同時刻、ファミレスを出た佑賢は向かいの喫茶店でコーヒーを啜っていた。
手元にタブレットを広げているが、画面は随分前からブラックアウトしたままだ。
「なぁ
並びに座ってノートパソコンを弄るゴンが、横を見ずに切り出す。
唐突に名前を呼ばれた動揺を瞬き一つでいなしていると、ゴンがため息混じりにこう続けた。
「お前頭いいのに、なんでそんな馬鹿なんだろうな」
「なに、喧嘩なら買うけど?」
二人は同時に顔を上げ、視線を交わした。しかし火花は散らない。
ゴンの目に呆れの色を見つけて、佑賢がすぐに視線を逸らしたからだ。
「バカにはしてねぇよ。同情はしてるけど」
言葉の割に、ゴンは歯を見せてにたりと笑う。派手な髪色とおもちゃみたいな色のグラサンフレームがまるでピエロのようだ。相変わらず視覚的にやかましい男だと思いながら、佑賢は背もたれに身を沈めた。
「まぁ……言いたいことはわかるよ」
「自分でもわかっててやってるなら幸助より馬鹿だな。おめでとうキングオブ馬鹿」
「何だよ。やけに突っかかってくるな」
歌うように告げられた皮肉に顔をしかめると、ゴンは意地の悪い笑みを貼り付けて小さな丸テーブルに肘をついた。上半身ごと佑賢の方へ向き直り、反応を楽しむかのように続ける。
「田中パイセンの思いつきをやんわり否定するくらい、お前なら訳ないだろ。なんでそうしなかった?」
ゴンの問いかけで、佑賢の意識は二日前の居酒屋に戻る。
『お前が日本語で歌詞を書けるようにならないと、俺たちここから先に進めないんだよ』
あの時溢してしまった情けない言葉で、幸助は席を立った。
そうするだろう事はわかっていたが、気持ちを抑えきれなかった。これは佑賢の紛れもない本音だ。
高校2年で結成したPinkertonは、当時から幸助作のオリジナル曲を演っていた。
その頃の幸助は日本語詞しか書けなかったが、拙いなりに真っ直ぐで熱い歌詞は確かに同世代に響いていた。
そのまま自分の歌詞の世界を突き詰めれば今のようにはならなかったろうに、当時のロックブームに素直に乗っかった幸助は、全英語詞で歌い上げる邦ロックバンドの真似をするようになった。
日本語なんかダサい。
愛を歌うなんてハズい。
そんな意識に取り憑かれたまま、彼が歌い上げる世界はどこか凡庸で中身のないハリボテになってしまった。
もう一度、バンドを始めたころのような真っ直ぐな歌を歌って欲しい。
難しい言葉なんか使わなくていい。
幸助には幸助の世界があって、そこから紡がれる歌詞は誰かの背中を強く押すような、誰かの手を強く引っ張るような、そんな力がある。
なのに幸助はもう、自分の作った日本語曲を演奏しようとしない。
『……何より俺自身が、幸助の歌詞に救われた最初の一人です。あいつの歌った言葉が、迷い立ち止まってた俺を音楽の世界に引き摺り込んでくれた。ものすごい力をくれました。今でももらってる。俺があいつを盲信できるのは、その歌を忘れられないからです』
幸助がいなくなった空間を見つめながら、佑賢は無心で話し続けていた。
言葉を声に出せば頭の中が整理されるかも、と思ったのだが、強い感情が呼び起こされてしまっただけだった。
体を冷やそうと幸助のジョッキに手を伸ばす。佑賢は下戸だが、このテーブルにノンアルコールの飲み物はない。だから溶けかけた氷だけを口に含んで、こみあげる熱とともに噛み砕いた。
佑賢の話を黙って聞いていた先輩の田中は、長い唸り声のあとでこう言った。
『なるほどなぁ。って事はあいつ、作詞の仕方を忘れてんだろうなぁ』
その後続いた言葉は、店の外で佑賢が幸助に告げたものとほぼ同じだ。
作詞の仕方を忘れているなら、思い出させてくれる人間がいればいい。
自身も作詞をしている人間なら、自分の感情や感覚をどう言葉にするか、それをどう音に乗せていくか、その方法を教えてくれるはずだ。
作詞の講師みたいな人間が近くにいれば、幸助も作詞という活動に抵抗なく向き合えるんじゃないか。
田中の言葉は尤もだったが、佑賢もゴンもあまりピンときてはいなかった。
「作詞の講師」という言葉で思い描いたのは、プロの作詞家や歌人、作家などの高尚な人物だ。
そんな人間にツテはないし、そんな人間とあの幸助がうまくやれるとも思えない。
佑賢がそれを告げると、田中は何故か得意げに笑って見せた。
『そんなお偉いさんなんか俺にもツテはねぇよ。ただな、作詞ができて幸助とうまくやれそうな奴は一人知ってる』
『そいつ、作詞の事教えられるんスか?』
もったいぶるような田中に、ゴンが前のめりで食いついた。佑賢も目だけで田中を急かす。
そんな二人を楽しむように、田中は煙草に火をつけ一口味わってからこう言った。
『……というか、幸助には作詞よりも恋愛を教えた方がいい。そのほうが早いな、間違いなく』
***
「田中先輩の言ってる事が尤もだったから否定しなかった。それだけだ」
佑賢はたっぷりと間を開けてからゴンの問いに答えた。
ゴンの口元から笑みが消えても、佑賢はそれ以上何も言わない。
二日前の田中の言葉は、思い出せば思い出すほど
田中の見立てでは、幸助は今「作詞の仕方を忘れている」と同時に「自分の感情を歌う術を忘れている」のだそうだ。
そして、おそらく作詞の仕方はすぐに思い出せるだろうが、自分の感情を言葉にして歌う事は一人で思い出すのは難しいはずだ、と田中は言った。
『だから恋をすればいい。幸助の感情が自分では制御できないほど揺れ動いて、それをどうしても誰かに伝えたいと思ったときに、Pinkertonの楽曲は強いメッセージ性を持ってオーディエンスに届く。それがメジャーで期待されてるお前らの影響力だと俺は思う』
全く、食えない人だと佑賢は改めて思っていた。
常に酔っ払っているような田中は馬鹿話かパワハラしか出来ない人だと思っていたが、存外後輩の事をちゃんと見て、考えてくれているようだ。
佑賢はこの時密かに田中への評価を変えたが、そんな事はおくびにも出さずに納得と賞賛の言葉を告げたのだった。
「でもだからってさ、お前の気持ちを殺す事はないんじゃねーの? 何年も想い続けて、やっと来たチャンスじゃんか。なんでそんなすぐ遠慮しちゃうんだよ」
ゴンの声に苛立ちが滲み始めていた。貧乏ゆすりを始めた膝を嗜めるように一度視線を落とし、佑賢はゴンを見た。
「遠慮じゃない。俺じゃだめなんだ。全部田中さんの言う通りなんだよ。初めましての出会いの方が感情が動きやすい。女だったら恋愛の一択になるが、男だったら恋愛と友情どちらに転んでも幸助の感情を動かせる。向こうは幸助を紹介してくれって田中さんに言ってきてるくらいだから既に好意的だし、面倒見の良い幸助なら年下とうまくやるだろう。今日しゃべった感じだと幸助が嫌いなタイプではなかったし、顔も可愛い系だし、この作戦は多分うまくいく。Pinkertonメジャーデビューは確実に見えてきてるんだ。だから、」
一度呼吸を挟んだ佑賢は、ヒートアップしている自分を冷静に見つめ、対処しようとしていた。
これから言う言葉は、二日前どころかもう何年も前から自分に言い聞かせ続けている言葉だ。
呪文のように唱え続けているから、口に出す事ぐらいどうという事はない。
息を吸って、吐きながら言って、それで終わり。
ゴンは食い下がるだろうが、佑賢にとってはそれ以上でもそれ以下でもない真実だ。
「……俺のこの感情は、今まで通り亡き者として扱う。それだけだ」