地上への階段を登ると、いつの間にか日が沈んでいた。
薄暗い紫色に沈んだ街並みにチェーン店のネオンが主張を始めている。
帰路につく人々の喧騒にため息を混ぜて、
彼の言葉に間違いは一つもなく、幸助が良い歌詞を書けるようになれば全てがうまくいく、単純明快な構図だ。
「……ったってなぁ……」
街の喧騒に混ぜたぼやきは、力なく足元に落ちる。
あの場から逃げてしまったことも情けなくて、顔が上げられない。
メジャーデビューの話が立ち消えた後、Pinkertonの三人で今後についての会議をした。
その場でも、結局何も言えなかった。
幸助の心情を察した佑賢とゴンは「お前なら出来るよ」と力強く励ましてくれたが、幸助の気持ちが浮上することはなかった。
丸一日寝たりギターを弾いたりして気分転換をしたらやっと普通に笑えるようになったものの、作詞についてのしこりはずっと心に残っている。
幸助にとっての歌は、メロディを伝えるためのツールでしかない。
自分の声帯を楽器の一つと捉えて奏でているだけで、そこに載せる言葉にはさしたる意味を求めていない。
リズムや音さえ良ければオノマトペだけでも良いくらいだ。
けれどそれでは「歌ってもらえない」と言う理由で、幸助は歌詞をつけている。
英単語なら、意味はよくわからなくても語感がかっこよくなるから英語にしている、と言うだけの話だ。
英語詞に意味を持たせようと、考えてみたこともある。
しかし地頭の悪さのおかげで文法がよくわからず、翻訳サイトに頼ってもうまくいかず、投げ出してしまった。
望田の書いた日本語詞を真似してみたこともあるが、意味不明な劣化版を生み出しただけで成果は得られなかった。
佑賢の言う通り、幸助自身の中にある言葉を歌う事こそが正解なのだろう。
そこにどんな意味があってもいい、友情でも恋愛でも何でも構わないから、ただ幸助の感情や感覚を言葉にすればいい。
佑賢もゴンもそうアドバイスしてくれたが、どれほど内側に目を凝らしても言葉が見つからなかった。
感情はあるが、それがメロディにはなっても言葉にならないのだ。
ラララで歌ってしっくりくるメロディに、「楽しい」という言葉を乗せてしまうとたちまち幸助の手から離れていってしまう。
言葉もメロディも嘘になる、そんな感覚に取り憑かれてしまう。
Pinkertonを、ロックバンドを始めて六年。
まさかこんな壁にぶち当たるとは、と幸助は天を仰いだ。
ずっと揺るぎない自信があった。
はじめてCのコードを鳴らした日からずっと、自分には音楽しかないと思って生きてきた。
何もしなくても脳内に鳴り続けたメロディは、音にするとたちまち魅力的なメロディになり、口ずさめば人が集まり、バンドになって、自分たちにしか出来ない音楽になった。
音楽を愛していたし、音楽に愛されたと思った。
掃いて捨てるほどいるバンドの中で生き残り、二年前インディーズレーベルに所属。
バイトをしなくても良くなったことで、より一層楽曲を作るスピードが上がった。
コンスタントにライブを重ね、ファンも全国に着実に増えてきた。
音楽雑誌には「最もメジャーに近いインディーズバンド」として何度も紹介されている。
着実に前進し、着実に実力をつけ、いよいよここからというタイミングが、今。
そんな「今」に、この停滞はあまりに苦しい。
Pinkertonを作り走らせてきた自分が、Pinkertonを止めてしまう日が来るなんて思ってもみなかった。
佑賢もゴンも歯痒い思いをしているだろう。Pinkertonがこのままメジャーデビューできなければ、望田は戻ってこないかもしれない。
重圧は幸助の喉をじわじわと締め付ける。
声が出なくなりそうで、意味もなく咳払いをした。
このまま歌えなくなったら、と考える。それはそれでいいのかもしれない、と思う自分がいる。
インストバンドとして、歌詞のない音楽を奏でていく。そういう形でデビューしているバンドも居るんだ。それでもいいじゃないか、と妥協を叫ぶ自分を、ライブハウスで見た映像がぶん殴ってくる。
自分は音楽を「聴いて欲しい」からやっているのか?
違う。「歌って欲しいから」やっている。
ライブで一緒に歌う観客の楽しそうな笑顔に、何度パワーをもらったかわからない。
意味のない言葉たちでも歌詞があれば「歌ってくれる」のだ。
その姿が見たいから、幸助は作詞を諦めるわけにはいかない。
今こそ踏ん張りどきなのだ。Pinkertonをここで止めるわけにはいかない。
一度閉じた扉を再びこじ開けるには相当のパワーが必要だ。
音楽が間違っていない事はレコード会社からもお墨付きをもらった。
後はただ、自分の言葉を音に乗せて歌うだけ。
たったそれだけで道が拓けるんだ。
***
居酒屋の看板の脇に突っ立って、幸助はぼんやりと宙をみていた。
気持ちを奮い立たせようとする言葉の数々は、しかし幸助の体を動かすまでにはいかない。
肌寒さで強ばった両足は根を張ったようにそこに立ち尽くした。
店にも戻れず帰ることも叶わず、途方にくれる幸助の頭には、待ってましたとばかりに新しいメロディが浮かぶ。
それにコードを当て嵌めながら、幸助はスマホを取り出し口ずさんだ。
鼻歌で紡いだマイナーコードの短いフレーズ。ここにギターがあればもう少し膨らませたのに、と思ったところで、背後の足音に気付く。
「悪い、邪魔したか」
振り返ると、佑賢が足を止めた。
幸助はスマホを下ろし「もう終わった」と首を振った。
佑賢は案の定何も言わないので、空気を誤魔化すように続けておちゃらけてみる。
「こんな時こんな場所でも作曲は出来んだよなぁ、天才だから」
並び立った佑賢は小さく笑ってから頷いた。
「うん。お前は間違いなく天才だよ。作曲も、作詞も」
調子に乗るなと突っ込んで欲しかったのに、佑賢は真面目な顔で幸助を見た。反射的に顔を背けた幸助の左耳に、痛いほど視線を感じる。
「俺は忘れてないよ。初めてギター抱えたお前と鉢合わせした時、即興で歌ってくれたお前の歌詞は最高だった。拙いけど、飾らない真っ直ぐな言葉でさ」
「……覚えてねぇよそんなん」
もぐもぐと歯切れ悪く吐き出して、幸助の視線は再び足元に落ちた。
高校二年の夏休み、青臭い思い出が記憶のドアを叩くが逃げるように目を逸らす。
佑賢は何かにつけてこのエピソードを持ち出すが、幸助にとっては恥ずかしい青春の1ページなのでまともに向き合いたくないのだ。
佑賢の人生を変えたらしい歌詞も、記憶の奥深くに仕舞い込んでしまってワンフレーズも出てこない。
俯いてしまった幸助を見て、佑賢は思い出話をやめてくれた。短いため息の後、少し考えて「つまり、」と言葉をつなぐ。
「お前は作詞が全くできないわけじゃない。作詞の仕方がわからなくなってるだけだ。だったら、それを教えてもらえばいい。作詞ってどうやってやるのか、どうすればいい歌詞になるのか、マンツーマンで指導してくれる先生がいればこの現状は必ず打開できる」
佑賢の話が思わぬ方向へ転じ、幸助はきょとんと目を見張った。
つい顔を上げてしまうと、佑賢は勝ち誇ったような顔で頷く。
「というわけで、お前に作詞の講師をつけることにした」
「は? 講師?」
「明後日から短期集中講座だ。心してかかれよ」
「え? ちょっと待ておい、佑賢!?」
置いてけぼりの幸助を楽しむように目を細めて、佑賢はさっさと踵を返した。その後ろ姿を慌てて追いかけながら幸助はじわじわと現状を理解していく。
作詞の講師。
確かに、マンツーマンで指導してくれる人間がいるというのは心強い。
添削をしてもらうのも良いだろうし、そもそも作詞の基礎みたいなものを教わる絶好の機会なのかもしれない。
講師と呼べるほどの存在なら、今売れているメジャーアーティストがどうやって作詞しているのか、「売れる歌詞」を書くコツみたいなものはあるのか、なんて話も聞けるかもしれない。
ただ問題は、そんな人間が即日サクッと捕まるのか、ということだ。
名のしれた作詞家というわけではないのだろう。
アマチュアか、はたまた同業のシンガーソングライターか。
いや、同業が作詞の講師なんかしたらライバルに手の内を明かす事になる、ということはやはりアマチュア作詞家か?
そんなやつにPinkertonの未来を左右する大事な局面を任せていいのか?
一瞬膨らんだ期待は、しかしすぐに緊張と不安に変わってしまった。
いくつもの疑問符を抱えながら佑賢を追いかけ店に戻ったが、教えてもらえたのは明後日の待ち合わせ時間と場所だけ。
一緒に計画したらしいゴンと田中にも詰め寄ってみたがニヤニヤと笑うばかりで何も教えてはくれず、同席していたはずのバンド仲間たちもやけに熱のこもった励ましばかりを口にする。
実はこの時、Pinkertonのメジャーデビューへ向けたとある裏計画が始まっていた。
だが、そんな事知る由もない幸助は、ただただ緊張と不安を膨らませその日を迎えるのだった。