心地よいすっきりとした目覚めはその日一日を体現していたようだ。
朝から何もかもが気分良く進み、
話したい事は常に溢れていたし、一緒に見たいものが世界に増えていたし、何より櫂が一日中楽しそうだった事が幸助のテンションを高いままにしていた。
櫂との時間は、昨日初めて会ったとは思えない程楽しくて気楽だった。
こういうのを波長が合うと言うのだろうか。
長時間一緒に居ても疲れない、頑張らなくても心地の良い時間を過ごせる人間というのは案外貴重だ。
対人関係にはそこそこ器用な幸助でも、ここまで気楽に過ごせるのはバンドメンバーぐらいのものだった。
出会うタイミングがもっと早ければ一緒に音楽をやっていたかもしれない、なんてぼんやり考えて、帰りの暗い夜道でニヤついてしまう。
楽しかった、面白かった、嬉しかった会話や出来事を反芻しながら、幸助はスマホを取り出した。
昨日櫂から教わった「心に残った言葉をメモっておく」を今日もしっかり続けている。
思いつくままに文字を打ち込んでいると、不意に着信画面に切り替わった。
一拍遅れて感じた振動に、幸助は慌てて思考を切り替える。
「あーい、どしたのゴンちゃん」
ゴンからの着信は珍しくない。
彼は文字でのやりとりが億劫に感じる人間らしく、3ターン以上の会話が発生する場合は通話に切り替えてしまうのだ。
幸助の着信履歴にはマネージャーよりも親よりも「ゴン」の名前が並んでいる。
『お前昨日どーだったんよ。
開口一番、挨拶もぶっ飛ばしてゴンは本題を切り出した。
この様子だと、昨夜からずっと気にかけてくれていたのだろう。報告をすっかり忘れていたと詫びると、ゴンの声に不機嫌さが増してしまった。
『まぁ俺に愚痴ってこねーって事はうまくやれてるって事なんだろうけどさ』
「拗ねるなよ~。めっちゃいいやつだったよ。今日も遊んできた」
『はぁ? 今日も? なに、惚れたんか?』
「んなわけねぇし。櫂は男だよ」
『関係ねぇだろ性別は』
幸助が笑い飛ばすと、通話口のゴンがぴしゃりと言い放った。
その声があまりに真剣で、幸助は思わず口を噤んでしまう。続くゴンの声は幾分かいつもの柔らかさを取り戻していたが、低い声にはまだ不機嫌さが残っていた。
『お前が今ノーマルでも今後変わる可能性あるんだし、そもそもお前の常識が相手の常識とは限らねぇんだからな。ALLTERRAのボーカルがゲイとかバイの可能性だってある。笑い飛ばすのはやめろ』
ゴンはメンバー内では一番年上で、見た目の割に性格は至極真面目だ。
酒の場やライブ中は幸助と一緒にふざけてくれるが、時折こうして大人な面を覗かせる。
以前はゴンのギャップについていけず叱られてもふざけ続けていた幸助だったが、一発殴られてからは態度を改めた。
ゴンの言う事は尤もで、幸助はすぐに「ごめん、その通りだ」と返した。
そして口先だけでなく、櫂のことを考えてみる。
もし櫂がゲイやバイで、自分も恋愛対象だったとしたら。
まだそうと決まったわけでもないのに、何故か心が疼いて仕方がない。
この疼きが後ろ向きな感情ではない事も、幸助にとってくすぐったかった。
櫂がゲイやバイだったら嬉しいと思う自分が、確かにここにいる。
今日半日共に過ごした中で、櫂の言動のいくつかにその可能性を感じたのも事実だ。
例えば、待ち合わせ。
***
幸助は時間にルーズで大抵少し過ぎてから到着するのだが、今日は3分前に待ち合わせ場所に着いた。
新宿駅の改札前は、平日だと言うのに人の往来が絶えない。
柱や壁際に櫂の姿を探しながら人の流れを避けていると、視界の端に人だかりが映った。
何気なく視線を向けた先、複数人の女子高生に囲まれた櫂を認識した時は思わず綺麗な二度見をしてしまった。
櫂は昨日と同じく、キャップに伊達メガネという出立ちだった。
が、芸能人オーラが隠しきれなかったのか、はたまた新宿の女子高生の動体視力が良過ぎたのか、ALLTERRAの
興奮気味な女子高生たちは次々に握手やサインを強請り、その中心にいる櫂は苦笑を貼り付けながらも丁寧に対応していた。
オフの時の対応でその人の素がわかる、なんて言葉を思い出して、やっぱモテそうだなぁなんて昨日と同じことを考える。
メジャーデビューすれば全員があぁなるとは限らないが、その可能性すらもまだ手中にない幸助にとって目の前の光景は毒だった。
羨望と嫉妬が呼び起こされて、昨日縮まったと思った櫂との距離を勝手に突き放してしまいそうになる。
このまま放っておいてやろうか、なんて意地悪な考えまで浮かんだところで、すぐ隣で立ち止まった若い女性の声に引き戻された。
「あれってALLTERRAの? うっそかわいい~! 顔小さ! えっ、サインもらいにいっちゃう? いっちゃう?」
今にも駆け出しそうな女性二人組を横目に、幸助は覚悟を決めて一歩を踏み出した。
こういう場面は、実は初めてではない。
ライブ後、
そういうファンを相手にしてきた幸助にとって、櫂をこの状況から救うくらい訳はない。
幸助はパーカーの袖を肘までまくりあげ、左手を手刀のように前に出した。
「はいはいはいちょっと通るよ~」
声を張り上げて女子高生を後ろから牽制すると、櫂を囲う輪が少し離れる。
女子高生たちは怪訝な顔で振り向くが、突き出された腕に視線が落ちると弾かれたように大きく一歩引いていく。
彼女たちにわざわざ見せつけたのは、左腕に刻んだタトゥーだ。
二十歳になった時、ロックで生きていくと決めて衝動的にいれた。
デザインタトゥーなので和彫りほど迫力はないが、背丈もあるので女子供相手の威嚇には十分だろう。
女子高生の輪が崩れたことで、櫂も幸助に気付いたらしい。
表情を変えた櫂は、すかさず幸助の影に隠れるように滑り込んだ。それでも近づいてくるファンには「ごめんね、ありがとね」と律儀に声をかけ、幸助と並び立ってその場を離れようとする。
が、ファンの子供たちは強かった。
櫂の名前を呼び後をついてこようとする様に、幸助はついギョッとしてしまった。櫂も申し訳なさそうに何度も振り向き手を振るが、それが余計に周囲をざわつかせてしまっている。
仕方なく、幸助は悪者になることにした。
櫂を隠すように肩を抱き寄せ、足早に人混みに紛れる。
背後から聞こえた「誰あいつ」というコメントは地味に痛かったが、悔しさを噛み殺して歩調を早めた。
櫂を引きずるようにして階段を駆け登り駅構内から出ると、自販機の陰でやっと立ち止まる。
俯いていた櫂は、足を止めた途端ひょこりと顔をあげ、幸助を上目に見た。
「ありがとう、助けてくれて」
自分が引き寄せたくせに距離の近さに驚いてしまい、回していた腕を慌てて解く。
別に慣れてるし、なんて上の空で返しつつ平常心をかき集めていると、櫂はわざわざ幸助の顔を覗き込むようにして、こう言った。
「かっこよかったよ」