそこにいる。


 「……ねぇ、ノワール」


 私は、不意に問いかける。


 「これからも、こうして一緒に、新しいものを見ていけたら……それって、素敵なことだと思わない?」


 ノワールはしばらく何も言わずに、ただ波を見ていた。

 そして、静かに口を開いた。


 「……ああ。思うよ」


 それだけの言葉が、胸の奥を温かく満たした。


 私は、彼の手をそっと取った。

 もう、鎖なんていらない。

 このぬくもりが、自分から離れないと、そう信じられる気がした。


 (あんたと一緒に見るこの世界が、私のすべてになっていく)


 波音は、どこまでも続いていた。



***



 海から帰った数日後、私は神殿の奥に呼び出された。

 清められた白壁の廊下を歩く間中、付き従う侍女たちは無言だった。

 ただ、その背筋の張り方が、いつもと違うことだけが、妙に気になった。


 案内されたのは、聖職者の謁見室。

 王と並び、赤の聖女の監視権を持つ“高位の白”。


 私は、静かに膝を折った。


 「赤の聖女よ」


 開口一番、彼女の声には冷たさがあった。


 「近頃、あなたの部屋に“奴隷”を留め置いていると聞く」


 その言葉に、私は目を伏せた。

 そう、ノワールの存在だ。


 「……はい。治療のため、保護しています」


 「その“治療”が、夜通しに及ぶことも?」


 刺すような視線。

 私は答えなかった。


 高位聖女は静かに目を閉じる。


 「赤の乙女は、神に選ばれし存在。“穢れなき器”でなければなりません。――その意味は、理解していると信じています」


 その言葉の裏にある意図は、明白だった。

 この世界に来てから、私がずっと着せられてきた、あの赤の象徴。

 “処女”という名の鎖。


 (くだらない……)


 けれど、私は笑わなかった。


 お婆さんを失って、村人には騙され命も狙われ、神に遊ばれこの世界に落とされた。ようやく居場所を得たのが、この“赤の聖女”だったから。だがノワールの存在は許されないのか。


 「……神に誓えるというのなら、これ以上は問わない。だが――その覚悟、見せてもらいましょう」


 問うているのは、“誓える”かではない。

 “越えるな”と、宣告しているだけだ。


 「……承知しました」


 私は頭を垂れた。


 ──ギィィ……バタン。


 高位聖女が背を向けると、重い扉が静かに閉じられた。──まるで、何かが裁かれたように。


 背筋に冷たいものが這い上がる。

 この国は、私たちを裂こうとしている。


 私と、ノワールを。



***



 部屋に戻ると、ノワールは変わらず鎖に繋がれ、座っていた。だがその鎖の片端は何処にも繋がっていない。


 「……どうした」


 珍しく、彼の方から声をかけてきた。


 「……何でもない。少し、風にあたってきただけよ」


 私は微笑んだ。

 ノワールが、眉をわずかに寄せる。


 彼はもう、私の嘘に気づけるくらい、私を知ってしまっている。

 それが、どうしようもなく嬉しくて、苦しい。


 「ノワール……」


 私は彼のもとに歩み寄り、跪く。


 「今夜は、そばにいてもいい?」


 「お前が決めることだろ」


 「……ううん、違うの。今日は、“そうしたい”って、私が思ってるだけ。強制じゃないわ」


 ノワールは、少しだけ目を伏せた。

 彼の肩にそっと額を預ける。


 (何を失っても、あんたのことだけは、手放したくない)


 (国も、神も、私たちを否定するなら……)


 (私が、この手で全部、壊してやる)


 その夜、私は眠れなかった。

 ノワールの体温が隣にあるだけで、心が波打って、焼けそうだった。





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