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9:世界の色が変わった日

満面の笑みで大きく頷く櫂に、幸助は言葉なく背もたれに沈み込んだ。未だ醒めやらぬ興奮に眩暈を起こしそうだ。


かいが偶然居合わせたその場面は、Pinkertonピンカートンが初めて学外で演奏した記念すべき初ステージだった。

まだ高校在学中だったが、懇意にしていたライブハウスの店主が大学進学を決めたご褒美にと出演を許可してくれたのだ。


とはいえ、バンドとしてのオリジナル曲はまだ五曲程度で、ギターのゴンが加入する前なので音の厚みも足りておらず、もちろんまともな客なんて一人もいなかった。

駆けつけた同級生数名も散々同じ曲を聞かされているからかノリがイマイチで、なんとも地味な初ステージだったことを覚えている。

曲中にギターの弦が切れたことも鮮明に思い出した。

オリジナル曲の中でも特に自信があった曲だが、弦が切れた事で動揺して最後のサビの歌詞が飛んだことも思い出した。

浮かんだ光景の中にバーカンを探したが、ステージ上からは暗すぎて見えないということも思い出した。

あの日の打ち上げはひたすら反省会で、でもその悔しさをバネに次へとつなげたから今のPinkertonがあるということも、思い出した。


そんな大切な思い出の片隅に、櫂はいたのだ。

そして彼は、あの日の散々な演奏にもポジティブな感想を抱き、ずっと自分たちの曲を聴き続けてくれていた。

櫂自身が生み出し奏でるALLTERRAの音楽の中には、櫂が好きだと言ってくれたPinkertonの、幸助の音楽がカケラでも混ざっているということだ。


「……いやぁ、信じられんわ。こんなことあるんだな」

「俺も、今日幸助くんを前にして信じられない気持ちだったよ」


そう言ってくしゃりと笑った櫂は、この日初めて座席に深く沈み込んだ。しばらく宙を見つめ、大きく息を吐く。


「初めましてって挨拶するとしたら、どこかのライブハウスの控室かなってずっと思ってた。そうなるように願って音楽やってきたし、何度も妄想したし……でもまさか、ファミレスとは」


櫂は小さく笑って、空になったグラスを指で弾いた。幸助が笑って同意すると、八重歯を見せてはにかむ。

その照れ笑いが、やけに幸助の胸を突いた。

見知らぬ感情が形を成して喉元をこみあげてくるようで、幸助は咄嗟に櫂から目をそらす。


この動揺の意味はよくわからないが、とりあえず嫌な感情ではなさそうだ。

これは多分、嬉しいということだろう。

だって八坂櫂はこんなにいい奴だったんだから。


自分の音楽を好いてくれているとわかってすぐこんな風に思うのは現金かもしれないが、その話題を抜きにしても、好きなものを一生懸命に語る櫂の様子には好感が持てた。

一挙一動が小動物のようで見ていて飽きないし、初対面なのにこんなにもっと話したいと思う人間はそう出会えないだろう。


幸助は、まだ名前のない感情を噛み砕き、そのまま言葉にすることにした。

先程よりずっと心地いい沈黙を小さい咳払いで割いて、幸助は身を乗り出す。


「なぁ、友達として、ってのはどうよ?」

「……ん?」


少しの間を置いて首を傾げる櫂に、幼い頃見たリスのキャラクターを連想した。つい口元が緩んでしまったが、誤魔化す隙がなかったのでそのまま言葉を続けてしまう。


「いや、講師とかそんな堅苦しい感じじゃなくてさ。友達として作詞について色々教わるってのはどうかな、って」


この提案に深い意味はない。ただ思いつくままに言ってみただけだ、と幸助は思っていた。

その思いつきの裏側にもっと打算的な感情がある事に、とりあえず今は気付かないフリだ。


「講師っつーとどうしてもさ、結果出さなきゃとか、金払わなきゃとか考えちゃうけど。友達としてなら相談感覚で色々質問も出来るし、礼も飯奢りとかで返せるし、俺もお前も気軽じゃん……ってこれ、俺だけか? 気軽なの」

「ううん! いいと思う!」


櫂が飛びつくような勢いで身を乗り出してきた。その表情からは遠慮や譲歩といった色は一切感じられない。そこまでかと驚くような喜びようで、櫂は笑みを広げて頷いた。


「そうしよう! 友達として、俺は一週間幸助くんの作詞の手伝いをする!」


櫂へのメリットがあまりないんじゃないか、という疑問は、櫂の勢いに押し負けて消えてしまった。

「じゃあそんな感じでよろしく」とぶっきらぼうに話をまとめた幸助は、少し考えてから片手を差し出す。


友達になるのに必要な儀式などない。

そもそも「友達になろう」なんて口にすることも、大人になってからは滅多にない。

けれどこの時幸助は、なぜかそうしたかった。

八坂櫂と自分の関係に何かの名前をつけたいと思ってしまった。


それが自分の根底にあるささやかな所有欲から来る行動だとは気付きもしないまま、幸助は櫂の手に触れ、一度強く握った。


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