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30:ローリングストーンズ

六月も半ばを過ぎ、日本列島は梅雨の湿った雲に覆われ続けていた。

スッキリしない空模様と高い湿度、気軽に外に出られない陰鬱とした空気に押し潰されそうな日々だが、天候などお構いなく人生は坂道の石のように転がっていく。


一昨日も強い雨の降り続く億劫な天気の日だった。

Pinkertonピンカートンの三人は安っぽいビニール傘をさして一等地の高層ビルに向かった。

スーツを着た偉そうな人数名に囲まれて、おしゃれな調度品のある会議室で告げられたのは、正式なデビュー決定の告知だった。


期待をしていなかったわけじゃない。

櫂の力を借りて完成させた三曲は、出来上がってすぐにレコード会社に送っていた。

佑賢ゆたかとゴンの反応も上々で、佑賢経由で聴いたらしい望田からも『めちゃめちゃいい!』と連絡が来たほどだった。


レコード会社からの反応も早かった。

佑賢は呼び出しがあった時点でデビューを確信しており、契約の話まで詰めるつもりで準備をしていたらしい。


デビューの告知の後もしばらく会議室の椅子に座っていた幸助は、何を喋るでもなく、佑賢と偉い人の声を聴きながらぼんやりとしていた。

感動は予想より鈍かった。

もっと大はしゃぎするかと思っていたのに、雨のせいか、それともスーツと会議室のせいか、幸助は礼の一声もあげなかった。


嬉しい気持ちも達成感もあるにはあるが、自分の気持ちを第三者視点で見つめているかのような冷静さが邪魔をしていた。

これからよろしく、と差し出された手をとりあえず握り返しても、感覚は変わらない。

隣に座るゴンも置物のように黙っていたから、こういうものなのかな、ととりあえず受け止めていた。


マネージャーとして紹介された後藤という小男と別れ際にもう一度握手を交わして、三人は長いエレベーターに乗った。

エレベーターは三人きりだったが、誰も一言も喋らないまま一階に降りた。


出口へ向かおうとする幸助を呼び止めた佑賢が、ビジターの札を返却すると片手を差し出した。

すっかり存在を忘れていたその札を首から外し、佑賢の手に乗せた時、幸助は急に全ての感覚を取り戻した。


受け取る佑賢の手が震えていた。

気のせいではないほどしっかりと、震えていたのだ。


幸助は思わず顔を上げてしまった。

目があった佑賢は、眼鏡の奥をクシャリと細める。


その顔を見たらもう、駄目だった。

衝動的に佑賢の手を引き寄せ、ビジターの札ごと抱きしめてしまった。


誰かが雄叫びを上げていた。

幸助自身だったかもしれないし、全員だったのかもしれない。

三人は堰を切ったようにはしゃぎ、笑い、大騒ぎをした。

受付の女性が慌てて駆け寄ってくるぐらいには、盛大に抱き合い、喜びを分かち合った。


夢の扉が、ついに開いた。

まだ一つ目の扉だ。

でも、大きくて重くて、この扉を開けることができる人間はそういない、最初にして最難関の扉だ。


幸助はそこを開けた。

ついにメジャーデビュー。

自分たちの音楽が、いよいよ広く世界に発信されていく。


受付の人に頭を下げそそくさとビルを出た三人は、外に出るなり傘もささずに抱き合った。

雄叫びを上げながら雨に打たれ、興奮に震える体をどうにかしようととりあえず跳ね回り、無駄に何度もハイタッチをし、ハグをし、肩を組み、言葉もなくニヤニヤと笑い合った。


望田にもすぐに電話をした。

三人で同時に言葉にならない大声をあげ、望田は内容を理解すると電話の向こうで声をあげて泣いた。

それを笑い飛ばしながら、幸助も少しだけ泣いた。

佑賢とゴンも、きっと泣いていただろう。

雨は四人の涙を飲み込んで降り続いた。

なかなか泣き止まない望田に「早く戻ってこいよ」と何度も告げてから通話を終えると、三人はやっと人並みの落ち着きを取り戻した。


Pinkertonピンカートンのメジャーデビューは9月上旬。

ファーストシングルに収録するのは、かいと共に作った三曲で決定。

さらに表題曲『Howling』はタイアップが取れるかもしれないらしく、三人は急ぎプロモーションの準備を進めることになった。


「これから忙しくなるぞ。俺たちの環境も一気に変わる。個人のSNSも会社の管理下に置かれるから、過去のやばいツイートとか今のうちに消しとけ」

「やばいってさ、どうやばいとヤバイ?」

「日本語がクソだな幸助。AV女優のフォロー外したり、裏アカ女子のツイートのいいね消したりしとけってことだよ」

「それはゴンちゃんだけだろ! 俺はそういうの一切見てないから大丈夫」

「じゃあ幸助はあの鍵アカ黙っとくんだ?」

「えっ……待って佑賢なんで知ってんの俺が鍵アカ持ってるって」

「そりゃあ、Pinkertonのリーダーですし」

「怖っ! えっ、まさかフォロワー?! 違うよな? おいコラなんで黙んだよ!」


この会話の10分後、馴染みの店での打ち上げに向かう途中で、幸助は鍵アカを消した。

更新していないインスタのアカウントも消し、佑賢のアドバイス通りにLINEの連絡先もいくつかブロックした。


データを一つ消していくたびに、人生が変わるのだということを実感する。

データだけじゃない。リアルの生活も、これから少しずつ変わっていくのだろう。


事務所が管理しているマンションへの引っ越しも勧められている。

佑賢は前向きに検討しているようだが、幸助はあまり乗り気ではない。



***



それから三日が経っても、幸助の目に見える範囲に大した変化はない。

今日も馴染みのスーパーに向かう。

雨脚はだいぶ弱まったが、ビニール傘を打つ雨音が途切れることはない。肌にまとわりつくような湿気にも慣れてしまった。

スーパーの冷房は大して効いていないが、乾いた空気が少しだけ呼吸を楽にしてくれる。


こんなささやかな瞬間にも、言葉は溢れている。

幸助はカゴを手にすると同時に、スマホを取り出してメモアプリを開いた。今感じたことをさっとメモして、何事もなかったようにポケットに仕舞う。


かいに教えてもらった「単語メモ」の日課は今もしっかり続いていて、もはや幸助の癖のようになりつつある。

最近ではメロディと一緒に言葉が浮かぶことも多くなってきた。売れる歌詞が出来ているかどうかはまだわからないが、作詞という行為へのハードルは確実に下がってきていると感じる。


全て、櫂のおかげだ。

作詞がうまくいったのも、メジャーデビューできたのも、櫂という存在があったからこそだ。

どれほど感謝してもし切れない。礼の言葉を尽くしても足りないから、今度会ったら櫂の願いをなんでも一つ叶えてやろうと、幸助は考えている。


が、しかし。

その「今度」がなかなか訪れないまま時が流れていく。


以前櫂が言っていたように、ALLTERRAオルテラは今アルバムのレコーディングと全国ツアー準備に大忙しだ。

さらに、アルバム収録予定の一曲にデカいタイアップが決まったようで、プロモーションにも動かなければいけないらしい。


メジャーデビューを報告した電話で、櫂は声を落としてこう言っていた。


『直接お祝いしたいんだけど、しばらく全然時間とれそうになくて』


口では「全然いいよ、落ち着いたらまた飲もうぜ」なんて言ったが、幸助の気分は正直に沈んでいた。

自分の努力でどうにかして会えるなら、いくらでも動ける。寝ないで会いに行くとか、飲まず食わずで待つとか、きっと今ならそんな時間も苦にはならない。

けれど、櫂が忙しいのは自分にはどうしようもない。

櫂に無理をさせるわけにはいかないし、そもそも櫂には自分のために無理をする理由がない。


運命的な再会を経て、自分にとって櫂が特別なように、櫂にとっての自分もまた特別なのだと思い込んでいた。

けれどそれは盛大な勘違いでしかない。二人の間には確かに運命めいたものが存在していたけど、だからといって櫂の特別になれるわけではないのだ。


自分にとっての櫂が恋愛対象でも、櫂にとっての自分は「ギターを教えてくれた恩人」「憧れの人」止まり。

過去の繋がりに驚き燃え上がった感情が鎮火したら、あとはたくさんいるバンド仲間の一人に成り下がる。


会えない時間の中で少しずつ冷静になってしまった幸助の心は今、その事実に気付いて悲鳴をあげている。


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