八月に入ると、メジャーデビューに向けたプロモーションがいよいよ慌ただしくなっていった。
アー写とPV撮影、各雑誌やメディア媒体のインタビューや収録、その間を縫うように全国各地での夏フェス参加。
さらにありがたいことに、メジャーバンドのワンマンライブオープニングアクトが二つも決まった。
一つは田中率いる著名なバンドの東名阪ツアーだ。
かなりギリギリのスケジュールだったが、
大阪二日間のみの出演だが、デビュー前からアリーナ規模の大型ステージに立たせてもらえると言うのはありがたかった。
人生で初めての、一ヶ月丸々休みがない日々。
デビューシングルの告知コメント動画や大手音楽雑誌のグラビア撮影など、慣れない仕事に苦戦する日々。
毎日が反省会の連続だったが、泣き言を言っている暇もない。
このスケジュールをこなしながら、本業である音楽では今出来る最良のパフォーマンスをしなければならない。
夏フェスでは観客のまばらな早い時間があてがわれ、テンションが上がらなくてもやりきらなきゃいけない。
オーディエンスの容赦ない反応を目にしても、だから何だと胸を張って自分たちの音楽を叩きつけてやらなきゃいけない。
巨大なプレッシャーの中で、幸助は歯を食いしばり続けた。
自分が折れたら終わる、という考えが頭をもたげるたびに、幸助はステージの上で吠えた。
その鬼気迫るパフォーマンスがオーディエンスにウケた事もあった。
制作スタッフ陣からも好評で、王道ロックバンドとして間違ってないという自信も得た。
毎日が目まぐるしく過ぎ去っていく。反省も後悔も何もかもが一瞬で通り過ぎていき、振り返って見つめる余裕がどんどんなくなっていく。
けれど幸助は、今のこの状況がむしろありがたいと思っていた。
余計な事を考える暇がない。過去を振り返る暇がない。
今と明日を必死で生きていれば時間が過ぎていく。
あの夜の事を思い出す暇は、今は無い方がいいのだ。
そんな多忙なPinkertonと、全国ツアー中の
場所はレーベルの大会議室。コの字に並んだ長机に座っていると、少し遅れて到着したALLTERRA御一行は向かい合う位置に着席した。
よろしくおねがいしまーす、と軽快に挨拶する櫂をちらりとだけ見て、幸助は立ち上がりお辞儀をした。
櫂がこちらを見ているかどうかも、どんな顔をしているかどうかもわからない。
仕事だからと気合を入れてその日を迎えたというのに、当の本人を前にしたらあっという間に覚悟が揺らぐ。
あの夜以降、櫂に連絡できなかった。
あのキスを無かったことにしていつも通りに振る舞うのは違うと思った。
でも、あのキスは何だったのかとメッセージアプリ上で問うのも、違うと思った。
あの行動の意味を聞きたい。
正直言ってめちゃくちゃ怖い。深い意味はないよと返されたら何も言えなくなってしまう。
でも、あの夜櫂がしたのはキスだ。
手を繋ぐとか、ハグとか、そういうレベルじゃない。
友達同士で出来る範囲を超えている。ここは欧米じゃないし、櫂も自分も帰国子女でも何でもないし、つまりあれはちゃんとキスだったんだ。
その行動がどういう意味を持つかわからないほど、ウブではない。
打ち合わせが始まっても、幸助は手元の資料からほとんど顔を上げなかった。
幸い、Pinkerton側の発言は全て
対する櫂は、このツーマンの発起人として最初から最後まで喋り続けた。
やりたいことが明確にあるらしく、櫂の口からは次々と具体的なアイデアが飛び出した。
聞けば聞くほど大規模な興行で、ついわかりもしない予算の事を心配してしまったが、佑賢いわく「やばい額の金が動いている」のだそうだ。
櫂の一存だけで多くの金と人が動いているのを目の当たりにして、幸助は少しだけ気遅れしてしまった。
ツーマンまでに櫂との関係をはっきりさせたいと思うのに、その結果が期待と違うものになったとしたら、自分は最良のパフォーマンスが出来るだろうか。
悶々とする幸助をよそに、打ち合わせはさくさく進んでいく。
リリースとチケット販売は近日中に開始され、その時点でALLTERRAと誰のツーマンなのかはシークレットとなる。
Pinkerton出演解禁はデビュー後だ。
ALLTERRAファンの反応はそのまま、Pinkertonメジャーデビューについての評価になると言っていい。
これには三人で閉口してしまったが、並びに座るマネージャーの後藤が「楽しみだなぁ〜」と呑気に呟いたことで、何だか気が抜けてしまった。
ツーマンのタイトルは櫂の提案が通り、櫂のリクエストでゴンがメインデザイナーに就任した。
さらに後日ライブ映像を販売することも決まり、リハやバックステージにカメラが入ることになった。
当日それぞれの持ち時間の配分も伝えられ、Pinkertonは9曲、ALLTERRAは11曲と決まった。
セットリストは追って提出して欲しい、と司会進行から告げられたところで、不意に櫂が挙手と共に立ち上がった。
「あ! そうだ幸助くん、一緒に《スケイル》歌ってよ!」
変なところから声が出てしまって、咄嗟に咳払いで誤魔化した。