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50:捻れたアンサーソング

「……佑賢ゆたか、」


いつの間にか深く潜っていた思考の海から、慌てて浮上する。

瞬き一つで意識を戻すと、幸助が真っ直ぐにこちらを見ていた。


「俺、今度かいくんに会ったら、全部聞いてみようと思う。タイムループのこと」


心が軋む音がする。嫌だと叫びたい自分を殺す。

貼り付けた無表情は仮面だ。こういう時にみっともない感情を晒さないために鍛えてきたんだ。


「……うん。そうしてくれ」


その返事に、幸助はやっと少し笑った。

やるべきことが決まってすっきりしたのだろう。もうすっかり薄くなったレモンサワーを飲み干して、不味い、とぼやく。

そのぼやきをきっかけに、止まっていたテーブルの時間が緩やかに流れ始めた。

各々思い出したようにジョッキを空にして、今更空腹に気付いてしまいテーブルを皿で埋めていく。


こういう時、酒が飲める体だったらよかったと思ってしまう。

腹の底にずっとある冷えた恐怖をアルコールの熱で消してしまいたい。

一番最悪な展開ばかりを考えるこの脳を、酒の力で止めて意識を失ってしまいたい。


これから訪れる未来が不安で仕方がない。

セカンドシングル、対バンライブ、そして秋にはファーストアルバム発売と初のワンマンが控えているというのに、音楽や興業以外の雑念が佑賢の心を重くする。


櫂の真実を全て知った時、幸助はどうするんだろう。

櫂と幸助、二人の関係が変わった時、二人の音楽はどうなってしまうんだろう。


櫂の手のひらの上で踊る俺たちは、これから一体どうなるんだろう。


トマトジュースと空調で冷えていく手が時折震えてしまう。

けれど佑賢は、それをテーブルの下に隠すことしか出来なかった。




***




その夜、幸助は久しぶりに夢を見た。


八月。苗場。グリーンステージ。

豪雨の中で歌う櫂と、それをただ見ているだけの自分。


以前見た景色と変わらぬものが広がっている。キャップの鍔を伝う雨粒のリズムまで同じだ。

視界を邪魔する雨垂れを払ってから、自分が動けることにギョッとしてしまう。今度は動けるらしい。

櫂がステージの上で何かを叫んだ。駆け抜けたアウトロが余韻になると、オーディエンスは声を上げ手を打ち鳴らしパフォーマンスを讃えた。


動けるならばと幸助も拍手で応えた。けれど気持ちは入っていかない。

それどころではない、という感覚。

前回と同じような強い焦り、早く櫂の元へ駆けつけたいという衝動がつきまとう。

観客の反応を満足げに見つめた櫂は、荒れた空に向けて静かに語りかけた。


『次で最後の曲です。俺たちの音楽はここで終わるけど、君たちの旅はまだまだ続くから。どうかこれからも、笑っていてね』


フェスの出番最後のMCにしては少し大袈裟すぎるフレーズも、観客は歓声と拍手で受け止めた。

けれど幸助だけは、櫂のMCに言い知れぬ悲しみを覚えていた。


衝動的に足が動く。無我夢中で人をかき分け、ステージへ近づこうとする。

最後の曲のイントロが鳴る。知らない曲だ。歌わないで、と強く願ってしまう。

雨と風が強くなる。その音に負けないように、櫂はよく通る透明な歌声を高らかに響かせた。

やめろ、と小さく声が出た。迷惑そうな観客がこちらを振り向き、それから「あれ?」という顔をする。

俺が誰だろうと構うもんか。櫂の演奏を止めるんだ。あのステージから引きずり下ろさなきゃいけないんだ。


強い衝動のままに前方サイドの簡易柵までたどり着き、迷わず手をかけ飛び越える。

すぐに警備員が駆け寄ってきた。掴まれた腕を振り切って、立ちはだかる体の横をすり抜けて、ステージへ猛進する。

自分の起こした騒動にステージの上も気付いたようだ。

櫂の歌声が短く止まり、動揺を滲ませた歌声が躊躇いがちに続く。


スタッフが駆け寄ってくる。それでも止まるわけにはいかない。

曲は一番のサビを終わろうとしている。ステージまであと少し。

二人がかりで押さえ込まれて前につんのめる。

濡れた芝生に顔から突っ込んだ。草と泥と雨水。どんな感触もどうでもいい。

咄嗟にポケットに手を突っ込み、握り込めたそれを馬乗りのスタッフに押し付ける。

スタンガンだ。何でこんなものを持っているかはわからない。

ただ効果はてきめんで、スタッフは弾かれたように体を浮かせた。


すかさず這い出てまた走り出す。ステージまでの高低差が邪魔だ。

飛び上がって淵に手をかけたが雨で滑ってしまった。

もうすぐ二番のサビに入る。

心の底から声が出た。櫂の名前を呼んでいた。


頼む、やめてくれ!


スピーカーの前で張り上げた懇願はもちろん届かない。

オーディエンスがざわつこうが、櫂はこちらを見ないようにして歌い続ける。

呼吸を整えて、再び跳んだ。

壁を蹴ってフチを掴み、今度こそステージ上の窪みに手をかける。

滑るスニーカーで何度も壁を蹴り、這い上がった。

二番のサビが終わっていた。


ステージの上の大地と目が合う。泣いているのが見えた。

彼はドラムを止めた。

サポートのベースもギターも演奏を止めた。櫂だけが、乱入者を見ながらも歌うことをやめなかった。


目があった。櫂は悲しそうな顔をした。

首を振る、その意味もわかった上で幸助は駆け出した。


小さく空が唸り、待ってましたとばかりに光を放つ。


爆音と閃光と、四肢が弾けるような衝撃。



全ての音と光と感情を飲み込んで、幸助は跳ね起きた。

荒い呼吸で今いる場所を確かめる。吉祥寺の自宅。季節は夏。汗だくの上半身と、ガタガタと震える両手。

生きてる。そう思った瞬間に涙が溢れた。

しかしこみ上げるのは安堵ではなく、悲しみ。

また救えなかった。自然と漏らしそうになったその言葉を、次の瞬間冷静に飲み込み、納得する。


そうか。この夏フェスの夢は、櫂のループの終わりだ。

櫂はいつかの夏フェスのステージの上で死ぬ。そしてまたループする。それをもうずっと、何度も、繰り返している。


震えと涙が落ち着いたので、気怠さを認識しながらベッドから這い出した。

台所で水を煽り、深く息を吐く。気分は最悪だが、謎の夢の正体がわかって少しスッキリもしていた。


この夢は、過去のループの記録だ。

終わったループの中の自分が体験したことを見せられているんだ。


何も知らずに見ていた回。

ただ見ていることしか出来なかった回。

どうにか救おうと足掻いた回。


これまで繰り返してきたさまざまなパターンが、夢としてランダムに再生されている。


ならば、と幸助は寝起きの頭を振り絞って考えた。

これからも見るであろう夢の内容を覚えておいて、今回どうするべきかのヒントにすればいいのではないか。

同じパターンを繰り返さないというだけじゃない。

そもそも百回以上繰り返している事にまず疑問を持ち、どうすればループが止まるのか、櫂が死なずに済むのかを根本から考えていけばいいのだ。


幸い、幸助は一人ではない。

佑賢ゆたかもゴンも望田もちだも、納得はしていないかもしれないが認識はしてくれている。

彼らが幸助ほど納得するには、櫂本人からの肯定と詳細な説明が必要だろう。

幸助にとっても櫂との認識合わせは急務だ。

最早あの夜のキスの事なんて気にしている場合ではない。


だからまずは、櫂と話す事だ。

繰り返し自分に言い聞かせながら、幸助は覚悟を固めていった。


夢の中の衝動と焦燥は、現実に帰るとすぐに薄れてしまう。

だから慌てて残り香をかき集めて、自分の中に刷り込んでいく。


大丈夫だ。今度こそやれる。やってやる。


確実に、絶対に、櫂を救おう。


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