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31:声の記憶

スーパーでいつもと同じラインナップをカゴに放り込みながら、幸助はぼんやりとかいを思い出していた。


最後に会ったのは作詞の短期集中講座最終日。

スタジオで二人きり、思い出話をしたあの日だ。

あれからもうすぐ一ヶ月が経とうとしている。


別れ際に抱きしめた記憶も、もう遥か彼方だ。どんな感触でどんな熱で、櫂がどんな顔をしていたかも全く思い出せない。

会いたい想いが募る反面、感覚や記憶はどんどん薄れていく。繋ぎ止めようにも、不定形なそれらは砂のように幸助の手の中から滑り落ち、あっという間に逃げていってしまう。


特に辛いのは「声」だ。

スマホを操作すれば歌声はいつでも聴けるのに、話し声や笑い声は記憶の中にしかない。けれど、熱や感触と違ってそれらは特に曖昧で、繰り返し聞かなければ覚えていられない。

幸助の中の櫂の声はもう、正しいかどうかわからなくなっていた。

わからなくなればなるほど、声が聞きたくなった。

笑顔はまだいくつも思い出せる。

でも、どんな楽器にも出せないあの笑い声が今、聴きたくてたまらない。


動画を撮っておけばよかったなんて馬鹿みたいな事を考えながら、幸助はレジに並んだ。店員の上擦った声が邪魔に感じて一度外したイヤホンを装着してしまう。

帰り道も、櫂のことで頭がいっぱいだった。

声が聞きたい。

会えないならせめて電話をしてみたら、と考えては何度も手を止める。


今、櫂は何をしてるだろう。

今日のスケジュールはなんだったんだろう。

リミックス作業か、レコーディングか、打ち合わせか、リハか、撮影か。

同業者だからこそ可能性はいくつも浮かぶのに、同業者のくせに丸一日暇している自分との差にも、なんだか打ちのめされる。


ビニール傘の雨模様を見上げているのにも飽きて、幸助はスマホを取り出した。

手癖でSNSを開くと、つい櫂のアカウントを見に行ってしまう。最新のツイートはラジオ局の投稿を引用したものだった。


『今夜23時から、みんな聴いてね〜!』


添えられた簡潔なメッセージに、時間表示を確認する。

ちょうど23時を数分すぎたところだ。


URLをクリックするとラジオ曲のwebサイトに飛んだ。

幸助はそこで初めて、DJ月替わりラジオ番組の六月担当に櫂が抜擢されていることを知った。

タイトルは『コズミックRADIO』。リスナーからのお悩み相談を中心に、今人気のアーティストやモデル、タレントが『宇宙の声』として様々なアドバイスを告げる……というコンセプトの番組らしい。

今月のDJとして紹介されている櫂の写真は撮り下ろしのようで、気合い十分とでも言いたげなガッツポーズは萌え袖だった。

キュッと結ばれた口元と、少し持ち上がった口角が小動物っぽくて可愛い。そこらの女子アイドルより可愛いんじゃないだろうか。


少しニヤつきながら、幸助は再生ボタンを押してみた。アプリが立ち上がり、すぐにイヤホンから鮮明な櫂の声が流れてくる。


『え〜、ありがたいことに一回目の放送にたくさんの反応をいただき、今日もなんか、お便りの数がすごいって聞いて……三百通? えっ、三百ですか? 一週間で? そんなに? えっ、すご!』


驚きはしゃぐ櫂の声が、幸助の記憶を上書きしていく。

櫂はテンション高めにオープニングトークを続け、早速一通目のお悩み相談を読み上げ始めた。

リスナーは女子高生らしく、相談内容は年頃の肌の悩み。

洗顔料なに使ってますか教えてください、と言う締めの一文を読み上げた櫂は、『ねぇこれ聞く人間違えてない? モデルさんとかならまだしも、バンドマンの僕に聞くことじゃないよね?』と笑う。


電波に乗って届く櫂の笑い声に、幸助は奥歯を噛み締めた。

街灯もない住宅街の夜道で、傘を放り出して叫び出したいような衝動をどうにか飲み込む。

やっぱり会いたい。話したい。声が聞きたい。

はち切れそうな欲望をよそに、電波の向こうの櫂は使っている洗顔料を正直に答え、照れ隠しのように曲紹介をする。

ALLTERRAオルテラの曲が流れ始めると、メロディを追いかけて衝動をいなす。


どうにか飲み込んだそれは苦く喉に残るようで、幸助は小さく息を漏らした。

恋愛ってこんなに手に負えない感じだっけ。片想いってこんなに苦しいもんだったっけか。

呆れにも似た感覚でどうにか自分を慰めて、暗い夜道を歩く。


自宅に帰り着く頃には、CMを挟んだ櫂のラジオは二通目のお便りを読み上げていた。食材や缶ビールを冷蔵庫に詰め込みながら聞いていると、櫂の声が先ほどよりずっと嬉しそうに弾んだ。


『えーと、今高校二年生で、軽音部に所属しています。最近オリジナル曲を演奏するようになったのですが、歌詞を自分で書くようになって悩んでいます。おっ、いいねいいね、作詞のお悩み!』


作詞と聞いて、つい幸助の心臓もどきりと跳ねた。

まだ冷えていない缶ビールと共に座椅子に沈むと、櫂が相談の続きを読み上げてくれる。


『バンドメンバーに言われて気付いたのですが、無意識のうちに同じ単語を使ってしまいます。違うテーマの歌詞を書いていてもその単語を使ってしまっているのでやめたいです。ALLTERRAのようなかっこいい歌詞を書きたいと思っているんですが、いろんな言葉を知るにはどうしたらいいですか? たくさんの言葉を使いこなすコツはありますか?』


という事で、と小さく繋げた櫂は、勿体ぶるように「あのね」と一拍置いたあと、わざわざエコーを効かせて「わかる!」と声を張った。


『すっごいわかる! 僕もありますよ、無意識のうちに使ってしまう言葉。多分、ALLTERRAの曲をいっぱい聴いてくれてるファンならわかるんじゃないかなと思うんだけど』


無意識に歌詞に使ってしまう言葉。

言われてみれば、幸助にも思い当たる節があった。

語感がよかったり、音がかっこよかったり、そういう簡単な理由で必ず使ってしまう英単語。少し思い出すだけでも三つ四つと出てきて、ファンやメンバーは気付いていたのかなと今更恥ずかしくなってくる。


『僕にもあるし、きっと多くの人にとってあるあるな経験だと思う。けど、僕はそれを「やめたい」と思ったことはないです。なんでかって言うとね、その言葉はその人にとっての《サビ》だから。無意識に繰り返してしまうということは、それがその人の本心が言いたい事、人生かけて訴えていきたい《サビ》なんですよ。そしてね、《サビ》は繰り返していいんです。だって、一番聞かせたい事なんだから!』


なるほど、と思わず呟いてしまった。

無意識に使ってしまう言葉は、人生の《サビ》。本心が言いたいこと。一番聞かせたいこと。

ゆっくり噛み砕いているうちに、櫂はどんどん饒舌になっていく。


『これ、実は有名なアーティストも小説家も漫画家もみんな、知らず知らずのうちに《サビ》を繰り返してるんですよ。なぜなら、その《サビ》を伝えることこそが創作の原点だから。その人が何かを生み出そうとするきっかけの感情、と言い換えてもいいかな。何かを生み出す行為のはじまりにあるものだから、どんなものを作っても絶対に混じっちゃう。ベルトコンベアーの始点にペンキがぶち撒けられてる感じ……ってこれちょっとわかりづらいか』


小さく笑った櫂は、少し考えてからまた語り出す。


『例えば、ある作家さんはどの作品にも必ず「家」の描写があって、「ただいま・おかえり」っていう挨拶が象徴的に描かれていた。だから僕は、この作家さんの《サビ》はきっと「家族」にあるんだろうなと思った。それが良い意味なのか、悪い意味なのかはわからないけど、きっと「家族・家庭」っていうものに特別な感情があって、それが物語を書き出したきっかけの一つだったんじゃないかなって。そういう感じでさ、きっと誰にでも《サビ》はあるんだよ。それは無理に消したり蔑ろにしたりしなくてよくて。むしろ《サビ》の存在に気づけたなら、そこを深掘りしてみるのはどうかな? なんでこの単語なのかなって、ちょっと考えてみて。そこに君の歌詞の強さがあるはずだし、それは君の個性に化けると思うから』


時間をかけて、言葉を尽くして話し続けた櫂は、そこでやっと一息吐いた。

おそらく番組進行に遅れが生じたのだろう、次に口を開いた櫂は駆け抜けるようにこう言った。


『っとまぁ、こんな感じでどうでしょうか! 言いたいこと伝わった? あんまり上手く言えた気がしてないんだけど、伝わってたらいいなぁ。あ、ちなみに僕の歌詞に出てくる《サビ》に気付いた人は是非お便り送ってくださぁい。なんでその《サビ》なのかまで言い当てることが出来た人は、え〜、番組にゲストとして呼びます!』


言うが早いか大きな声で笑って、櫂は曲紹介へとなだれ込んだ。

二曲目はラジオ局が推しているパワープッシュナンバーで、女性アイドルソングに興味のない幸助はやっと、プルタブも開いていない缶ビールの存在を思い出す。


八坂櫂の《サビ》。

ALLTERRAの曲によく出てくる言葉こそが櫂の本心であり、創作のきっかけであり、人生をかけて訴えていきたい感情。

今聞いた言葉を反芻しながら、幸助は歌詞サイトに飛んだ。ALLTERRAの楽曲一覧を眺めながら、いくつかをタップしようとしては指を止める。


櫂の《サビ》を探してみたい。

でも同時に、知ってしまうことが少し怖い。

だって、もしもその根幹に、自分じゃない誰かが居たら?

勝手に運命を感じているのは自分だけで、櫂の中心にいるのが全然知らない別の誰かだったら?


自分はきっと、その人に敵わない。

どれほど努力したって、そのポジションに自分が収まることはない。

そこは櫂の魂だ。核だ。中心だ。

そこが八坂櫂やさかかいという人間を作っていて、櫂という人格を根底から揺るがす何かが起きない限り、不変な場所なんだ。


今の自分がそこに居るとは思えないし、この先入り込める気もしていない。

そこはきっと、触れたら恋が終わる場所。


幸助は勢いよく缶ビールを煽った。

歌詞サイトを閉じて、《サビ》の話題を頭から追いやる。

今はまだ、とてもじゃないが勇気が出ない。

櫂の本心を知る勇気も、知って尚この恋を続ける勇気も、持ち合わせていない。

苦い息を吐き出して、幸助はラジオを消した。縋るようにリモコンに手を伸ばし、ろくに見る気もないバラエティ番組の音の中でため息を吐く。


今の自分に《サビ》があるとすれば、きっとこの恋だろう。

櫂に出会って自分の核が変わった。作詞ができてメロディが浮かぶのは、この衝動的な恋愛感情のおかげだ。


だから今、これを失うわけにはいかない。

デビューまであと二ヶ月と少し。

この衝動がまだ若いうちに、歌詞に込めてメロディをつけて、商品にしなければいけないのだから。


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