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39:また、夏の夜に

かいが指定した場所は、ライブハウスから5分ほど歩いた先、川沿いのキャンプ場に隣接する小さな児童公園だった。

休日は多くの人で賑わう憩いの場も、平日の夜は灯りもなく静まりかえっている。ライブハウスの周囲は運送業者の倉庫ばかりなので、利用客は必然的に駅方向に流れていきここには誰も寄り付かないのだ。


楽屋挨拶をすっぽかしたことについては、佑賢ゆたかからきっちり小言をいただいた。どうせ次に会った時にもくどくど言われるだろうから、適当な相槌で通話を凌いだ。

正直今、それどころではない。ライブ中にも負けないぐらいの興奮状態だ。

夏の生ぬるい夜風と潮の匂いでは、体に溜まった熱もなかなか冷めていかない。

油断するとすぐに「どうしても二人きりで会いたい」のフレーズが蘇って、胸のあたりの息苦しさとともに熱が増してしまう。


今頃二人はかいと会っているだろうか。

初日の今日は関係者の観覧が多かったようだから、会えたところで一言二言しか交わせていないだろう。

ライブ直後の汗だくの櫂も少し見たかったな、なんて思いながら、緩む口元を手で覆う。


櫂には《どんなに遅くなっても待ってる》とだけ返した。

ライブ終わりは体力を消耗していてすぐには動けないだろうし、何より今日はツアー初日だ。

軽い打ち上げのようなものがあるだろうことは想像に難くない。23時を過ぎるぐらいの心持ちで、幸助は川沿いの柵に寄り掛かりイヤホンをはめた。

剥き出しの肌をなぞる潮風はじっとりと湿気をはらみ、生ぬるい空気をわずかにかき混ぜる。

静かすぎる空間は落ち着かないので適当な洋楽を小さく流していると、時折嬌声が聞こえた。

ライブハウス前にたむろして酒を煽り、勝手にアフターパーティーを始める奴らだろう。ALLTERRAなら出待ちの数もとんでもない事になっていそうで、櫂が無事ここまで辿り着けるか心配になる。


時刻は22時を回った。

対岸の街の灯りを眺めながら、徐々に高まっていく緊張を誤魔化そうと息を吐く。

ライブ後の密会、なんてフレーズが浮かんで妙な気分になった。

大勢の歓声を受けながら気持ちよく音楽をしたあとは、通常では考えられないくらいの興奮状態になる。ライブが終わってもアドレナリンはしばらく落ち着かないから、バンドマンは大抵、この興奮を酒で薄めていなしているのだ。


櫂はどんな顔でここに来るんだろう。

酒で興奮を中和して落ち着いた状態なのか、それとも、まだアドレナリンが出まくっている興奮状態なのか。


二人きりで会いたいって、何か話したいことでもあるのだろうか。

今日の《スケイル》のこと。今度のツーマンライブのこと。

作詞のこと。会えなかった一ヶ月のこと。

幸助の中には話したいことが溢れているが、櫂の中はどうなっているか想像もつかない。


約束の時間が迫るにつれ、いよいよ落ち着かなくなってきた。

きっと22時半には間に合わない、そう思っても、気を抜くとすぐに公園入り口を見つめてしまう。

このままではまずい。佑賢宅で会った時みたいに、きっとまた緊張でうまく話せない。

せっかく二人きりになれるチャンスなのだから、もっとうまく立ち回りたい。

そのためにはまず落ち着くことだ。意識して深呼吸を繰り返しながら、幸助は入り口に背を向ける。


公園の奥側にはキャンプ場へと続く雑木林が広がっている。

はっきりとエリアを区切る柵みたいなものはないので、この公園もキャンプ場の一部ということなのだろう。

雑木林の奥にはウッドデッキや炊事場などが立ち並び、さらに奥にはおしゃれに整ったグランピング用の広場があるのだが、今は目をこらしても何も見えない。


絵の具を塗ったような黒い闇を見つめていると少し気持ちが落ち着いてくる。

ふと、あの夏櫂と出会った近所の児童公園とよく似ていると気付いてしまった。

今日の《スケイル》前のMCを思い出して、だから此処を選んだのかな、なんて思いを巡らせる。


遠くの嬌声はいつの間にか静かになっていた。スタッフに散れと言われたのだろう。

音楽を止めると、風が木々をなぞる音だけが静寂を伝えてくれる。

ここで歌ったら気持ちよさそうだな、なんて思った矢先、静寂を破る足音と声に慌ててイヤホンを引き抜く。


「幸助くん!」


期待のしすぎて幻覚を見たのかと思うようなタイミングで、櫂は公園に駆け込んできた。

ビッグシルエットのTシャツが頭の小ささを引き立て、キャップと黒縁メガネの変装がほぼ意味を成していない。

おまけにこんな場所をバタバタ走ったら目立つだろうに、小さなショルダーバッグが弾むのも厭わず全力でこちらへ向かってくる。


勢いに驚くあまり反応できずにいると、櫂は幸助の前で急ブレーキをかけるなりこう言った。

「ごめん! ちょっとこっち来て!」

何がなんだかわからないまま櫂に手を引かれてしまった。

声をかけても反応がない。櫂はとにかくここから離れる事に夢中らしい。


一目散に雑木林へと駆け込むと、急に視界から光が消えた。

公園の街灯も対岸の眩い灯りも木々に遮られて届かない。おまけに今日は雲が多く、月は一瞬顔を出してもすぐに隠れてしまう。

視界が悪くなってすぐに、櫂は歩調を落とした。

雑草を踏む音にも気を使っているようで、足元を探りながらゆっくりと前進する。

幸助が声を出そうとすると櫂はすかさず人差し指を立て「静かに」のジェスチャーをした。

その剣幕が暗闇でもわかるほどだったため、とりあえず櫂に従いおそるおそる雑木林を進んでいく。


ふと視線を落とした。暗闇に目が慣れてきて、そこにあるものを感触だけでなく視覚でも認識できる。

櫂の左手が、自分の右手を握っている。

いつか井の頭公園で自分がしたような手首をとる形じゃなくて、ちゃんと手を握りあっている。


急に動揺が込み上げて、幸助は小さく咳払いをした。

意識すればするほど右手に熱が集まっていくのを感じる。

手汗がやばいと焦る気持ちも逆効果だ。

指ひとつ動かせば櫂が振り解いてしまうんじゃないかと思うと、石になったかのように硬直してしまう。


雑木林を半分ほど進んだところで、人が二人ほど隠れられそうな大きな木にぶつかった。櫂はその影に滑り込み、幸助を引っ張ってしゃがみこむ。


「ここならさすがにバレないかな」

小さくこぼした櫂は、一息吐いてから眉を下げ、こう言った。

「ごめんね。出待ちにバレないように気をつけてたのに、ここに来る道の途中で気づかれちゃって。全然違う道ダッシュしてきたから撒いたと思うんだけど、一応しばらくはここに隠れた方がいいと思う。ちょっと付き合ってもらっていいかな」


月の光も届かぬ闇の中、肩を寄せ合い、すぐ耳元でささやく櫂の声を聞いている。

片手はまだ繋がったまま、櫂の高い体温がぴったりとくっついている。

おまけに櫂は呼吸が荒く、横を見ると鼻先が触れる距離で上目にこちらを見ている。


なんですかこれはどっきりですかどこかにカメラあったりしますか?

別室で佑賢とゴンがモニターしてて俺の反応をゲラゲラ笑ってたりするんじゃないですか?

だってそうじゃなかったらこれおかしいでしょ俺今好きな人と暗闇の中で手繋いで肩寄せ合ってくっついてるんですけど?

デビュー前のウブなインディーズバンドのボーカルにこんなどっきり仕掛けたらそりゃあもうご期待に添う事しかできませんが?


謎の早口敬語キャラが内心大騒ぎする中、幸助はどうにか冷静さを取り戻そうと必死だった。

とにかく何か言わなきゃと言葉を手繰り寄せ、やっとこさ見つけたのは文句。


「マジかよ、サイテーだな出待ち。いつも追いかけられたりしてんの?」


どうにか普通に会話ができただろうか。

櫂の反応を横目に伺うと、不意に顔を覗き込まれた。


「いつもは大地のバイクで強行突破してる。でも今日は、どうしても幸助くんに会いたかったから」


目を見て言われるとは思ってもみなかった。

咄嗟のことで何も言葉が出てこず、「あ、うん」なんて曖昧な返事で顔を背けてしまう。


そんな幸助の動揺を見透かしたように、櫂はわざわざ繋いだ手を握り直した。えっ、と漏れた幸助の小さい声を気にも留めず、何事もなかったかのように話題を切り替える。


「ね、どうだった? ALLTERRAのライブ」


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