午後四時半を回って、井の頭公園は少しずつオレンジ色に染まっていた。
すっかり晴れ渡った空はいくつかの雲を残して青々と突き抜け、木々の合間から差し込む西日が徐々にその青を飲み込んでいく。
「今日はボートやってないの?」
バケットハットを持ち上げた
休日はスワンボートとや手漕ぎボートが接触しそうなほど浮かんでいるが、今日は水鳥たちがのびのびと水面を滑る様子がよく見えた。
「やってるけど客がいないだけ。平日は毎日こんなもんだよ」
幸助が答えると、櫂はわざわざ振り返って対岸のボート乗り場を見つめた。
「平日なら乗り放題か……」
櫂がやけに真剣な声色で言うものだから、幸助は思わず吹き出してしまった。
「そんなに乗りたいか? 確実に悪目立ちするぞ」
「競争とか出来そうじゃん! やってみたいんだよね、スワンボートレース」
子供みたいに目を輝かせる櫂は、今にも「やろうよ」と言い出しそうな様子だった。
レースを挑まれたら断る理由はないが、心配なことが一つある。
公園の中心に位置する井の頭池は周囲が遊歩道になっているので、ボートに乗ったら四方八方から目撃されるという事だ。
公園内も休日ほど人が多いわけではないが、ジョギングや犬の散歩をしている近所の人が多く、夕方のこの時間になると子供や学生の姿も増えてくる。
帽子と眼鏡で顔がよく見えなくても、はしゃぐ声で
彼が街や公園をのんびりと歩くその姿は、確かにどこにでもいる普通の若者のように見える。
ブランド物を着ているわけでもギターケースを背負っているわけでもないから、その姿は景色に溶け込んでいて目立たない。
が、やはり隠しきれないオーラみたいなものが、確かにある。
顔が小さすぎるとか、髭が全然ないとか、信号待ちの立ち姿すら撮影中かと思うほど様になっている事とか、彼の一挙一動がやけに輝いて見えるのだ。
夕日に目を細める横顔なんて、何かのミュージックビデオで見たような錯覚すら覚える。
こんな調子じゃ声をかけられてしまうのも当たり前だと、幸助は密かに周囲に気を配り続けていた。
別に声をかけられたところで自分に害も非もないのだが、櫂が迷惑そうにしていたら止めに入らなければならないという謎の責任感を抱いてしまったのだ。
今もつい、向かいから走ってくる自転車の女子高生が櫂に気付いて急ブレーキをかけるんじゃないかと身構えてしまう。
そんな幸助をよそに、隣を歩く櫂の意識はボート乗り場から前を歩く小型犬のしっぽに移っているようだ。
もふもふしてる、と顔を綻ばせるその横顔に、幸助は本日何度目かの動揺を飲み込む。
「櫂くんて、普段からよく散歩とかすんの?」
落ち着かない心をどうにかしようと、幸助は話題を変えた。
櫂は「そうだねぇ」とのんびり答えながら黒縁メガネを外している。
そのまま帽子まで脱ぐんじゃないかとハラハラしてしまったが、櫂はメガネを胸ポケットに挿しただけで幸助を見た。
「歌詞を考えたいな~って時は、よく散歩するかな。目的もなくぶらぶら歩いてると、ふと目に入ったものや人の様子、色とか空気、気温なんかが引き金になって、言葉やフレーズが浮かぶことが多いから」
櫂の言葉で、急に作詞のことを思い出した。
櫂との出会いに浮かれて二の次になっているが、幸助にはバンドの将来を決める重要な課題が与えられている。
たった七日間で三曲分の日本語詞を完成させること。
櫂という強力な助っ人を得たものの、幸助は今のところ出来る気がしていない。
「歩きながらかぁ。見知らぬ土地ならまだわかる気がするけど、見慣れた場所だと大して想う事なくね?」
「そんなことないよ。この公園も、何度も来た事あるけど今日の俺には全然違う場所に見える」
櫂はそう言いながら周囲をぐるりと見渡した。
幸助も一緒になって公園内に目を向けてみたが、めぼしいものは特にない。
もう何年もスタジオへの通り道にしているから、どの季節の公園も見飽きているのだ。
幸助は櫂の横顔に視線を戻した。
その目には今何が映っているのだろう。
その目で見た景色は、今自分が見ているものとは全然違っているのだろうか。
そういう目が無ければ良い歌詞は書けないんじゃないか。
ぐるぐると渦巻く不安に囚われそうになった時、不意に櫂がこちらを見た。
「幸助くんは、いつもどうやって作曲してるの?」
目があって軽く肩が跳ねたが、突然の質問に驚いたから、ということにしておいた。
逃げるように顔ごとそらしつつ、ん~、と短く唸ってから答える。
「メロディとかコード進行は思いついたらとりあえずメモっといて、あとは家とかスタジオとかギター弾ける場所で一曲にまとめる感じ」
「一緒だ。俺もそうしてる」
櫂の声がうれしそうに跳ねた。
綻ぶ顔を直視できず、幸助が生ぬるい相槌でごまかしていると、櫂はわざわざ幸助の前に回り込んでこう言った。
「じゃあさ、作詞も同じ方法でやってみない?」
思わず足を止めた幸助を気にも止めず、櫂はスマホを取り出し手早く操作した。
何事かと様子を窺っていると、幸助の鼻先にスマホ画面を突きつける。
「これ、俺のネタ帳。幸助くんがメロディを思い付いたらすぐスマホに吹き込むように、俺も何かピンとくる単語やフレーズに巡り合ったり思い付いた時すぐここにメモるようにしてるんだ」
少しのけぞって画面にピントを合わせると、想像以上にたくさんの文字がびっしりと並んでいた。
そこに書かれているのは歌詞というより、単語や短い言葉の羅列のようだ。
句読点で区切られた言葉たちには統一性がまるでなく、漢字もカタカナもひらがなも英語もバラバラ。
「踏切」の隣に「アンチヒーロー」という単語が並び、さらにその隣には「君は今日も無口だね」とセリフのような一文がある。
そこに書かれた内容からは、櫂がどこでどんなふうにこの言葉たちを見つけたのかも、これらがどんな歌詞になっていったのかもまるで想像がつかない。
「幸助くんの作曲みたいに、ここにメモった単語をつなぎ合わせて詞にする事もある。歌詞を書いてて、別の表現をしたかったりうまい比喩が見つからなかったりしたらこの中からヒントを探す事もある。まだ一切使えてない単語もいっぱいあるけど、いつか使うかもしれないと思って全部保存してある。やればやるだけヒントが増えていくから、高校の頃からずっと続けてるんだ」
櫂は一度だけ画面をスクロールした。どこまで行っても、文字の密度は変わらない。
黒い文字で埋め尽くされた画面に圧倒されていると、櫂はスマホをポケットに仕舞ってしまった。
「というわけで、ちょっと先生っぽいことを言わせて」
くしゃりと笑って見せた櫂は、背筋を伸ばしてから人差し指をひょいと突き立てる。
「作詞の先生として、今日は幸助くんに課題を出します」
「え、まさか」
言わんとすることを先読みしてしまうと、櫂は楽しげに笑って頷いた。
「幸助くんのネタ帳を作り始めましょう! 今この瞬間から、何でもいいから単語をメモってください! 手始めに今日は五十個!」
「ごじゅう!? 多くね!?」
「全然! 五十個なんてあっという間だよ。何でもいいんだから」
幸助の抗議の声は、笑顔であっさり却下された。
渋々スマホを取り出しメモアプリを開いてみるも、点滅するカーソルを見つめるだけで指が動かない。
「たとえばさ、見て」
櫂の声に顔をあげると、促されるまま上を見上げた。
櫂が指差すそこには何もない。生い茂る木々が視界の右端を縁取るだけで、変な形の雲もない。
ただ空があるだけだ。
「これ、何色って言うんだろうね」