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5:世界の色が変わった日

「はい、じゃあ挨拶はこの辺にして」


佑賢ゆたかの落ち着いた声が空気を変えてくれる。

彼に仕切りを任せておけば大丈夫だと、幸助は自分を落ち着かせることに集中しようとした。

背もたれに身を沈めて、空腹でもないのにメニューを広げて意識を逸らす。


「櫂くんにはざっと話してるけど、幸助が何にも理解してないからもう一度簡単に説明します。今回櫂くんにお願いしたいのは……」


佑賢がこちらを見たが、幸助は顔もあげずにステーキのページを見つめていた。

意識して呼吸を繰り返していたら、早かった動悸は落ち着いてきた。佑賢の説明が始まると、耳馴染みのある低い声のおかげで更に平常心が戻ってくる。


幸助は、今の自分の緊張を「有名人に会ってしまったから」だと解釈した。

バンド活動をしている以上、メジャーで活躍するアーティストと出会うなんてよくある事だ。

世話になっている田中もドラマの主題歌に抜擢されるような有名バンドのギタリストだし、田中伝いに尊敬するミュージシャンを何人か紹介されたりもしている。

が、それはあくまで、似た音楽性の人間に限られる。いわゆるハードロック・エモコアバンドとは距離が近いが、ALLTERRAオルテラのようなJ-POPよりのバンドとはそもそも活動する環境が違うのでなかなか出会うことがない。

だから幸助にとって八坂櫂やさかかいは、先輩や成功者という地続きの存在ではなく、テレビの向こうの芸能人という印象の方が強かった。


そんな人間が何故今目の前にいるのか。

信じられない気持ちを拭えないまま、佑賢の説明を右から左に流し生ぬるい相槌を打つことしかできない。

まず八坂櫂が吉祥寺のファミレスに居るということも驚きだが、そんな彼が今日から自分の作詞の講師になる、ということも全くもって飲み込めずにいる。


ALLTERRAの八坂櫂が、自分のために時間を割いてここにいる。彼は何を考えているのだろう。

まだデビューしてから二年とはいえ、アニメ主題歌2本のタイアップやシングル3作連続トップ10入りを果たした彼らは、もうすっかり名の知れた有名アーティストだ。

ビジュアルと泣ける歌詞が若い女性にウケて、最近では音楽雑誌だけでなく女性誌にインタビューとグラビアが載るような人気ぶりと聞く。

どうせ人気アイドルと熱愛してるんだろう、なんて捻くれた感情さえ湧いてきて、つい視線が彼の指に落ちた。

テーブルに投げ出された両手に指輪などのアクセサリーはなく、短く切り揃えられた爪はツヤツヤと光を放っている。


佑賢のやつ、一体どんな手を使って彼と繋がり、どんな条件を提示して今日をセッティングしたのだろう。

よほどの高額を提示したのか、はたまた何か別の取引があったのか。

そもそも八坂櫂が俺らみたいな無名インディーズバンドの作詞をサポートする利点がないのに、よく説得できたよなと首を傾げてしまう。

佑賢お得意の法学部仕込みの交渉術は、こんなことまでできてしまうのか。


名前を呼ばれて生返事をしながら、幸助の意識は隣の佑賢へ舵を切った。

こんな大物を連れてくるなんて、一昨日の飲み屋で席を外していた間にどんな会話があったのかと思いを馳せずにはいられない。

佑賢に聞いても教えてくれないだろうから、今度ゴンを買収して聞き出そう。なんて考えていたら、佑賢に肩を叩かれた。


「幸助、聞いてるか?」


「聞いてる」と反射で答えながら、散らかっていた意識が集合するのを感じた。

今何の話だったっけ、と思うも、聞き流した言葉たちは頭の中に残っていない。


「じゃあ問題ないよな? 来週の月曜で」

「え?」


いつの間にか全ての説明が終わっていたようだ。

背中が冷えるような焦りを感じながら、聞き返して時間を稼ぐ。


何が一週間なのか。

作詞の講師との初対面の場で「来週の月曜で良いか」と聞かれたということは、次回のアポだろうか。きっとそうだ。これから毎週月曜日は作詞講習。

なんせ講師はALLTERRAの八坂櫂だから、週一しか時間が取れないのも頷ける。というか、週一でも多いくらいだろう。

売れっ子に無理やりスケジュール開けさせるなんて、一体どんな額が動いたのかと怖くなってくる。


「あぁ、佑賢がいいならいいんじゃない」


幸助は軽く答えた。自分のスケジュールはお前が把握してるだろ、と暗に言ったつもりだった。

メジャーアーティストほど予定に雁字搦めではない事を卑下する気持ちも少しあった。

それを顔に出さないように澄まして言ったのだが、佑賢は眼鏡の奥の目を細めふうんと小さく唸ってから笑った。


「言ったな? じゃあ来週の月曜までに三曲分、売れる歌詞よろしく」

「はっ?」


幸助の短い悲鳴を横目で一蹴して、佑賢はさっさと立ち上がった。

律儀に二千円を置き、櫂にだけ挨拶をして振り向きもせず店を出ていく。


幸助の制止の声は微塵も届かなかった。

ボックス席に残されたのは、半分以上残っている飲みかけのホットコーヒーと、初対面の二人。

両者の間に漂うのは、オルゴール調のクラシックと、それをかき消すほど大きな呼び出しボタンの音だけ。


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