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8:世界の色が変わった日

弾かれたように顔を上げたら、見知らぬ男がそこにいた。


先程までの自信に満ちた表情も、メジャーアーティストらしい堂々としたオーラも消えている。真っ赤に染まった顔を隠そうとするかのように帽子をずらし、目一杯背もたれに沈んだ小柄な男は、小さな声で続けた。


「これ言っちゃうとなんかちゃんと教えられないかなとか、幸助くん嫌かなとか考えてて、言わないでおこうって思ったんだけど」


幸助が身を起こした途端、かいはスマホを素早く引っ込めた。怯えたように上目にこちらを見る表情は、手のひらに収まるサイズのか弱い小動物にも見える。

仕舞い忘れた八重歯が下唇に食い込んでいるのに気付き、幸助は場違いに可愛いと思ってしまった。


「……えっと、嬉しいけど意外っつーか……俺らのどの辺が?」

ふと思いついて聞いてみると、櫂はちらりと顔を上げてからそっと手のひらを差し出した。

意味がわからず黙っていると、櫂が大きく息を吸ってから勢いよく答える。


「こ、幸助くんの作る曲がめちゃくちゃ好きで! コード進行とかメロディとかそれだけで感情が伝わってくるし物語を感じられて、特にCメロラスサビ前の展開がどの曲も天才すぎて絶対真似できないっていうか真似しようとしたけど無理で、てかやっぱPinkertonの曲は幸助くんの声で歌うからエモーショナルなんだなっていつも……」


失速した櫂の声はみるみるボリュームを落とし、最後の「思ってます」は店内BGMに紛れるほど小さかった。

興奮すると息継ぎを忘れ早口になってしまうタイプのようで、俯いてしまった櫂は肩で大きく深呼吸をしている。


幸助はというと、真正面からのベタ褒めを食らってニヤける口元を隠すのに必死だった。

これがただのファンからの評価なら聴き飽きたと言えてしまうが、彼はALLTERRAオルテラの八坂櫂だ。

自身も全曲作詞作曲をしており、かつその楽曲が世間に広く評価されている彼にここまで言われたら、つい鼻の高さを確かめるくらいには舞い上がってしまう。


「この事、佑賢ゆたかは知ってんの?」

礼を言おうかと思ったが、なんだか照れ臭くて話題を変えてしまった。

すると櫂は、赤い顔のまま瞳を泳がせ、迷いながらも頷いた。

「……俺があまりに食いつくから、佑賢くんも最初めちゃくちゃ疑ってきて……」

「まぁそうだろうなぁ。俺でも怪しいと思ったぐらいだし」

途端、櫂の眉がみるみる下がり、泣きそうな顔になった。なぜか罪悪感を感じた幸助は、咄嗟に「今はそうでもないけど」と付け足してしまう。


実際、八坂櫂がPinkertonのファンだと知った瞬間から彼への疑念はさっぱり消えてしまっていた。

自分の音楽が認められて嬉しかったからではない、彼の心情がやっと理解できたからだ。

例えば、敬愛するグリーンデイのビリーに歌詞を一緒に考えてくれなんて言われたら、恐れ多い気持ちはあれど断る理由はない。日本語で歌詞を書きたいが俺は日本語ができないんだ、なんて言われたら、日本語ができる幸助としては是非力になりたいと思ってしまうし、言ってしまうだろう。

八坂櫂にとって今回の依頼はそういう事なのだと、幸助は理解した。そして、タダでいいと言った櫂の真意も、そういうの全てひっくるめて交渉をまとめた佑賢の決断も、全てつっかえずに飲み込むことができた。


そうなると、なんだか気持ちまで大きくなってしまう。立場が逆転したように、今度は幸助が萎縮している櫂に笑いかける番だった。

「なんか、さっきまでとは全然違う人みたいに見えるわ。こっちの方がただの八坂櫂?」

「そう。さっきまでのは芸能人の仮面かぶって必死に取り繕ってた俺」

芸能人の自覚はないと言ったその口で、櫂は本音を吐き出しはにかんだ。

そのまま眼鏡を外すと両手で顔を覆い、あぁ、という声にならない声をあげる。


「も~、ほんっと緊張した……」

「いやいや、俺の方が緊張したわ」

「いや! 俺の緊張の方がやばかった。だってずっと好きでめちゃくちゃ聴いててCDは絶対フラゲしてライブも通った推しとファンだって悟られずに話さなきゃいけないんだよ? 見てこの手のひら! 冷静さを保つためにすごいつねってたから赤くなってるし!」


何を張り合っているのか、左手を突き出した櫂がまた早口に捲し立てる。

子供じみた主張がばかばかしくて、幸助は声を上げて笑ってしまった。十分前の自分には考えられない光景だ。

笑われた櫂は少し不服そうに眉を顰めたが、次の瞬間には解けた笑顔で手のひらを引っ込める。

櫂の熱意は本物だと、幸助は思った。そうなると、次に湧いてくるのは純粋な好奇心だ。


「いつから? っつーかどこで知ったの?」

矢継ぎ早な質問に、櫂は幾分か落ち着いた様子で答えた。

「吉祥寺JOINで、8組くらい対バンしてた時」

「JOINはライブやりすぎて全然絞れねぇ」

Pinkertonが最もライブをやっている箱の名前がさらりと出てきて、ニヤけそうな口元を必死で我慢した。

平静を装ってきっぱり言い返すと、櫂は幸助を試すように切り込んでくる。

「えぇとね、『ボイジャー』のラスサビ前で幸助くんの五弦が切れた時」

「え? 待てよそれいつだ? つーかそんな細かいこと覚えてねえ」

「じゃあこれならわかるかな。まだゴンちゃんが加入してないスリーピースで」

「は?」

「その時俺17だったんだけど、年齢偽ってJOINでバイトしてて、そこで初めてライブ見て」

「はぁ!? 17!? ってことは俺18!? 18でJOINってそれ、箱ライブ初ぐらいの時じゃん!?」

立ち上がる勢いで叫んでしまうと、櫂が苦笑しながら人差し指を立てた。声が大きい、と小さく嗜められても興奮がおさまらず、幸助はずっと「マジで?」を繰り返す。

「だってそん時フロアほとんど誰もいなくて、いても学校のクラスメイトで……ってスタッフだったらフロアいなくても聴けるか」

「バーカンの裏でグラス洗ってたんだけど、すっごい良い曲だったからカウンター立って聴いてた」

脳裏に浮かぶ、小さなライブハウスの隅の一畳程度のバーカウンター。雑に並べられた大量の酒瓶を背に、いつもやる気のないスタッフが無愛想に酒を提供していたその空間に、櫂は居たのだ。

「マジか……すげーなそれ、最古参ってやつだ」

「そう。俺の密かな自慢!」


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