八月。苗場。グリーンステージ。
夏の風物詩、大型野外音楽フェスの二日目はあいにくの曇天で始まり、午後二時を過ぎて小雨がパラつき始めた。
主催は複数箇所で雨具を売り、観客はそれを横目に「濡れてもいいや、気持ちいいし」と笑う。フェス会場の熱気は雨如きで落ち着くはずもなく、むしろ荒天であればあるほど盛り上がるものだ。
朝9時から夜21時まで、雄大な自然と大きな空の下、大小五つのステージで鳴り響く極上の音楽たち。
寄せては集い、引いて離れてまた集い、人の波は音楽に導かれて広い会場を絶えず流れる。
一つのステージに集まった群衆は、同じタイミングで手を上げ、声を上げ、音の海の中で快楽に溺れる。
その中心にバンドがいる。アーティストがいる。彼らが震わせた空気は、そこに集う人々の五感を通って魂をも震わせる。
フェスは、会場そのものに麻酔のような効果がある。
その場にいるだけで非日常に酔い、普段気になることも気をつけていることも、意識の外に追いやられる。
音楽という麻薬によって気持ちも大きくなる。今ならなんでも出来る気がしてしまう。この世界に怖いものなんかないと思えてしまう。
雨足が強くなってきても、観客の数は一向に減らない。雨ガッパを羽織る人が増えるだけで、その熱は変わらずステージへ注がれ続ける。
5組目のステージが始まる頃、雨は土砂降りになっていた。
観客は頭から爪先まで濡れそぼりながら、それでも音の海に留まり歌い、踊り、笑って手をあげた。
機材さえ守られればフェスは続く。音楽が鳴る限り熱は冷めない。
年に一度の夏フェスだ。雨風嵐がなんだ。
音楽を止めてはいけない。来年の夏はまだ先だ。今年の夏にやりたいことを、やり切るまで。
その日、主催はライブ中断の判断を下すのが少し遅かった。
「俺」は観客の波の中にいた。周囲の熱に浮かされて、雨の強さは全く気にならなかった。
ただ視界を遮られるのは邪魔だった。キャップの鍔を伝って垂れる、ちょっとした滝も鬱陶しい。
何度も鍔を手で拭い、「俺」は食い入るようにステージを見つめていた。
ステージの中心にいるのは、ギターをかき鳴らす男。
彼の奏でる歌声は美しく、紡ぐメロディは儚く、脈打つようなリズムは心地よく、「俺」は彼の作るこの空間が好きだと思った。
ずっとここにいたいと思った。彼の想いをもっと汲み取りたいと思った。
けれどなぜか、どんなに耳を傾けても、彼が歌う歌詞が聞き取れない。
周囲が腕を上げ、リズムに合わせて左右に振り始めた。けれど「俺」は何もできなかった。
金縛りにあったように突っ立って、ただわけのわからない衝動と闘い、拳を硬くするだけ。
音楽はもっと自由なはずだ。なんでこんなに苦しいんだろう。なんでこんなに、思うように動けないんだろう。
彼の曲紹介のMCも、言葉が理解できない。駆け出して近づきたい。ステージに登って彼に伝えたいことがたくさんある。
なんで? なんで「俺」はここで、彼を見ているだけなんだろう?
曲が始まる。熱狂する観客たち。棒立ちの俺。彼は楽しそうに歌いはしゃぎ、土砂降りの曇天を見上げて笑う。
ラスサビ前のCメロで、彼は高音を切なげに歌い上げた。
その美しく強いエネルギーに導かれるように、突如、落雷が彼を襲った。
光と音の爆発。空気と足元が震えて崩れる。
強く目を閉じたその瞬間、目が覚めた。
自室の天井を呆然と見つめながら思ったことは、彼にもう一度会いたい、だった。