「……
いつの間にか深く潜っていた思考の海から、慌てて浮上する。
瞬き一つで意識を戻すと、幸助が真っ直ぐにこちらを見ていた。
「俺、今度
心が軋む音がする。嫌だと叫びたい自分を殺す。
貼り付けた無表情は仮面だ。こういう時にみっともない感情を晒さないために鍛えてきたんだ。
「……うん。そうしてくれ」
その返事に、幸助はやっと少し笑った。
やるべきことが決まってすっきりしたのだろう。もうすっかり薄くなったレモンサワーを飲み干して、不味い、とぼやく。
そのぼやきをきっかけに、止まっていたテーブルの時間が緩やかに流れ始めた。
各々思い出したようにジョッキを空にして、今更空腹に気付いてしまいテーブルを皿で埋めていく。
こういう時、酒が飲める体だったらよかったと思ってしまう。
腹の底にずっとある冷えた恐怖をアルコールの熱で消してしまいたい。
一番最悪な展開ばかりを考えるこの脳を、酒の力で止めて意識を失ってしまいたい。
これから訪れる未来が不安で仕方がない。
セカンドシングル、対バンライブ、そして秋にはファーストアルバム発売と初のワンマンが控えているというのに、音楽や興業以外の雑念が佑賢の心を重くする。
櫂の真実を全て知った時、幸助はどうするんだろう。
櫂と幸助、二人の関係が変わった時、二人の音楽はどうなってしまうんだろう。
櫂の手のひらの上で踊る俺たちは、これから一体どうなるんだろう。
トマトジュースと空調で冷えていく手が時折震えてしまう。
けれど佑賢は、それをテーブルの下に隠すことしか出来なかった。
***
その夜、幸助は久しぶりに夢を見た。
八月。苗場。グリーンステージ。
豪雨の中で歌う櫂と、それをただ見ているだけの自分。
以前見た景色と変わらぬものが広がっている。キャップの鍔を伝う雨粒のリズムまで同じだ。
視界を邪魔する雨垂れを払ってから、自分が動けることにギョッとしてしまう。今度は動けるらしい。
櫂がステージの上で何かを叫んだ。駆け抜けたアウトロが余韻になると、オーディエンスは声を上げ手を打ち鳴らしパフォーマンスを讃えた。
動けるならばと幸助も拍手で応えた。けれど気持ちは入っていかない。
それどころではない、という感覚。
前回と同じような強い焦り、早く櫂の元へ駆けつけたいという衝動がつきまとう。
観客の反応を満足げに見つめた櫂は、荒れた空に向けて静かに語りかけた。
『次で最後の曲です。俺たちの音楽はここで終わるけど、君たちの旅はまだまだ続くから。どうかこれからも、笑っていてね』
フェスの出番最後のMCにしては少し大袈裟すぎるフレーズも、観客は歓声と拍手で受け止めた。
けれど幸助だけは、櫂のMCに言い知れぬ悲しみを覚えていた。
衝動的に足が動く。無我夢中で人をかき分け、ステージへ近づこうとする。
最後の曲のイントロが鳴る。知らない曲だ。歌わないで、と強く願ってしまう。
雨と風が強くなる。その音に負けないように、櫂はよく通る透明な歌声を高らかに響かせた。
やめろ、と小さく声が出た。迷惑そうな観客がこちらを振り向き、それから「あれ?」という顔をする。
俺が誰だろうと構うもんか。櫂の演奏を止めるんだ。あのステージから引きずり下ろさなきゃいけないんだ。
強い衝動のままに前方サイドの簡易柵までたどり着き、迷わず手をかけ飛び越える。
すぐに警備員が駆け寄ってきた。掴まれた腕を振り切って、立ちはだかる体の横をすり抜けて、ステージへ猛進する。
自分の起こした騒動にステージの上も気付いたようだ。
櫂の歌声が短く止まり、動揺を滲ませた歌声が躊躇いがちに続く。
スタッフが駆け寄ってくる。それでも止まるわけにはいかない。
曲は一番のサビを終わろうとしている。ステージまであと少し。
二人がかりで押さえ込まれて前につんのめる。
濡れた芝生に顔から突っ込んだ。草と泥と雨水。どんな感触もどうでもいい。
咄嗟にポケットに手を突っ込み、握り込めたそれを馬乗りのスタッフに押し付ける。
スタンガンだ。何でこんなものを持っているかはわからない。
ただ効果はてきめんで、スタッフは弾かれたように体を浮かせた。
すかさず這い出てまた走り出す。ステージまでの高低差が邪魔だ。
飛び上がって淵に手をかけたが雨で滑ってしまった。
もうすぐ二番のサビに入る。
心の底から声が出た。櫂の名前を呼んでいた。
頼む、やめてくれ!
スピーカーの前で張り上げた懇願はもちろん届かない。
オーディエンスがざわつこうが、櫂はこちらを見ないようにして歌い続ける。
呼吸を整えて、再び跳んだ。
壁を蹴ってフチを掴み、今度こそステージ上の窪みに手をかける。
滑るスニーカーで何度も壁を蹴り、這い上がった。
二番のサビが終わっていた。
ステージの上の大地と目が合う。泣いているのが見えた。
彼はドラムを止めた。
サポートのベースもギターも演奏を止めた。櫂だけが、乱入者を見ながらも歌うことをやめなかった。
目があった。櫂は悲しそうな顔をした。
首を振る、その意味もわかった上で幸助は駆け出した。
小さく空が唸り、待ってましたとばかりに光を放つ。
爆音と閃光と、四肢が弾けるような衝撃。
全ての音と光と感情を飲み込んで、幸助は跳ね起きた。
荒い呼吸で今いる場所を確かめる。吉祥寺の自宅。季節は夏。汗だくの上半身と、ガタガタと震える両手。
生きてる。そう思った瞬間に涙が溢れた。
しかしこみ上げるのは安堵ではなく、悲しみ。
また救えなかった。自然と漏らしそうになったその言葉を、次の瞬間冷静に飲み込み、納得する。
そうか。この夏フェスの夢は、櫂のループの終わりだ。
櫂はいつかの夏フェスのステージの上で死ぬ。そしてまたループする。それをもうずっと、何度も、繰り返している。
震えと涙が落ち着いたので、気怠さを認識しながらベッドから這い出した。
台所で水を煽り、深く息を吐く。気分は最悪だが、謎の夢の正体がわかって少しスッキリもしていた。
この夢は、過去のループの記録だ。
終わったループの中の自分が体験したことを見せられているんだ。
何も知らずに見ていた回。
ただ見ていることしか出来なかった回。
どうにか救おうと足掻いた回。
これまで繰り返してきたさまざまなパターンが、夢としてランダムに再生されている。
ならば、と幸助は寝起きの頭を振り絞って考えた。
これからも見るであろう夢の内容を覚えておいて、今回どうするべきかのヒントにすればいいのではないか。
同じパターンを繰り返さないというだけじゃない。
そもそも百回以上繰り返している事にまず疑問を持ち、どうすればループが止まるのか、櫂が死なずに済むのかを根本から考えていけばいいのだ。
幸い、幸助は一人ではない。
彼らが幸助ほど納得するには、櫂本人からの肯定と詳細な説明が必要だろう。
幸助にとっても櫂との認識合わせは急務だ。
最早あの夜のキスの事なんて気にしている場合ではない。
だからまずは、櫂と話す事だ。
繰り返し自分に言い聞かせながら、幸助は覚悟を固めていった。
夢の中の衝動と焦燥は、現実に帰るとすぐに薄れてしまう。
だから慌てて残り香をかき集めて、自分の中に刷り込んでいく。
大丈夫だ。今度こそやれる。やってやる。
確実に、絶対に、櫂を救おう。