その日は朝からスッキリしない天気で、ぐずついた空を横目に幸助は手ぶらで家を出た。
作詞の講師と顔を合わせるならギターがあった方が良いかと思ったが、
電車一駅分の時間を、幸助は悶々とした気分で過ごした。
今日出会う人物が男か女かもわからないままでは、どんなテンションで行ったらいいのか悩むばかりだ。
講師、と言われてなんとなく年配の男性を想像しているが、これが若くて可愛い女性だったら素直に動揺してしまうだろう。
もしかしたらワンチャン恋が始まるかもしれない、なんてことまで考えてしまっては、閑散とした井の頭線の座席に座っていることもままならない。
吉祥寺の駅を出てアーケード街を真っ直ぐ行くと、二車線の大通りに出る。
空はいよいよ陰鬱としてきて、気の早い老人がビニール傘をさし始めた。
降られないうちに屋内に逃げ込みたいと思いつつ、幸助の足は重い。
大手百貨店の並びにファミレスの看板が見えてくると、いよいよ緊張と不安で逃げ出したくなる。
気晴らしにと尻ポケットのスマホを取り出すと、佑賢からメッセージが来ていた。
そろそろ到着すると見越してか、店内のどこに座っているかが詳細に記されている。
窓際のボックス席と言うことはあの辺か、と建物を見上げても、店内の様子など見えるはずがない。
佑賢はきっと、こちらを動揺させようとして相手を秘密にしている。
ビビる反応を見て楽しむつもりなんだ。
そう思うと、何だか返信する気になれなかった。
既読がついたからいいかとスマホを仕舞い、エレベーター前で短く息を吐く。
別に緊張なんかしてねぇし、ビビる必要もない。
相手がどんな奴だろうと作詞の講師だって事は変わらないんだから、俺は俺でいつも通りいけばいい。
サクッと作詞のなんたるかを教えてもらって、知識や技術を目一杯盗んで、佑賢が驚くようなスピードで良い歌詞を書けるようになってやる。
そう自分を鼓舞しながら店に入ると、店員より早く佑賢が反応した。
わざわざ立ち上がって片手をあげながら、向かいの誰かと何かを話し、くしゃりと笑う。
ボックス席を仕切るすりガラスのせいで姿は見えないが、佑賢が長髪を後ろに括ってないから相手はやっぱり女かもしれない。
なんて謎理論で緊張を加速させながら、その席へと重い歩を進めていく。
「あ、こんにちは」
幸助を見上げて、その人は笑った。
黒縁メガネとバケットハット。高校生でも通りそうな童顔。
歯並びが悪い。右の八重歯が強く印象に残る。
どうも、と短く返したはずだが、意識が視界に集中しすぎていて自分が何を言ったかわからなかった。
佑賢がわざわざ一度席を立ち、窓側に幸助を座らせる。
それだけで佑賢が途中で帰るつもりだとわかってしまって、つい縋るような視線を向けてしまった。
それを受け止めた佑賢は、幸助の予想通り楽しそうに笑うだけ。
「雨降ってた?」
「あぁ、まぁ」
佑賢のどうでもいい質問を、幸助は全力で流してしまった。
質問の意味を理解する余裕すらなく、羽織ってきたウィンドブレーカーを脱ぐことすら忘れている。
佑賢が何か言葉を返したようだが、もはや音として認識も出来なかった。幸助の意識は全て、視界の情報に囚われている。
向かい合った“作詞の講師“とやらは、男だった。
洒落た服を着た、華奢で小柄な男。
アイドルでもやっていけそうな中性的な顔立ちと、バケットハットから覗く重めの前髪。
大きな目、ツルツルの肌、小さな顔、またちらりと覗く八重歯。
大袈裟な黒縁眼鏡はおそらく変装用の伊達だろう。
知らない顔ではなかった。
むしろ何でこんなところにいるんだと目を疑う存在だった。
昨年メジャーデビューを決め、現在も立て続けにタイアップソングを出して知名度を上げている新進気鋭のツーピースバンドのボーカルが、幸助の目の前にいた。
「知ってると思うけど、こちら
佑賢の言葉に、八坂櫂はペコリと頭を下げた。
目が合うと何故か逸らされてしまったが、伏せた瞼の広さやまつ毛の濃さにびっくりしてこちらは目が離せない。
アー写や雑誌のグラビアで見た以上に、本物は整っていた。
容姿だけでファンが出来るのも頷ける。
おまけに楽曲も良くて歌も上手いとあっては、お茶の間が放っておくわけがない。
メジャーデビューの噂を聴いた時は「なんであいつらが?」なんて一丁前な嫉妬を口にしていた幸助だったが、本物を前にしたらオーラに圧倒されてしまっている。
未だ地に足ついていない幸助をよそに、佑賢は「で、こっちが噂のピン助ね」とぞんざいな紹介を続けた。
慌ててうわついた気持ちを引き戻すと、佑賢の肩を小突いてから幸助は深く頭を下げた。
「美園幸助です。
何をかしこまっているんだろう。
相手がメジャーバンドのボーカルだからか?
思った以上にイケメンだったから?
今までどんな先輩相手にもここまで恐縮することはなかったのに、この緊張は一体何なのだろう?
動揺しているという事実にも動揺してしまい、輪をかけて体が硬くなっていく。
自分の状態に混乱しながら、幸助は忙しなくグラスに手を伸ばした。
水を一気に煽ってから、佑賢のグラスだったと気付く。彼は何も言わなかったが、幸助の異常な動揺にはとっくに気づいているだろう。
「幸助くん」
こんな声で話すのか、なんて妙な驚きがこみ上げて、咄嗟にテーブルの木目をなぞる。
「改めまして、はじめまして」
はじめまして。ごく普通のその一言がやけに耳に残った。
目が合うとはにかむから、形の良い唇の隙間に八重歯が覗く。
本当に初めまして、か?
なんて不思議な疑問が湧いたが、こっちは知ってる顔なのだから初めましての気がしないのは当たり前だ。
妙な興奮で頭が混乱しているんだと思いながら、口先だけの歯切れの悪い「はじめまして」を返した。