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52:終わりのはじまり

思わず声が裏返ってしまった。

そんな幸助の反応に、かいは満足そうに目を細める。


「結婚式って、一生に一度だけ全てのわがままが許される日だと思っててね。自分の好きなものてんこ盛りにしてさ、今の自分を大勢の人に見てもらって祝福されて、俺今めちゃくちゃ幸せでーす! って心から叫べるような……ツーマンはそんな日にしたいんだ」


頬を赤らめ興奮気味にまくしたてる櫂に、幸助はただただ混乱していた。


彼がツーマンを大切に想ってくれているのはわかる。

企画の中心に立ち、何事も疎かにせずクオリティを求めて今日まで準備を進めてくれたこれまでの振る舞いからも、それは十分伝わっている。


でも結婚式と言い切ってしまうのは、比喩だとしてもどうだろう?

結婚式は相手が居てこそ成り立つものだ。

この場合の相手はやっぱり自分なのかな、だってフロントマン同士だし、並んで歌うし……なんて調子の良いことを考えてしまう。


更に単純な連想ゲームであの夜のキスまで思い出してしまって、幸助は思わず目を泳がせた。

櫂を目の前にして思い出すあの感触は、今の幸助には猛毒だ。

場違いな欲望が空気を読まずに顔を出したものだから、幸助は落ち着きなく頭を掻く。


そんな幸助の動揺を見抜いたのか、櫂は叱るような語気で「だからね、」と声を張った。


「幸助くん。今だけ、全部忘れてくれないかな」

「……忘れる?」

思わず鸚鵡返しをしてしまった。大きく頷く櫂の目はいたって真剣だ。

「そう。全部忘れて、ライブに集中して欲しい」


全部。

全部というのは、どこからどこまでのことだろう。

あの夜のキスのこと? 櫂に抱いているこの感情のこと?

それとも、


「……櫂くんがタイムループしてることを、忘れろって?」


足りない覚悟で吐き出したその単語は、情けなく震えてしまった。

息苦しくてすぐに大きく息を吸う。

せめて櫂の反応は見届けようと目をそらさなかったのに、櫂は大きな動揺も驚きも見せなかった。

ただ幸助を見つめたまま、一度頷いて、静かに告げる。


「……ライブが終わったら、全部話すよ。俺に起こっている事も、これから起こる事も、何もかも全部」


吸ったはずの空気がどこかから抜けてしまうような、眩暈にも似た感覚。

体の形が保てなくなるような脱力感に襲われて、幸助は咄嗟に一歩後ずさった。


足の裏の感覚でどうにか自我を保とうとする。

わかってたことだろと言い聞かせる。

確信はあったじゃないか。

根拠はないが、絶対そうだという自信があった確かにあったじゃないか。

だから何も驚くことはないはずなのに、幸助は口を開けたまま呆然と櫂を見つめる。


否定、しないんだ。

櫂は本当にタイムループをしているんだ。

櫂は本当に、何もかも全部、この先に起こることも全部全部知っていながら、何十回目、何百回目かの今を、生きている。


「ここまで来たら隠すことは何もないから、Pinkertonピンカートンの皆にも伝えてくれて構わない。けど、全部知ってしまったら俺たちはもう、今まで通りの関係ではいられなくなる。だからどうか、このライブが終わるまでは全部忘れてほしい。全部気付かなかったことにして、このツーマンだけは今まで通りのPinkertonを見せてほしい」


櫂は静かにそう言い切って、深く頭を下げた。

お願いします、と地に転がる声が切実な色を帯びる。


櫂は、Pinkertonの不調が自分にあることを見抜いていた。

けれど何も不思議なことはない。彼ならそれができる。

彼が生きてきた何百回のうちのどれかでも、きっとPinkertonは不調だった。その不調を引きずったままツーマンに出た回があった。

Pinkertonの評価が落ちるのを間近で見た。櫂の大切なツーマンライブが、良くない意味で伝説になった回もあったのかもしれない。

だから櫂は、最善の策を講じようと必死なのだ。


櫂の目的はツーマンの成功。

そのために必要なのが、Pinkertonの意識改革。

単純な構造だ。幸助でもそれがわかってしまって、はっと息をのむ。


とりあえず顔を上げてくれ、と幸助が言うと、櫂はゆっくりと頭を持ち上げた。

不安げな上目遣いにも場違いな感情が込み上げるが、可愛いの単語を飲み込んで無理やり笑ってみせる。


「……今日のリハが散々でやべーってのも、これを立て直すにはそうするしかないってことも、よくわかった」


自分に言い聞かせるように一度頷いてから、幸助はまっすぐに櫂を見た。

わかった、と口では言っているが、本当にできるかどうか自信はない。

櫂と出会ってからの数ヶ月、もうずっと彼のことばかりを考えてきたのだ。

櫂が置かれている奇異な状況について一旦忘れるだなんて、都合の良い思考の切り替えが出来る脳みそは持ち合わせていない。


それでも、幸助は忘れようと思った。

ツーマンライブの成功は、Pinkertonの成功につながる。

Pinkertonを守ることも、幸助の生きる意味だ。

そのための最善策を櫂が示してくれるのなら、心底惚れている自分はただ、疑いもせずそれに従うだけ。


「櫂の言う通り、ライブが終わるまで全部忘れる。考えないようにする。その方がいいって俺も思うからさ。Pinkertonにとっても、このライブが大切なターニングポイントになるんだろうし、実際……そうなるん、だよな?」


不恰好な問いにも櫂は笑わず、真剣な表情ではっきりと頷いた。

いつも櫂が見せてくれた、根拠のない底なしの自信。


櫂の「絶対」はいつも本当になった。

だからきっと今回も、間違いない。


「変な話だけど、俺を信じて。いつものPinkertonでいれば十分だから。何も考えずに、ただ楽しんでくれればそれで大丈夫だから」


櫂の肯定は、幸助の両足に力を与えてくれた。

浮いたような心地が止んで、踏みしめる足の裏の感覚がよりクリアになる。


同時に頭の中もスッキリと見渡せるようになった。

櫂のタイムループは真実で、詳しいことはライブが終わってから全部聞く。

整理してみれば至極簡単な話だ。

混乱は全部後回し。過去も未来も関係ない。

とにかく今は、今を楽しめばいい。


幸助が頷くと、櫂はやっと心からの笑みを見せてくれた。

ありがとう、と小さくこぼした声に安堵が滲んでいる。

重苦しかった空気が爽やかに感じられた瞬間、櫂のスマホのバイブ音が鳴り響いた。

画面を一瞥した櫂が、苦笑とともに幸助をみる。

スタッフからの催促なのだろう。


二人きりの時間はこれで終わり。

次にこうして向き合う時は、真実を知る時だ。

戻ろっか、と背を向ける櫂に、咄嗟に手を伸ばしてしまいそうになる。


何もかもクリアになった瞬間、一つ、どうしても無視できない言葉を見つけてしまった。


『全部知ってしまったら、今まで通りの関係ではいられなくなる』


それはきっと、ALLTERRAオルテラとPinkertonの話だけじゃないのだろう。

幸助と櫂の関係も、抱いている感情さえも、おそらく変わってしまう。


不変は退屈だが、変わることへの恐怖に比べたら生ぬるくて心地よいものだ。

変わってしまうとわかった途端、叶わなくてもいいからここにいてよと恋に縋ってしまう。


ずっとこのまま、片想いでいられたらよかった。

櫂を想う気持ちが、変わって風化して消えてしまうことへの恐怖が今、幸助を飲み込んでいく。


この感情を失っても、俺は櫂を救えるだろうか。

櫂を大切に想うこの気持ちが形を変えてしまった時、俺は変わらず、櫂を救うという選択肢を選べるのだろうか。

選びたい。選ばなきゃいけない。

なんなら、何があったってこの気持ちは変わらないと言いきらなきゃいけない。


自信はない。不安が群れを成して襲ってくる。

叶うのなら櫂に今すぐ聞いてみたい。

俺のこの気持ちは、お前を好きだって気持ちは、いつまで俺の中に居てくれるのか。


けれどそれすら、今は忘れなきゃいけない。

恐れも不安も全部振り解いて傍に追いやって、純粋に音楽と向き合わなきゃいけない。


「櫂くん」


幸助は咄嗟に名前を呼んだ。扉に手をかけた櫂が振り向くより先に、壁のスイッチをオフにしてしまう。

光源は扉に空いた長方形から漏れる廊下の灯りだけになった。

突然の暗転に驚く櫂の腕を引いて、抱き寄せる。


いつかの別れ際のハグよりも長く、強く、幸助はその熱を確かめた。

男同士のぶっきらぼうなそれではなく、できれば溶けて一つになりたいと願いながら、腕に力をこめる。

時間にしてわずか数秒。

すぐそこにある呼吸と心音に鼻の奥をツンとさせながら、幸助は掠れた声で告げた。


「……ツーマン、成功させような」


この瞬間に、一度全てを置いていく。

その覚悟とともに櫂を離すと、幸助は無理やり笑ってみせた。

いつも通り。いつも通り。

呪文のように繰り返したおかげか、櫂も眉を下げて笑う。


「うん。楽しもう!」


下唇に引っかかった八重歯。

漫画みたいに大きくて綺麗な瞳。

透き通るような白い肌と、握りつぶせそうなほど小さい頭。


俺の好きな人。

願わくば、ずっとちゃんと、好きでいたい人。


もうすぐ失うかもしれない大切な感情だけを連れて、幸助は櫂と共にスタジオを出た。


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