「だから俺たちは、ここで終わりなんだよ」
そう続いた
見下ろした櫂の足元に、雫が落ちるのを見た。
泣いてる、と思ってから、自分もだと気がついた。
頬を伝う涙を拭うこともできずに、ただ、純粋な思いを振り絞る。
「……なんで? 俺たち、両思いじゃん」
幸助の涙声を笑って、櫂は少しだけ顔を上げた。
指先で雑に涙を拭いながら答える。
「……何度目だったかなぁ。ちょうど今ぐらいのタイミングでタイムループを打ち明けて、俺が絶対助けるって豪語する幸助くんを信じて、俺たち付き合ったんだけどね。結果は一番最悪だった。気持ちが通じたからこそ、君は俺を絶対に諦めようとしなかった」
当たり前だろ、と呟いたら、櫂は笑みを広げて手を伸ばしてきた。濡れた指先で幸助の頬の涙を拭いながら、櫂は続けた。
「君は、俺が死ぬその瞬間に俺に触れた。ステージまで上がってきて、俺を突き飛ばそうとしたんだろう。それでどうなったと思う? 俺たち二人とも死んだんだ。マジふざけんなよと思ったね」
涙を拭った指で、櫂は幸助の頬を強く摘んだ。上目にこちらを見る櫂の表情は、もう笑っていなかった。
「俺は君と心中なんかしたくない。君が死んだら、誰が俺の歌を歌ってくれんの? 《スケイル》のカバーを出してくれなきゃ困るんだよ。あの曲を歌い続けて、俺と君が出会ったこと、俺が生きてた証を、死んだ後の世界に残してくれなきゃダメなんだから」
語尾を強く放り出して、櫂は手を離した。
痺れるような淡い痛みがひりひりと頬を焼く。
その痛みに助けられて、なんとか飲み込んだ事実を口にしてみる。
「……付き合ったら、俺たち二人とも死ぬ?」
「まぁ大体そういうこと。フェスを避けても結果は同じ。俺のそばから離れようとしないから、事故とか一緒に巻き込まれたりしてね」
熱をもった目頭が急速に冷えていくのを感じた。自分の死を意識した途端、少し足元がおぼつかなくなる。
そんな幸助を見抜いているのか、櫂は幸助の片手をそっと握った。安心させるように一度ぶらりと振ってから、満面の笑みで言う。
「幸助くんが死なないためには、俺が死ぬのを黙って大人しく見届けるしかない。でもそんなことできないでしょ? だから、ここでお別れ」
最後の言葉とともに、櫂は幸助の手からするりと逃げた。幸助はそれを慌てて追いかけて捕まえる。
「待てよ。何諦めてんだよ。お前が諦めたら何にも変わらねーだろ! きっとまだ出来ることが」
「ないよ。……ない。出来ることなんてもうない。だから大人しくここで」
「ないかどうかなんてわかんねーって! 俺が死なないループがあるならお前が死なないループだってきっとある!」
「幸助くんはループしないんだから当たり前でしょ? 俺はもう何度も繰り返してるからわかるんだって。俺は死んでまた繰り返す。何をしてもそれは変わらない。以上、終わり!」
「終わってたまるかよ!」
「終わるの! 俺は絶対死ぬんだから、もうほっといてよ!」
幸助の熱に煽られてか、櫂はその日初めて声を荒げた。幸助の手を乱暴に振り払い、そのまま一歩後ずさる。
段差の際でふらついた櫂は、しかし踏みとどまった。
その衝撃で少し冷静になったのか、続く声は静かに、しかしトゲを孕んだままだ。
「……タイムループを止めたら、俺はただ普通に死ぬんだと思う。来年の夏で俺の人生は終わり。どんなに頑張っても何をしても、来年の夏の先を知ることはない。幸助くんも、大地も、みんなその先を生きていくけど、そこに俺はいない」
絶望的な言葉は、櫂自身も傷つけている。その痛みを小さな呼吸で飲み込んでから、櫂はとても弱々しく笑って見せた。
「だったら、何度だって繰り返して、小さな変化を楽しみながら同じ時間を生きる方がよくない? 幸助くんや、皆と出会えるこの時間を永遠に繰り返した方が楽しいじゃん。もう、それでいいんだよ」
落ちた言葉は足元に転がって闇に消えた。その面影を辿った櫂の視線は地に落ちたまま、小さく「頑張るのは、疲れた」と呟いた。
それが櫂の本音だと、幸助は気付いた。
気付いたがしかし、受け入れることは到底出来ない。
頭に血が上っていくのがわかる。ここで怒りに心を任せても何もいいことがないこともわかっている。
けれど、どうしようもなかった。認めるわけにはいかなかった。
「ふっざけんなよ……お前は死んでもまた俺たちに会えるんだろうけど、じゃあ残された俺たちはどーなるんだよ!
お前のいない世界をずーっと生きていかなきゃいけないんだぞ! 俺も大地も、お前の音楽に魅せられたやつら全員、いつまでもお前のこと引きずって寂しがって生きてくんだぞ!
それが嫌だから、そうならないために必死こいて何が悪ぃんだよ!
諦めんなよ! 俺にはこの一生しかないんだから一緒に居させてくれよ!
もう疲れたからさよならだなんて勝手すぎんだろ!」
吐き出した熱は、まるで怪獣の吐く炎のように全てを飲み込んだ。
足を踏み鳴らして地面が割れるなら、いくらでもそうしたいと思った。
櫂のいない世界なら、いっそ壊れてしまえと思った。
全部壊れてしまえば、いっそ諦めもつくのかもしれないと思った。
そんな怪獣と向き合う小さな巨人は、怪獣の体温が上がれば上がるほど冷めていくようだった。
破壊の限りを尽くそうとする怪獣の姿は、彼からすれば駄々をこねる子供のようなものなのだろう。
ひどく冷静に、彼は青白い光線を放った。
「……そう。タイムループしてるのは俺だけ。ただの、普通の、ごく一般的な人間である幸助くんに出来ることは限られている」
感情の滲まない事務的な声でそう言って、櫂は二本指を突き立てた。
「選択肢はこの2つだけだ。来年の夏まで何もせず死ぬ俺を見届けるか、今ここで全部終わりにして来年の夏に俺の訃報をネットで知るか」
櫂は同じことを繰り返した。咄嗟に幸助が口を挟んでも、もう聞くつもりはないとばかりに食い気味で言葉を続ける。
「幸助くんはどちらを選んでも
「だから! 俺はお前と」
「だったらさ、こんな面倒な奴のことはさっさと忘れてPinkertonで武道館ワンマン決めちゃってよ。カウントダウンライブのトリとかさ、ワールドツアーとかさ、Pinkertonには明るい未来しかないんだから」
櫂の口調に色が戻っていた。皮肉の色ではなく、明るく強がるような色だ。
それに呼応して、薄闇の中の櫂もへらりと笑う。
「ほら、幸助くんがあと60年生きるとしてさ、10ヶ月なんて微々たる時間じゃん? それを誰と生きたかなんて些細なことだし、Pinkertonとして邁進した方が後悔はずっと少ないと思うんだ。
俺が死ぬのをわざわざ見届けるのもさ、なんか気分悪いだろうし、幸助くんの輝かしい人生に汚点を添えてしまうのは俺としても申し訳ないし」
「は? お前それ本気で言ってんの?」
押し返された熱が勢いを取り戻した。吐き出した炎が青く変わる。先ほどよりもずっと激しく燃えた怒りは、幸助自身をも焼いていく。
「長い目で見たらきっとその方がいいよ。俺は大丈夫。また来世でちゃんと幸助くんと出会うし、作詞の講師もちゃんと名乗り出るし、ツーマンライブも成功させるから」
そう言って笑う櫂のことが、燃え盛る炎と黒煙にまみれて見えなくなった。
未だかつて抱いたことのない怒りだ。自分が燃える音と匂いを感じながら、軋む胸が痛いと叫んでいる。
「……お前それ、俺の気持ちを踏み躙ってるってわかって言ってんのかよ。なんでそんな自分勝手でいられんだよ!」
低く絞り出した声とは裏腹に、幸助の足は後退を選んだ。
それを見た櫂はゆるく微笑んで、「それでいいよ」と頷いて見せる。
悟り切ったような顔を見ていられなくて、幸助は櫂に背を向けた。
逃げ出したかった。
今の自分には、選択を先延ばしにすることしか出来ないと思った。
もう燃やせるものがない。幸助の中の全ての感情が、原型をわずかにとどめたまま真っ黒にくすぶっている。
焼け焦げたそれらが再び色を取り戻すことなどあるのだろうか。
もう一度、提示された二つの選択肢と向かい合える日が来るのだろうか。
その可能性すら見出せないまま、幸助は何も言わずに駆け出した。