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41:また、夏の夜に

何、とこちらを見るかいの目があからさまに怯えたので、幸助は思わず吹き出した。


「大したことじゃないよ。櫂くんは【僕】と【俺】を使い分けてんだなぁって、やっと気付いただけ」


案の定、櫂はきょとんと目を丸くしてから「なんだ、そんなこと」と笑った。

脱力したように幹に体重を預け、キャップを脱ぐ。

額に張り付いた前髪を腕で拭いながら、櫂は続けた。


「気持ちの切り分けのつもりでやってるんだ。仕事の時は【僕】、そうじゃない時は【俺】って決めておけば、オンオフはっきり分けられるかなって」

「なるほど」

「良くも悪くも、他人によって自分を変えられてしまう世界だからね。他者が作る自分と、自分で認識している自分を切り分けておかないと、また間違えちゃいそうで」


櫂はキャップを被り直すことなく、膝の上で弄ぶ。手元を見ているようで何も見ていない櫂の瞳が、初めて少し陰った気がした。

また間違える、という言い方が気になったが、何を間違えたのか問うより先に櫂は話題を変えてしまう。


「そんなことよりさ、ラジオ聴いてくれたんなら《サビ》の話も聴いた?」


無邪気な問いに、幸助はぎくりと身を硬くする。

そういえばそんな話があったなと今更思い出してしまった。

櫂のラジオでの発言も蘇る。


『みんな、知らず知らずのうちに《サビ》を繰り返してるんですよ。なぜなら、その《サビ》を伝えることこそが創作の原点だから。その人が何かを生み出そうとするきっかけの感情、と言い換えてもいいかな。何かを生み出す行為のはじまりにあるものだから、どんなものを作っても絶対に混じっちゃう。ベルトコンベアーの始点にペンキがぶち撒けられてる感じ』


これを聞いた時、櫂の《サビ》が何なのか気になりはしたが暴こうとはしなかった。

知ってしまうことが怖いと思った。今でも怖い。今日のライブも、歌詞をちゃんと聞かないようにと身構えてしまったほどだ。


そして幸助は、自分の《サビ》のこともわからなくなっていた。

ラジオを聞いた当初、自分の歌詞の原点は櫂への想いで間違いないと思っていたのだが、時が経ち、作詞活動を繰り返すうちにそれがじわじわと変化している。


何をどうしたって滲んでしまう、櫂への気持ち。

今まで通りの、いつかお蔵入りさせた歌詞のようなまっすぐな恋の歌だったら、メモを丸めて捨ててしまえばいい。


だが今は違う。小っ恥ずかしいラブソングはもう出てこない。

好きだの会いたいだのと声高に歌うことはない。

なのに、言葉に滲む苦しさは増している。

可愛らしい欲望が、渇望に姿を変えてどろどろとした粘性を持っている。


《守りたい》……何を?

《救いたい》……誰を? 櫂を? 何で?

《今度こそ》……今度って? 前は救えなかったのか?


繰り返し出てくるこの単語たちを、幸助はいつも持て余している。

作詞をしていると、自分でも制御できないほどの強い感情が櫂へ向かっていくのを感じた。自分ではない別の誰かから漏れ出した感情を書いている、そう思う瞬間があるのだ。

それは時に、幸助の語彙を超えた衝動となって胸を打った。

けれど幸助自身には、その衝動の根拠がわからない。

おかげで歌詞のメッセージ性は高まりレコード会社にも評価されてはいるが、正直少し不気味だと思い始めている。


櫂の言う通り意図せず滲む言葉や感情が《サビ》なのだとしたら、この衝動はまさにそうだろう。

しかし根拠がない。ラジオで言っていた櫂の言葉を借りるならば、ベルトコンベアの始まりにぶちまけたものが何なのかわからないのだ。

ペンキなのか、ケチャップなのか、小麦粉なのか。

それが何色なのか、液体なのか粉末なのかもわからない。

ただ、流れてくる幸助の感情全てに少しずつ混ざっている。

整形して歌詞にすると必ず存在が滲んでいる。

幸助はそれを不純物だと思っているが、取り除こうにもベルトコンベアの始まりが見えないからどうしたらいいかわからない。

だからそれを《サビ》として武器にすることも出来ず、ただとりあえず見逃して、首を傾げているのだ。


そうだ、この事を櫂に相談してみよう。

そう思い立った瞬間、櫂が嬉々として口を開いた。


「ね、幸助くんは俺の《サビ》、わかった?」


声に滲む期待に、思わず喉がつまる。

知るのが怖いから探してない、なんてとてもじゃないが言い出せず、苦肉の策で「わかんなかった」と答えてしまった。

途端、櫂の声に不満が滲む。


「えぇ〜! 幸助くんにはわかって欲しいんだけどなぁ」


そう口を尖らせながら、櫂は伊達メガネを外してしまった。脱いだキャップは傍に置いてしまったのか手元にはない。

暗闇に慣れた目が、数時間前までステージの上で歌っていたままの八坂櫂を捉えた。今そこにある拗ねた横顔はステージの上では見せなかったものだ。

独り占めできていることは嬉しいが、上目にこちらを伺う瞳の奥の熱に、少し身構えてしまう。


「いやぁ、まだまだ作詞シロウトだからさぁ」


笑って言い訳をしても、櫂の瞳からは期待が消えない。

ギラついた衝動を感じるのは気のせいだろうか。

なぜそこまで《サビ》を言い当てて欲しいのか。


櫂の本心。櫂の中心。櫂の根幹にある何か。……誰か。

俺に気づかせたいってことはつまり、やっぱり、そういう……?


「……ね、ヒントあげようか」


口許から八重歯がのぞく。

声に滲んだ甘い色に気付いた時には、もう遅かった。


櫂の手がのびる。指先がキャップの鍔を弾いて持ち上げた。

遮るものがない視界は、瞬きしても意味はない。


身じろぎも出来ぬうちに、二人の距離はゼロになった。

重ねた唇は熱く火照り、一度確かに啄んでからゆっくり離れていく。


幸助は目を見開いたまま、風の吹き抜ける音と木の葉の擦れる音を聞いていた。

一人だけ時が止まったように動けない。瞬きもできない。


ただ、唇に残る感触に縋る。

消えないようにかき集める。

何をそんなに必死になっているのか、自分でもわからない。

初めてのキスだからじゃない、そんな浮かれた感情じゃない。

もっと重く苦しい衝動のままに、鼻の奥のツンと痛むものを必死で飲み込む。


数秒見つめあってから、櫂は得意げに笑って見せた。


恍惚とした表情で、恥じらう事も悪びれる事もなく、

「帰ろっか」

と小さく言って、繋いだ手をそっと離した。


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