これが映画や漫画の話だったら、どれほど良かっただろう。
幸助はうまく動かない頭でぼんやりとそんなことを思った。
手元のカルピスはまだ飲み干していない。
何かを口に含む気にもなれず、ただグラスを指でなぞる緩慢な動きを見つめている。
『好きな人がタイムループをしている』……この事実には少し前から気付いていたから、今更驚きはない。
けれど、改めて本人の言葉で聞かされた内容に、幸助は滅入ってしまっていた。
例えばこれが、自分とは直接関係のない誰かに起こった話だったら、羨ましいなーなんて思っただろう。
何度もやり直せるなんて最高じゃん。いろんな職についたりやりたいこと全部やれて楽しそうじゃん。なんて言う自分が容易に想像できる。
けれど
彼は繰り返しの中で、おそらくただの一度も遊んでなどいなかった。
彼に訪れるすべての時間とチャンスは、自分と出会い幸せになるためだけに注がれていたのだ。
俺自身が、櫂のタイムループの理由。
俺に注がれている櫂の一途な恋心が、櫂を時間の檻に閉じ込めている。
この事実が、幸助の気持ちを重く沈めていた。
「あ、ちなみにこのファミレスでの会話は狙って起こしたものだよ。俺はもう何十回もこの場面を経験してる。このあと幸助くんが何て言うかもパターン別に全部わかってるから、安心してなんでも聞いてね」
幸助の沈黙をしばらく許容していた櫂は、思い出したようにそう言った。
あっけらかんと告げるにはあまりにも不思議な内容に、幸助は顔を上げることしか出来なかった。
質問なら幾つも浮かんでいるが、何から聞いたらいいかわからない。
聞いたところで、飲み込めるかどうかもわからない。
鉛を飲み込んだかのように重い胸のあたりをさすりながら、持て余した時間でとりあえずカルピスを飲み干す。
「……えぇと、じゃあ……今って何回目のループなの?」
結局絞り出したのは、自分にダメージが少なそうなクエスチョンだ。
何百回と言われても、ループをしていない自分にはまずまともに想像が出来ない。へぇそうなんだ、と他人事のように遠くに追いやることしか考えられない。
「それがね、100を超えるあたりからもう数えるのも面倒になっちゃって。正確にはわからないんだけど、まぁ多分120か130くらいかな」
用意しておいた「へぇそうなんだ」は出てこなかった。
ふと気になって指折り数えてしまう。
櫂は今、何十年生きているんだろう。
厳密には肉体は死んでいるけど、記憶は生きているわけだから『生きている』と言っていいんだよな?
そんなことを考えながら指を七本折ったところで、幸助は顔を上げた。
そういえばこれを聞いていなかった。
もしかしたら一番大事な質問かもしれない。
恐怖が膨らむが、聞かないわけにはいかない。夢で見た雨の夏フェスの景色ごと、恐怖を奥歯ですりつぶして飲み込もうとする。
「……櫂くんの、ループの終わりって……」
いつなの、と続けるまでもなく、迷うように途切れた言葉の隙間で櫂はあっけらかんと笑った。
「来年の8月」
呼吸が止まるかのような衝動。
カレンダーを見るまでもなく、指折り数えられる残り時間。
あとたったの10ヶ月。一年も経たずに、櫂が、死ぬ?
「日はまちまちだけど、大体同じ時期だね。8月第3週の土日の、」
「シャイフェス?」
食い気味に身を乗り出すと、櫂は初めて目を丸くした。え、と動揺を見せてから、苦笑をこぼす。
「このパターンは初めてだな。誰かから聞いた?」
「いや、夢で見たんだ」
「夢?」と櫂は再び目を見開いた。
そして次の瞬間には、吹き出すように笑う。
「さすが幸助くん。突拍子もないなぁ」
「茶化すな」
つい腹から声が出た。いつもは嬉しいはずの櫂の笑顔が、異様に腹立たしかった。
幸助は夢のことをまくしたてた。
櫂に出会う少し前から、不定期に夏フェスの夢を見るようになったこと。
同じようなシチュエーションだが毎回少しずつ違っていたこと。
でも大半の夢の終わりは同じで、ステージは落雷による轟音と衝撃と激しい光に包まれ、閉じた目を開けたら現実で目が覚めていたこと。
そして、櫂のタイムループに気付いた時から、この夢が『過去、別の自分が経験したループの終わり』なのだと理解したこと。
言葉は感情を連れてくる。
夢で見たいくつものパターンを説明しながら、幸助の中には夢で抱いていた焦燥や渇望が蘇えっていた。
櫂を救いたくて足掻いた、過去何十人の自分の悔しさが流れ込んでくる。
その濁流に抗うどころか自ら飛び込んだ幸助は、溢れる想いを抑えておくことはできなかった。
「全部わかってんならさ、なんで抗おうとしないんだよ? 雷が落ちて死ぬってんなら雷をどうにか回避すればいいだろ。ステージに上がらなければいいだけだろ。シャイフェスなんて再来年もその次もずっとあるんだ。来年の一回を辞退することぐらい、」
「とっくにやってみたよ」
幸助の言葉を遮った櫂は、烏龍茶を飲み干して伝票を手にした。逃げるつもりかと眉を顰めると、櫂が眉を下げて笑う。
「やってみたけどダメだった。俺の死因は感電死で固定じゃないみたいでね。夏フェスを辞退しても家で突然死するし、ステージを変えてフェスをやり切っても帰り道に事故って死ぬ。神様は何がなんでも来年の8月に俺を殺すんだよ」
幸助が衝撃を咀嚼している隙に、櫂は「店を出よう」と席を立った。
さっき声を荒げてしまった自分を思い出して、幸助も後に続く。
手早く会計を済ませて足早にファミレスを出ると、終電終わりの吉祥寺はいよいよ閑散としていた。
櫂の半歩後ろを歩きながら、きっと向かうのは井の頭公園だろうと思った。
幸助はもうずっと、櫂の言葉を飲み込めずにいる。
夏フェスの落雷を避けても、櫂は死ぬ。
そういえばフェスで歌い切った櫂を見届けた夢もあったが、あれもあの後なんらかの原因で櫂の死を知ったのだろう。
『神様は何がなんでも来年の8月に俺を殺すんだよ』
それが本当なら、俺はどうやって櫂を救えばいいんだろう。
本当にもう手はないのか? 全て試したのか?
130回もチャンスがあって、その全部で死を避けられないなんてそんなことあるのか?
「……なぁ、病院で軟禁状態にするとかどうよ? ほら、心臓発作とか起こしてもすぐ処置できる環境に居れば」
「あー、それに近いことはやったけど。救急車が事故に巻き込まれて遅れるとか、医者が捕まらないとか、何かと不運が重なって助からなかったね」
「じゃあえーと、そうだ、このタイムループのことを公表してさ、頭いい奴らに調査してもらって解決策を見つけてもらうとか」
「信じてもらうのに半年ぐらいかかりそうだね。詳しくわかったところで時間切れだろうなぁ」
思いつくままアイデアを口に出しても、櫂はそれをのんびりと全否定する。
井の頭公園への道中繰り広げた会話はどれも実を結ぶことなく、10月の心地良い気温に溶けていく。
公園入り口へ続く街灯のない坂道を下る頃にはもう、何も思いつかなくなった。
自分だけじゃなく
「佑賢くんのアイデアは夏フェスのステージ周辺に避雷針を置くっていう、単純だけど効果の高いものでね。おかげでフェスをやり遂げることはできたけど、その夜泊まったホテルで突然死しちゃって残念ながら失敗。ゴンちゃんは俺の心拍を測る機械をつけてくれたけど、前述の通り救急車が遅れて間に合わず、だったね〜」
まるで思い出話でもするかのように、櫂は自分の死を軽々と口にした。
それは幸助の耳に不愉快な異音として響き、苛立ちばかりが募った。
坂道を下り終え、公園入り口から伸びる浅い階段に差し掛かった頃、幸助はついに我慢が出来なくなった。
他人事のように足取り軽く前を行く櫂を乱暴に引き留めた。
腕を引き振り向かせると、段差のせいで櫂を見下ろすような形になった。
「なんでもっと早く言ってくれなかったんだ?」
ここで櫂を責めるのは多分間違っている。そんな感覚は頭の片隅にあったけれど、自分を抑えることがもう難しかった。
一度開いた口は勢いを増す。
言葉にしたら取り消せないのに、脊髄反射のような直接的な感情ばかりが溢れ出る。
「もっと早く教えてくれてたら、もっと早くから色々準備もできたろ。なんで今なんだよ! なんでそんな軽いんだよ! 俺がお前のために必死になるところをもう何度も見てんだろ? 俺が必死にならないわけねぇのもわかっててなんで、なんで今……残り一年もないって時に……!」
「ツーマン終わりの今日が一番、ベストだから」
「ベストとか知るかよ! 俺にはベストがどうとかわかんねーし、今日が最良だったとしてもお前は死ぬってんだろ? それが嫌なんだよ!」
「腕、いたいよ、離して」
櫂が眉を下げたその瞬間、幸助の中の何かが弾けた。
咄嗟に掴んだ腕を引き寄せると、体当たりのように抱き締める。
強く腕に力を込めたら、この思いが肌を通して櫂に届いたりしないだろうか。
そんな願いにも似た衝動を振り払って、幸助は吠えた。
「お前の死を止めたい。好きなやつが死んでくのを黙って見てるなんて、俺には絶っ対無理だ。救いたいんだお前を、今度こそ!」
それは、夢にまで見た渇望と後悔の言葉だ。
今度こそ、今度こそ、今度こそ。
繰り返して積み重ねて幸助の核となったその想いは、しかし届いて欲しい人になかなか届かない。
「……幸助くんはどの時間軸でもそう言うよね」
くぐもった、苦笑混じりの声だった。そこに滲む諦めの色を、幸助は見逃さなかった。
離れようともがく櫂を腕の中に閉じ込めて、幸助は必死に絞り出した。
「好きなんだよ。櫂のことめちゃくちゃ好きなんだ。詞とか作っちまうくらいには好きなんだ! だから!」
鼻の奥のツンとした痛みも、目から溢れそうな熱も、何もかもが意識の外だ。
だから、何だっけ。
衝動ばかりが空回りして言葉が出てこない。
どうにか、1ミリでも届いて欲しいと願うことしか出来ない。
けれど櫂は、幸助の想いを静かに押し戻した。
離れた胸をそっと撫でながら、櫂は俯き、「だったら、俺はこう返すしかない」と小さく呟く。
「だから俺たちは、ここで終わりなんだよ」