「いっやぁ〜、気持ちい〜なぁ〜海風」
すぐ横を駆け抜ける大型トラックの走行音に負けじと声を張り上げてから、ゴンはちらりと横を見た。
隣を歩く
「ライブ終わりの高揚感に、こう、いい感じにマッチするよなぁ〜」
二人の横を、再び大型トラックが駆け抜けた。
ここぞとばかりにゴンは身を寄せる。
「え? なんか言った?」
「何も言ってねぇよ」
やっと佑賢が反応してくれた。
怪訝な表情はすぐに消えてしまったが、反応があっただけ良しと思いながらゴンはさらに言葉を続ける。
「
「三ヶ月後にはアレと対バンするって思うと俺もぐちゃぐちゃ」
「あ〜、わかる〜」
小さく笑う佑賢の横顔を見つめながら、ゴンは言いたかった言葉を飲み込んでいた。
今お前がぐちゃぐちゃなのは、幸助が
これを告げたところで、佑賢の反応は目に見えている。
「あぁ、まぁそれは別に」なんて曖昧に誤魔化して流すんだろう。
ゴンにとって、ALLTERRA八坂櫂との距離が近づけば近づくほど、佑賢の心中を案じてしまう日々だ。
先月のサプライズ宅飲みの場でも、何度か肝を冷やして言葉を失った瞬間があった。
『じゃあ付き合うか、幸助』の発言なんか、思わず顔を覆ってしまったほどだ。
あの後、二人きりになったタイミングで『なぜあんなこと言ったのか』と問いただしてはみたものの、佑賢の反応はぬるかった。
『別に、冗談だよ』
至極何でもないことのように薄笑いでそう答えるものだから、ゴンもそれ以上食い下がれなかった。
佑賢はもしかしたらもう吹っ切れているのかもしれない。そう思うことが少しずつ増えてきている。
今日のライブもそうだ。アンコール前のMCで櫂が話した内容が幸助絡みだということは、櫂の視線の動きでよくわかった。
大盛り上がりで始まったアンコール曲の《スケイル》でも、櫂はいつも以上にフロアを見渡していた。
誰かを探しているのは一目瞭然だった。
プロのミュージシャン、バンドマンにとって、ライブは至高の仕事だとゴンは思っている。
そこが自分たちにとっての正しい戦場であり、最良のパフォーマンスを発揮しなければ負ける。ワンマンであっても負ける。
相対するのは過去の自分たちのパフォーマンス。常に最高を更新し続けるプレッシャーが、ステージの上にはある。
そんな状況で、さらにあのハコの大きさで、よりによってアンコール曲で私情を滲ませた八坂櫂に、ゴンは畏怖すら抱いていた。
宅飲みで気さくに話せるくらいの距離にいるのに、彼らは
それをやってもパフォーマンスがブレないという自信。
彼一人の激情に涼しい顔して合わせていく大地とサポートプレイヤー。
ともすれば冷めかねないステージの上の私情も、なんかよくわからないけどいいんじゃない、と受け流せる訓練されたオーディエンス。
全てを見せつけた櫂と、二階席で座って聴いているただのオーディエンスの佑賢。
一人の男に向かっている感情の大きさはきっと同じくらいだろうに、何馬身も差がついていることを今日、思い知らされた。
Pinkertonとしても、平川佑賢としても、追いかけなきゃいけない存在の遠さに打ちのめされたはずだ。
それがわかってしまった途端、ゴンは衝動的に佑賢の手を取り駆け出したくなった。
なんで涼しい顔して聴いてられるんだよと、声を荒げたくなった。
けれど最後の一音が余韻まで消えた後、明るくなった二階席で照明演出のメモを取り始める佑賢の横顔には、いよいよ何の感情も浮かんでいないようだった。
ゴンはその横顔を見ていることが出来ず、煙草を吸ってくると言い残して離れてしまった。
メジャーデビューの夢を叶えた今、佑賢はいよいよ本気でバンドのために動き回らなければいけないタイミングだ。
合理主義の塊のような佑賢はきっと、邪魔なものは全て削ぎ落として走り出す。
何年も大事に抱え込んだミイラとそれを封じ込めている棺は、きっと真っ先に捨てていきたいもののはずだ。
でもそれを捨ててしまったら、佑賢の何かが少し違ってしまうんじゃないかと、ゴンは心配している。
幸助を想ういじらしいほど一途な想いがあるからこそ、Pinkertonはここまできたのかもしれない。
佑賢の根幹に食い込むほどの恋情があるからこそ、Pinkertonはもっと前へ行けるのかもしれない。
切りたくても切り離せない、個人とバンドと音楽と恋。
複雑に絡み合い影響しあって今があるのなら、誰かの恋の成就も、誰かの失恋も、変化をもたらす厄災になる可能性がある。
だからゴンは、ことあるごとに佑賢の心を覗き込む。
まだ棺があるかどうか。まだ傷ついているかどうか。
まだちゃんと、温かい血がでているかどうか。
長い橋のゆるい上りを歩き終えた二人は、ゆるい下り坂をゆっくりと並んで進む。
グラサンで覆い隠した視界の端、横目に盗み見た佑賢の表情は涼しいままだ。
オレンジの街灯に照らされた綺麗な鼻筋に思わずため息が漏れる。整った無表情が、今日はムカついて仕方ない。
背後で嬌声が響いた。
ライブハウス前で騒ぐ厄介オーディエンスはまだ追い返されてないのかと苛立っていたら、佑賢が口を開いた。
「ALLTERRAの狙いは何だと思う?」
車の走行音にかき消されそうな、呟きともとれる問いだった。
自問自答? と思って反応が遅れてしまったら、佑賢はゴンを真っ直ぐに捉えて繰り返した。
「ALLTERRAの狙いがわからないんだ。こんなタイミングで対バンやる利点が、俺らにはあってもALLTERRAにはない。そう思わないか?」
等間隔のオレンジが、はじめて感情を照らしてくれた。
畏怖だ。佑賢も櫂に同じ印象を抱いているのだ。
「……確かになぁ。ZETT東京ぐらいALLTERRAだけで埋められる。チャリティーでもないし、周年でもないし、何も知らないALLTERRAファンにとっては突然降って沸いた縁もゆかりもない新人バンドだもんなぁ俺たち」
「そうなんだよ。ファンからしたら俺たちは公演時間を半分奪う邪魔なやつらだ。それで俺たちがいいパフォーマンスをしたとしても、ALLTERRAには何のメリットもない。ファンを持っていかれるだけだ」
「オーディエンスのお裾分け、とか?」
あのこれ作りすぎちゃったのでよかったらぁ、と裏声で続けても、佑賢は笑わなかった。
一瞥しただけで特に反応せず、佑賢は宙を見つめる。
「櫂くんはきっと、まだ何か隠してる。幸助にまつわる、何か」
その名前を口にした途端、佑賢の声が掠れた。
詰まった喉を小さく鳴らして、佑賢は俯く。
同調するように、ゴンも幸助の事を考えてしまう。
これから櫂と何を話すのか。櫂は何のために幸助を呼び出したのか。
浮かれてはしゃぐ幸助は、少なからず特別な夜を過ごすだろう。
佑賢もそれに気付いている。
考えないようにしていたのに、結局思考は彼にたどり着く。
能面で覆い隠していても、佑賢はちゃんと感情を漏らしている。
なんだ、ちゃんと痛々しいじゃないか。
ゴンは小さく息を吐いた。安堵の吐息だ。
佑賢が傷ついていることがわかってホッとしている。
同時に痛む胸には気づかないフリをして、安堵を無理やり声にのせる。
「……まぁ、櫂くんの狙いがなんであろうとさ」
迫るトラックの走行音が通り過ぎるのを待って、ゴンは努めて明るく続けた。
「俺たちはバンドとピン助を守っていくだけだろ。何があっても、幸助だけはセンターマイクの前で歌わせる。あいつの音楽を絶やさない。それがPinkertonだ」
でも、とゴンは内心で続ける。
でもその幸助が自らセンターマイクの前から離れようとしたら、その時俺たちはどうするんだろうな。
考えられない話じゃない。
櫂と音楽をやりたいと思ってしまったら、二人の感性が共鳴してしまったら。
一番悪い可能性を考えながら、ゴンはガハハと笑う。
「俺とお前で、守って育てて大きくしていこうや、Pinkertonを」
それが、今言える最良の励ましであり、最低の逃げだ。
佑賢の長い片想い。
幸助のウブな片想い。
櫂の抱える巨大な感情と、底知れぬ思惑。
PinkertonとALLTERRA、二つのバンドの中で渦巻く様々な感情は、まるでぶちまけたペンキのように主張し合い、混ざり合わない。
色の暴力が大好きなゴンにとって、この状況は居心地が良い。
色鮮やかな感情が隣り合い、離れ、ぶつかって干渉して見せ方を変えていく様はまるで万華鏡のようだ。
ゴンは今を精一杯楽しんでいる。
どこかで何かの均衡が崩れて、どれかの色が他の色を飲み込んでいくその瞬間まで、この状況を楽しむつもりだ。
なぜならゴンもまた、誰にも見せていない棺を抱えているから。
冷凍保存した感情は、この均衡が崩れた瞬間、動き出す。
多色の万華鏡を、全て自分の色に塗りつぶすつもりで。