田中の切り出した話題は、その日Pinkertonが最も触れて欲しくないところだった。
「あー、っと。まぁ今回は、一旦なしでってことに」
「はぁー?」
田中は般若のような顔で大声を上げた。隣のテーブルごと空気が萎縮して、その場にいる全員が身を硬くする。
「なんで? 渋谷ZETTのワンマン埋めたのに? 何がダメって?」
矢継ぎ早な質問に幸助がたじろいでいると、
空気を呼んだ同期バンドの数名が代わりに隣のテーブルに移動し、幸助の向かいに佑賢が腰を下ろす。
「歌詞です。今のままではとても茶の間に浸透しない、とのことで」
田中は佑賢の回答に顔を顰めた。
すぐに言葉が返ってこないと言うことは、田中の予想の範囲内だったということだろう。深いため息の後にやっと聞こえたのは「まぁ、そうかぁ」と言う小さな呟き。
Pinkertonの作詞は、英語詞を幸助が、日本語詞をベースの
望田も佑賢同様、高校時代にPinkertonを作ったオリジナルメンバーの一人だ。
幸助とは小学校からの付き合いで、頼まれたら断れないお人好しな性格をしている。特に幸助の頼みは一つ返事で承諾してしまう節があり、彼がベースを始めたのも作詞を手がけているのも全て、幸助が「もっちーよろしく!」と雑に投げたからである。
そんな望田は現在、Pinkertonの活動に参加していない。
二ヶ月前に父親が倒れ、長男として実家の老舗天ぷら屋を守らなければいけなくなったため、無期限活動休止中だ。
同時期にPinkertonにメジャーデビューの声がかかり始めたため望田からは脱退の申し出もあったが、幸助が半ば強引に引き留めた。
我儘だと佑賢から嗜められようが、幸助は望田と離れたくはなかった。
幸助にとって望田は一緒に音楽を始めた盟友であり、自分の途方もない野望に巻き込んでしまった被害者でもある。
彼より上手いベーシストはいくらでもいるが、幸助の中で鳴り響くベースの音はもう、彼が奏でるそれになってしまっている。
そして何より、幸助は今のPinkertonが好きだった。
このメンバーでフェスのステージに立つ事が、今思い描ける最も鮮やかな夢だ。やっと見えた夢への道筋をこの四人で駆け抜けたい。幸助の強い想いに圧される形で、望田はいつか必ず戻ることを約束してくれた。
現在のPinkertonは、ベースを打ち込みで入れたり、ライブにサポートメンバーを入れる形で望田不在の穴をなんとか埋めている。
メジャーデビューの話も一旦は「ベース活動休止中」で進めるつもりだった。望田が戻ってきた時に安定した収入と立場が約束されていれば、望田の家族も納得するだろう。
幸助はそう考えていたのだが、現実は思っていたより厳しかった。
「
首を伸ばして覗き込んで、幸助はすぐ目を伏せる。
そこに並んでいるのはPinkertonの最新楽曲の歌詞だ。
全英語詞で、日本語は一つも見当たらない。一見すれば格好良くも思える画面だが、その内容は酷いものだった。
「英単語の羅列。似た音で韻を踏んでいるところもありますが、全体的に意味が全くありません。サビも耳障りのいい聞き飽きたフレーズを繰り返しているだけ。疾走感のあるメロがライブではウケてますが、メジャーでこの曲はシングルカット出来ない、ときっぱり言われました」
わざわざ見せずとも田中はPinkertonの楽曲をよく聴いてくれているから知っているはずだが、今は改めて『歌詞』に注目させたいという魂胆なのだろう。田中も難しい顔で画面をスクロールし、すぐに顔を上げた。
「今の流行は『エモーショナルな歌詞』だからなぁ。ひと昔前のメロコア邦ロックブームだったら行けたかもしれないが、確かにこれじゃ茶の間には流せんわ」
「えぇ。望田の詞であればまだ、とも言われましたが、今のところ復帰の目処が立たないので」
何度聞いても胸が苦しくなる言葉たちだった。
幸助は目眩を覚え、味のしないレモンサワーを一口煽る。
数日前、大手レコード会社の人間から同じことを聞かされたが、その時も呼吸が浅くなって視界が狭くなるのを感じていた。
開きかけた夢への扉はその日のうちに再び硬く閉ざされ、幸助はそこに立ち尽くしたまま今日も動き出せずにいる。
佑賢は幸助の方をちらりとも見ずにスマホを仕舞った。
彼の顔には動揺も落胆も浮かんで居ない。元々表情が豊かな方ではないが、この時は特に鉄仮面をつけたような無表情で言葉を続けた。
「それに、望田が戻って来ようが来まいが彼に作詞を頼むことはもうなしにしたいと考えています。うちの楽曲は、幸助の中で鳴っている音楽を外に向けて発信していく、と言うスタイルです。楽曲の世界観をより統一したければ作詞も幸助が担当する方がいい。幸助の中にある言葉がメロディに乗っかって、音と言葉が同時に心に届く、そういう音楽がやりたい」
場違いに堅苦しい言葉で綴られた理想を、雑誌のインタビューかよ、と揶揄するものは誰もいない。
その場にいる全員が、Pinkertonの音楽はそうあるべきだと感じていたからだ。幸助のトラックメイカーとしての才能は、界隈の誰もが認めるほどのものだった。
「だから、……幸助」
名前を呼ばれ心臓が跳ねた。
顔を上げると、全員の視線が自分に注がれているのがわかった。
この話の流れであればこうなる事はわかっていたはずなのに、幸助の頭の中は突き抜けるほど真っ白になった。
「お前が日本語で歌詞を書けるようにならないと、俺たちここから先に進めないんだよ」
何を言われても、今の自分に出来ることは一つしかない。
この息苦しい場所から一旦離れること。酒でも煙草でもなく酸素を吸うこと。
そうしなければ心臓が痛くて潰れそうだ。
思うことはそればかりで、佑賢の言葉を皆まで聞かないうちに幸助は席を立った。