6月末、
この夏から所属する事務所管理の高級マンション。
全ての入り口に警備員を完備した明らかに「一般人ではない人用」の住居だ。聞くところによると、地上7階建て全ての入居者が業界人らしい。
引っ越し当日の夜、お祝いするからと半ば無理やり押しかけた幸助とゴンは、まず立地にビビり、建物の外観の綺麗さにビビり、入り口の複雑さにビビり、ロビー常駐の警備員にビビり、静かで早いエレベーターにまでビビり倒した。
ワンフロアは4部屋。3階の西角部屋が佑賢の新居だ。
静まりかえった内廊下は深夜のホテルのような雰囲気で、幸助は自然と息を潜めてしまった。
ふわふわのカーペットを踏み締めおしゃれな照明の中を進むと、これまたホテルのように洒落たドアが現れる。
鍵は鍵穴には刺さず、ドア横にかざすだけで開いた。思わずゴンと二人で感嘆の声をあげてしまう。
「なぁ、お隣さんに挨拶とかした? 誰だった? 女優? モデル? アイドル?」
「誰かとエレベーター一緒になったりした?」
「ここのベランダって隣と繋がってんの?」
「脇になんかすっげーイケてるバイク置いてあったけどあれ誰のか知ってる?」
ドアが閉まるなりはじまった質問攻めを全て「知らん」でかわして、佑賢はさっさと荷解きの続きを始めてしまった。
幸助はゴンと二人、これ幸いとばかりに室内を隅々まで探検してはしゃぎ回る。
広さは単純に倍。ウォーキングクローゼットも防音室も完備。
そして家賃は現在の三倍以上。
だが事務所の管理下で補助が出るので、今の
今住んでいる街が、好きだった。
なんでも揃って活気もあり、下町のあたたかさも残る街。
小さな露店も趣味を煮詰めたような雑貨屋も、十畳もない小さなバーも小洒落たカフェも、どんな個性でも受け入れて並べて、等しくそこに在る事を許す街。
特に吉祥寺は実家からも近いため、幼い頃から遊んでいたいわゆる「地元」だ。
今もそこらの学生やフリーターよろしく、自転車を乗り回して暮らしている。
古参ファンには自宅も大体バレているし、吉祥寺にいると街中で平然と話しかけられたりもする。
そこで何かの害を被ったことはないが、今後もないとは言い切れない。
この夏から一端の「芸能人」になる自分は、果たしてそこに居ていいのだろうか。
佑賢のように、さっさと気持ちを切り替えて芸能人らしく事務所に守ってもらったほうが楽かもしれない。
事務所やレーベルにとっても、何が火種になるかわからない昨今に新人バンドを抱え込むのなら、頑固に地元にしがみつく奴より素直に懐中に入ってくる奴の方が守りがいがあるだろう。
「特に幸助、お前はフロントマンなんだ。Pinkertonといえばまずお前の顔が出る、そういう風になるんだからな」
荷解きを終えた佑賢は、ゴンが差し入れた高級ブドウジュースを片手にそう息巻いた。
佑賢も事務所も、幸助をなるべく早くこのマンションに囲い込んでおきたいらしい。
「女関係でボヤ出すとしたら、まず真っ先に幸助だろうしなぁ〜」
「何でだよ! 顔面偏差値的にも絶対佑賢のほうが先だろ!」
酔ったゴンのからかいに負けじと声を張り上げたら、何故か二人は顔を見合わせ目だけで会話を始めてしまった。
仲間に入れてもらえない幸助は缶チューハイを煽り、口を尖らせる。
「だってさ、事務所の人もそう思ったから先に佑賢をここに入れたんじゃねーの? ファンレターもフォロワーもぶっちぎり多いのはお前だし、数字に出てんじゃん、モテ度がさぁ」
この会話はもう何度も繰り返されている。
インディーズレーベルに所属した時も、youtubeチャンネルを開設した時も、全国ツアーを回った時も、Pinkertonの人気が広がるたびに言い合った。
その度に幸助は拗ねた想いを憚らず声に乗せた。
彼女が居るタイミングだったとしても、それは変わらなかった。
モテたい。それは一つのバロメーターだ。
バンドなんてやっていたら楽器と同じくらい必ず付随する、絶対に拭えない欲望。
だから幸助は今日も口を尖らせた。
どうせ俺はモテないですよ。
ボーカルで一番前に立ってアー写も顔が一番大きく写る場所にいるのにモテないですよ。
心の内でいつものようにそう繰り返しながら、しかしどこか感情が馴染まない。
「そんなにモテたいなら、とりあえずこっち引っ越してこいよ」
「まずお前ら二人で同棲してみるっつーのはどうよ?」
「ありえない。無理」
ゴンの提案が佑賢に秒で却下されるのを聞きながら、幸助は不思議な感覚に陥っていた。
モテたい。その感情が自分の中に見当たらない。
あれ? 俺これから芸能人になるのに?
テレビ局とか出入りして、モデルとか女優とかアイドルと日常的にすれ違えるのに?
何だろうこれ。全然ピンとこない。
そんなもんどうでもいいって気がしてしまう。
それより今、俺が一番モテたいのは。
モデルとか女優とかアイドルとかより、すれ違いたいのは……
「幸助?」
「おいおいピン助ちゃんよぉ、まさかもう隣人の女優とドラマチックな恋妄想始めちゃったか?」
黙り込んだ幸助に、ゴンが体当たりのようにのしかかってきた。
我に帰った幸助は「やめろ重い」と悲鳴をあげ、ゴンを突き飛ばしてから缶チューハイを煽る。
「……俺、しばらくはいいわ、引っ越し」
炭酸で詰まった吐息と共にそう吐き出した。
しばらくは、という曖昧な表現を挟んだのは、半年後や一年後にこの感情がどうなっているかわからなかったからだ。
早々にフラれるかもしれないし、夢から醒めるかもしれない。
御しきれてない感情に疲れて自ら手放すことだってあるかもしれない。
けれどとりあえず今は、このままで十分だ。
暴走する感情の手綱を握って、右に左に振り回されながら、馬鹿みたいに欲望を振り回して足掻いて喚いて、一人の人を想う。
この恋は、吉祥寺でもちゃんと続けられるから。