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37:また、夏の夜に

二時間弱に及んだALLTERRAオルテラのツアー初日は、セトリのバランスもMCも演奏も演出も全て、文句なしの出来だった。

かいは全曲を全身全霊で歌い上げ、時には無邪気に、時には妖艶に、怒りや悲しみや憂いや迷いや慟哭を全て、フロアにぶつけてきた。


最後の曲を歌い上げた櫂は、少しおぼつかない足取りでステージを去った。

フロアからは歓声と拍手が巻き起こり、すぐにアンコールを強請る大合唱に変わった。

冷えない熱を持て余した観客は、声を張り上げ手を打ち鳴らし、まだ終わりたく無いとごねる。


数分の間を経て再びステージに戻ってきた櫂と大地は、ツアーTシャツを身につけて満面の笑みで手を振った。

アンコールへの感謝を告げ、ついでにTシャツのデザインをいじって笑いを取り、最後の「ね、大地!」も当人は2度頷くだけで発声しないいつものオチまで決めてから、櫂は一呼吸置いて口を開いた。


「……それではいつも通り、最後の曲にいきたいと思います、が! その前に、今日はちょっとだけ語らせて」


そう切り出した櫂は、明るくなったフロアを見渡した後、その視線を少し上に持ち上げた。

その視線の先にあるのは二階席だと誰もが気付いたが、櫂はそのことには触れずに視線を戻し、話を続ける。


「今日はね、いつものあの曲がちょっと特別なんです。と言ってもゲストがいるわけではないし、詳しく説明する事も今はまだ難しいんだけど」


櫂が苦笑すると、小さな笑いがフロアを包んだ。

幸助の中に芽生えた小さな「まさか」が無視できない大きさまで膨らんだところで、櫂は幾度も幾度もフロアを見渡しながら言った。


「これからいつも通りの『スケイル』で、みんなと【また明日】って笑って今日を終わりたいと思います。何も変わらない、本当にいつも通りの『スケイル』だけど……僕自身は今日、今この瞬間から、全く違う気持ちで歌います」


櫂のその目が自分を探してくれているのだと、幸助だけはわかってしまった。

どこか曖昧で含みのあるMCも、幸助だけは何を言っているのかわかってしまった。


二千人以上の観客の中で、自分だけ特別扱いされるという快楽。

彼の特別で居られることに興奮して、その名を叫びたい衝動にかられる。


昂る幸助をよそに、櫂はワンマンツアー初日を締め括る感謝の言葉を告げ、最初のコードを鳴らした。

照明が変わってすぐ、イントロが始まる。軽快なリズムと共に櫂が飛び跳ねると、フロアも待ち構えていたかのように波を打つ。


あの夏の日、安いアコギでかき鳴らして作った単純なコードの拙い曲。

櫂の手にかかるとこんなに世界が広がるのかと感動しながら、歌い出しを身構える。

驚いたことに、櫂が歌い出すのと同時に周囲の客も声を張り上げて歌いはじめた。

熱のこもった大合唱を笑って、櫂はもっと声を張り上げる。

まるで観客とこの曲を取り合いしているみたいだ。


子供の喧嘩のようなAメロBメロが終わると、サビはもうお祭り騒ぎだ。ステージの上も下もみんなで飛び跳ね、笑い、はしゃぐ。

周りを見渡すと、見える範囲の全てが笑顔だった。幸助も一緒になって飛び跳ねながら、いつしか一緒に歌っていた。


ライブハウスが多幸感に包まれていた。

この曲が終わってしまったらこの幸せな時間も終わってしまうのに、それを嘆く者は誰もいなかった。

ステージの奥、ドラムセットの中の大地でさえも少し口角を持ち上げて、全員ではしゃぎながら迎えたサビ前の助走タイム。

落ちサビらしく音の数を減らしながら、櫂は【さよならのはじまりに】と歌い上げる。

その直後、本来であればギターが鳴っているはずの箇所で、櫂は頭上高くに右手を突き上げた。


【きみが差し出した 怪獣の鱗】


その指に握られたピックが、あの夏の夜に差し出したものかどうかはわからない。

フロアも櫂にならって拳を突き上げるが、オーディエンスの誰も、このフレーズの本当の意味を知らない。


ただ一人、幸助にだけはわかるように。

怪獣の鱗の正体を知っている幸助にだけは、全てが伝わるようにと、

櫂はあの日のようなあどけなさで笑って、気持ちよさそうに目を閉じる。


大合唱の【また明日】と最高潮の盛り上がりでフロアが揺れたラスサビを超えて、ALLTERRAワンマンツアー初日は幕を下ろした。

捌けていく櫂を見送った幸助は、余韻に浸りながらぼんやりと立ち尽くしていた。興奮冷めやらぬファンの会話を聞きながら、自分の中の熱をどうにか消化しようとするが、うまくいかない。


そういえば二階席の佑賢とゴンはどうしているだろう。

もう降りてくるだろうか。

とりあえずこの興奮は声に出せば多少は落ち着くだろうから、早く二人と話したい。


そんな一心でスマホの電源を入れてみると、LINEが何件か届いていた。

1件は佑賢から。楽屋挨拶にいくから裏の搬入口付近で落ち合おうとある。

既読をつけるだけで特に返事はせず受信一覧に戻ってみると、次に表示されていたのはまさかの人物だった。


《八坂 櫂》1件。


二階席で電源を切った時には届いていなかったから、アンコール前袖に捌けて着替えた僅かな時間で送ってきたものだろう。

浅い呼吸でメッセージを開くと要件だけが簡潔に並び、地図共有のURLが貼られていた。


《どうしても二人きりで会いたい。

多分22時半には抜け出せるはずだから、ここで待っててくれない?》


退場を促すスタッフの声が響く中、幸助はその場にへなへなとしゃがみ込んだ。

エモーショナルなライブ中ですら踏ん張れていた両足が、完全に骨抜きになっている。


《どうしても二人きりで会いたい》


挨拶もない、この性急な一言があまりにも愛おしすぎて、幸助は思わず指を組んでしまった。

神様仏様誰でもいいけどとにかくありがとうございます。

全世界の人々に感謝のハグをしたい衝動にかられながら、幸助は次の瞬間、フロアを飛び出していた。


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