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14:短期集中講座1日目

心地よい沈黙の中で、風の音に耳を澄ましながらふと顔を上げた。

視界の色がすっかり変わってしまっている。

木々の間から見える空は紛れもなく紫色で、あれだけ眩しかった西日はとっくに沈んだようだ。

吐き出した吐息の音で、かいがこちらを見たのがわかった。

目が合うと、ゆるく持ち上がる口角。この一瞬にすら言葉が溢れていることに、幸助は密かに息を呑んだ。


「そろそろ危ないから、座って書く?」

櫂はそう言うと、池に向かう二人がけのベンチを指した。

幸助はそれに応じながら、無駄に歩かせてしまった事を詫びた。

「全然平気。どっかで聞いた話だけど、歩きながらの方が考え事に向いてるんだって。俺も色々考え事出来たから助かった」

隣り合って腰を下ろして、櫂は身を乗り出して池の水面を覗き込んだ。

その横顔から無理やり視線を剥がすと、急いでスマホに文字を打ち込みながら答える。

「なら良いけど……よし、一旦終わり。あとは帰りながら書くわ」

これだけは、と思っていた言葉を書き留めて、幸助はスマホをポケットへ仕舞い込んだ。

あっという間に辺りは夜に飲まれていき、隣の櫂の姿も薄闇の中だ。

背後の街灯のおかげで、帽子が顔に影を落としている。

「五十個、余裕だったでしょ?」

「うん。なんか、思ったよりいけたわ」

曖昧な言葉で誤魔化したが、幸助の中の手応えはそんなものではなかった。

家に帰ったらメモを読み直して早速一曲作ってみようと思える程には、自分の中から言葉が溢れて止まらない。

こんな状態は生まれて初めてで、興奮覚めやらぬまま幸助は口を開いた。


「櫂くん、今オフなんだっけ? 作曲期間とかそう言うやつ?」

「それもあるし、来月からアルバムのレコーディングとツアー準備に入るから、その前にまとまって休んどこって感じ」

「めちゃくちゃ貴重な休みじゃん」


はしゃいでいた気持ちが一気に落ち着いてしまった。

メジャーアーティストの数ヶ月に一度の連休を、まさか自分が奪っているとは。申し訳なさから言いかけた言葉を飲み込んでしまうと、櫂は幸助の気持ちを察したように笑った。


「休みより貴重な出会いがあったから平気。まだあと六日もあるしね! 何しよっかな~」

子供のように足をバタつかせて、櫂が歌うように言う。

楽しげな姿を横目に、幸助は飲み込んだ言葉を少しだけ舌先に乗せてみた。

口に出すかどうか迷っては引っ込めてを繰り返していると、櫂が一際大きな声をあげる。

「あ! 見たい映画あったんだ! ねぇ幸助くん、明日暇?」

「明日、は、何もないけど」

咄嗟に返事をしながら、舌先で遊んでいた言葉を取りこぼした。


本当はこっちから言うつもりだった。

明日でも明後日でも、また会えないかな。

飲みに行くだけでもいいし、やりたいことがあるなら何でも付き合うから、と。


「じゃあ映画付き合ってくれない?」

「いいけど……俺じゃなくても他に遊びたい奴とかいたら、」


断る理由なんてこちらにはひとつもない。

けれど素直に「じゃあ行こう」と言えなかったのは、体の内側で膨らんだ感情を抑え込むのに必死だったからだ。

なんでもないようなフリをするのに必死だったからだ。

勘違いしてはしゃがないように、他の可能性を潰しておきたかったからだ。

そんな幸助の心情を全て知っているかのように、櫂はふわりと微笑んだ。

幸助が皆まで言わぬうちに距離を詰めて、鼻先が触れ合うほど近くで止まる。


「幸助くんがいい。幸助くんじゃなきゃダメなんだ」


そう囁く声は、幸助の耳の中に粘性を持って滑り込んできた。

頭の中にねばねばとくっついて、思考の全てが彼の声と言葉に持っていかれる。

この距離の意味もうまく飲み込めない。

視界の中心で、大きな瞳が弓なりになるのをただ見つめる事しか出来ない。


身じろぎも出来ない幸助をよそに、櫂はどこか楽しそうに身を引いた。

瞬きと共にやっと意識を取り戻した幸助は、薄闇の中でしてやったりと笑う櫂を見ていた。

「だって幸助くん、ゴジラ詳しいでしょ? 俺が見たいのハリウッド版ゴジラの新作なんだ」

あぁ、とか、なるほど、とか、その類の言葉をなんとか絞り出しながら、幸助は動揺の海から命からがら浮上した。まだ体と心が定位置にないような違和感を覚えつつ、誤魔化し笑いと共に大口を叩く。

「それなら任しとけ。普通に観に行くより百倍楽しませる!」


期待してる、と笑う櫂の笑顔は、その夜幸助の脳裏から片時も離れてくれなかった。

待ち合わせの約束も「また明日」と手を振り合った最後の姿も、幸助の体を地上から数センチ浮かせた。

その日は鼻歌を歌いながら帰った。

家に着いたら着替えるよりまずギターを手にして、新曲を一曲仕上げてしまった。


軽やかに弾む楽しげなメロディに乗せて、今日メモした言葉たちを眺めてみる。

音に乗せてしまうのはまだ怖いが、口ずさんでも違和感のない単語はチラホラと見つけることができた。

幸助はその曲に、まずタイトルをつけた。

新しく立ち上げたメモ帳に日本語を打つ。

漢字を使うかひらがなのままかで十数分迷ったが、結論は先延ばしにすることにした。

《また明日》

歌詞ができたらもう一度考えよう。

そう心に決めてメモを閉じると、明日履いていこうと決めたとっておきのスニーカーを下ろす。


浮かれていた。

こんなに浮かれたのはいつぶりだろうと思うほどには、浮かれていた。


浮かれた幸助は再び夢を見た。


同じ夏フェスの夢だ。嵐の中、グリーンステージのライブを見ている自分。

相変わらず身動きは出来なかった。金縛りにあったように、片手を上げることも声を出すことも出来ない。


けれど今回は、音が聞こえた。

大粒の雨が打ちつける音と、そんな騒音さえ曲の一部にしてしまう力強い音楽。

グリーンステージに立つ人物の顔も見えた。


嵐の中で楽しげにはしゃぎ歌うのは、櫂だった。

ALLTERRAオルテラのライブは見た事がないはずなのに、歌い方もギターの鳴らし方も客の煽り方も何故か鮮明に映った。


歌う櫂は楽しそうだった。気持ちよさそうだった。幸せそうだった。

その笑顔に導かれるように、雨雲が割れて光が差した。

いつまでも見ていたいと思う、美しい光景だった。

あわよくば櫂のもとへ駆けつけたいという衝動も増している。

神々しい景色はやがて眩い光に飲まれていく。


ああ、目が覚める。そう感じた次の瞬間、幸助は現実の朝日の中にいた。


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