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62:もうひとつの物語3

Pinkertonピンカートンメジャーデビュー後初のワンマンライブは大成功だった。

券売は勿論、関係各所からの評判もすさまじい。

閉幕から1時間半が経過して、主要音楽サイトのライブレポポストは今までにない拡散のされ方をしているらしい。SNSも盛り上がっていると聞いた。

ライブスタッフからの反応も良い。何より、自分たちに今までで一番のパフォーマンスができたという自信があった。これからへの手応えも確かにあった。


憂うことなど何もないのに、薄闇にぼんやりと浮かぶ佑賢ゆたかの横顔は冷えている。

ライブハウス裏、誰もいない搬入口。機材を乗せたトラックはとっくに出たのでこんなところに用などないはずなのに、佑賢はそこにしゃがみこんでいた。


楽屋ではスタッフたちが打ち上げの後片付けを始めたところだ。

ゴンは佑賢の姿が見えないとスタッフから声をかけられ、何となく思うところあって外へ探しに出た。

そして今、建物の陰で息をひそめて一点を見つめている。


煙草を咥えぼんやりと宙を見上げる、まるで生気のない横顔。

宙を見据え微動だにしない瞳は、おそらく何も映していない。

ただでさえ感情が滲みにくい能面は、いよいよ人間のそれでは無い。


どこかの国の歴史ある芸術の如き美しさだと、ゴンは思った。

いつだって佑賢の顔は美しいが、今夜は際立って良く見える。

鼻筋も顎のラインも、少しずれた眼鏡も半分閉じたような瞼も、全てが完璧な形とバランスでそこにある。

おまけに、裏口の蛍光灯のせいで肌が青白い。石膏像のようにも思えてくる。とても生者とは思えぬ造詣だが、時折瞬く瞼の動きだけが佑賢の生を伝えてくれる。

火をつけただけの煙草が順調に燃えていた。

灰がぽとりと落ちても、佑賢は何の反応も見せない。きっと煙草を咥えていることすら忘れているのだろう。


目をそらしたら最後消えてなくなるような気がして、ゴンは動き出せずにいた。

自分と彼の関係性なら、何も言わずに歩み寄って隣に腰を下ろしても許される。

今佑賢が呆けてしまっている理由を正しくわかっているのは自分だけだ。だから何も迷うことなどないはずなのに、浅い呼吸で立ち尽くしている。


今頃幸助は、櫂に想いを伝えている。

悩み抜いた末に出した結論を、櫂がどう受け止めるかはわからない。

でもきっと、あの二人は大丈夫だ。二人の間に確かな絆と愛があることを、もう誰も否定なんか出来ない。

否定できるとしたら視線の先の彼だけだろうが、そんなことをする人間なら、もうとっくにこの生き地獄を終わらせているはずだ。


佑賢の煙草は半分の長さまで燃え尽きていた。そろそろまずいか、と無理やり息を吸い、ゴンは静かに後ずさった。

音を立てないように大股で3歩。

立ち止まり、一呼吸置いてから意を決して右足を踏み出す。


今度は出来るだけ大きく足音を立てた。数歩の距離もズカズカと迷いなく前進し、ついでに声なんかもあげてやる。


「おぉ〜い、ゆたかぁ〜? どこだぁ〜」


佑賢が気持ちを切り替える時間を作ったつもりだった。

建物の角を曲がり、彼がこちらを見るその顔にいつもの熱があるようにと祈りながら、目をやる。


けれども佑賢は変わっていなかった。

呼ぶ声にも、自分の存在にも気づいているはずなのに、無を宿した横顔はこちらを見すらしない。


「……いた」


もっと明るく絡みに行くつもりだったのに、声は全く弾まなかった。ポツンと落ちたゴンの低い声に、佑賢がやっと首を回す。


「あぁ、なに」


短い煙草を咥えたままの歯切れの悪い声だった。

距離を詰めてもしゃがんだまま動こうとしない。

間近で見る佑賢は、痛々しかった。

幸助と櫂がどうにかなる場面なんてこれまでいくつも見送ってきたはずなのに、今日はやけにしっかり傷ついてるなと、ゴンは目を見張った。


咄嗟に伸ばした手で、佑賢の口から煙草を取り上げる。

佑賢はされるがまま煙草を離し、相変わらずの能面でゴンを見上げる。

奪った煙草を一度は口元に持ち上げたが、なんだか堪らなくなってやめた。足元に雑に落とすと強めに踏み躙ってやる。


「……吸うなら喫煙所で吸えって、いつもお前が言ってる言葉だろ」


御し切れない感情が声に乗ってしまった。

自分が怒っていることをやっと自覚したゴンは、腹を決めて佑賢を見下ろす。だが佑賢は少し表情を崩し、口角をわずかに持ち上げて見せた。


「悪ぃ、うっかりしてたわ」


その薄笑いに、怒りが増幅していく。胸ぐらでも掴んでやりたい気分だったが、どうせ暖簾に腕押しだと思い直した。

せめて威嚇するように、隣にどかりと座り込む。

砂利の上に胡座をかき、佑賢が見上げていた方に目を向けるが、濃い夜空があるだけだ。

無性に煙草が吸いたくなったが、今自分で言った手前何もできない。

口寂しさを紛らわそうとポケットの板ガムを取り出したところで、不意に佑賢が口を開いた。


「……好きだって、言ったよ」


息を呑んで隣を見た。佑賢は正面を見据えたまま、曖昧な笑みで続けた。


「多分、幸助には聞こえてない。でも言った。言ってやったんだ、よりによってワンマンライブ中のステージの上で」


ゴンが言葉を失っている間に、佑賢は両手で顔を覆ってしまった。

照れ隠しか、嘆きか、どちらとも取れる仕草のままくぐもった声が言う。


「大好きだった、って、言った。初めて口に出した。なんかもう、全身が木っ端微塵になってさ、爆発四散したような気分だったわ」

「待て、ライブ中? いつだよ」


やっとのことで声を絞り出すと、佑賢は両手の中でニヤリと笑ったようだった。まるでしてやったりと言わんばかりの声が、曲名を告げる。


「《怪獣のバラッド》の前。幸助がMCする直前、目があったから」


幸助が私情100%で挑んだMCと新曲。

櫂を想って作った、櫂に捧げるラブソング。

幸助の想いが全て詰まったその曲を歌う直前に、佑賢もまた、長年募らせた感情を口にしていた。

たくさんの想いを載せて口にした、口パクだけの「大好きだった」は、残念ながら幸助には届いていない。

興奮状態にあった幸助に読唇術は備わっておらず、佑賢の言葉は幸助によって勝手に「大丈夫だよ」に解釈され、受け取られた。


「……何、してんのお前」


声と共に口元が歪んだ。なんで俺が泣きそうになってんだと、ゴンは咄嗟に顔を背けた。


「何って……まぁ、簡単に言えば失恋ってやつ」


佑賢の声が追いかけてくる。随分と乾いた声だ。

顔を覆うのをやめたのか、抑圧のないそのままの声が続ける。


「俺の恋はここで終わり。そのけじめみたいなもんだよ」


あえて届かないタイミングで口にした告白は、佑賢の最後の自殺行為だ。

ずっと殺し続けてきた感情に、真正面からとどめをさし、佑賢は長い片想いを終えた。

冷えた横顔が見ていたのは、自ら切り離した棺の末路。

ずっと自分と共にあった感情に、佑賢はとても静かに、死んだように静かに、さよならを告げたのだ。


ぐちゃり、という汚い音を聞いた気がした。

それはゴンの内側で醜く響き、見れば真っ黄色の膿のようなものが溢れていた。

美しかった均衡が崩れたのだと理解した。

どこを覗き込んでも、綺麗な万華鏡はもう見られない。

棺を見送る葬列のように、白と黒しかない寂しい景色だ。

それはゴンにとって、この世で一番落ち着かず、気に食わない色。


「……いいんだな、それで」


絞り出した静かな問いに、佑賢は「うん」とだけ応えた。

珍しくどこか子供じみた、甘えた声に聴こえてしまって、ゴンは衝動的に手にした板ガムをポケットに突っ込んだ。

再び取り出した片手に握られていたのは、ライター。


「煙草くれ」


そう言うと、佑賢は素直に小さな箱を取り出した。

細いくせにニコチンは強い、凶器みたいな銘柄。

一本もらうと口に咥え、ライターを差し出した。火を点けながら言ってやる。


「ほい、火葬」


日本じゃ死体は燃やすもんだろ。そう続けたら、佑賢は小さく笑ってから煙草を咥えた。

一つの火に、二本の煙草が集う。わずか一秒の火葬だった。


「ちゃんと死んだか?」


煙を吐きながら確認する。佑賢も今度はしっかり煙を吸い込み、気持ちよさそうに吐き出した。


「大丈夫。長いことかかったけど、今度こそちゃんと仕留めた」


その横顔をまじまじと見つめてしまう。

相変わらず肌は青白く、造詣はどこまでも美しい。


「なら、幸助が目の前で櫂とキスしても動揺しないか?」

「それは動揺するだろ。バンドメンバーのキスシーンなんかそうそう見ねぇし」

「飲み会で酔っ払って〜とかあるかもしれねぇだろ」

「だとしても別の意味で動揺するわ。ALLTERRAオルテラの事務所から怒られねぇかなとかさ」


ゆるゆると笑う佑賢の横顔に、また怒りのような衝動がこみあげる。


「聞き方間違えたわ」


そう吐き捨てるように言ってから、ゴンは佑賢の顔を覗き込み、聞いた。


「……幸助が櫂の隣で幸せそうに笑ってても、お前は傷つかないか?」


目があって、冷えた瞳を注視する。

震えもせず、瞼の裏に逃げもせず、佑賢の瞳は静かにゴンを見つめ返す。


「傷つかないよ。もう死んだんだから」


その答えに動揺したのも、傷ついたのも、自分だった。

それに気がついたゴンは黙って身を引き、煙草に意識を逃した。


佑賢は肉体を失った。彼はしばらく空っぽだろう。

それがPinkertonというバンドにどう影響を及ぼすか、想像すると少し恐ろしい。

バンドの肝である幸助だって、今は幸せの絶頂だろうが来年の夏あたりにはどうなっているかわからない。


均衡が崩れた今、絶対大丈夫なことは何ひとつない。

でもゴンは、Pinkertonというバンドが好きだった。

波はあっても、形が歪でも、どうにかこうにかこのままずっと、一緒に音楽をやれないか。

一緒に音楽を続けていくために、自分にできることは何か。


ずっと引きずっていた棺を振り返る。

一度は殺したそこにある想いを、いよいよ利用する時が来たのかもしれない。

蓋を開ける時が、来たのかもしれない。


「……本当に、幸助に伝えなくていいんだな?」


念押しでそう問いかけると、佑賢は真顔で頷いた。


「あぁ、一生言うつもりはない。墓場まで持っていく。だから、ゴンも口滑らしたりすんなよ」


最後は語尾が鋭かった。しっかり釘を刺されたゴンは、しかし頷くことも笑うこともしなかった。

煙草を摘んで足元で詰る。佑賢は怪訝な顔でこちらを見てくる。


「黙るな。絶っ対言うなよ。幸助が俺の気持ちを知ったとしても、俺もあいつも、誰も幸せにならないんだからな」

「わかってるよ」


わかってるとも。心の中で繰り返し、深く息を吐く。


「じゃあなんだよ」


佑賢が食ってかかってくるのが、少しだけ心地よかった。

無駄に首なんか鳴らしたりしてから、ぽつんと言ってやる。


「あー、俺の気持ちはどうしよっかな〜って」

「ゴンの気持ちって?」


目があった。

モノクロの瞳と肌と髪。あぁいやだいやだ。

俺はもっと、極彩色でめちゃくちゃでやかましいのがいい。

失恋して、空っぽになって、抜け殻のまま笑うモノクロのお前なんか見たくねぇのよ。


だから今度は俺が、お前をめちゃくちゃにしてやる。

極彩色のペンキをぶちまけて、空っぽになったお前を塗りつぶしてやる。


平川佑賢ひらかわゆたかという男は、恋に乱れていてこそ美しい。

不毛な恋に乱れる美しいお前を、俺は好きになったんだ。


煙草を持つ手首を緩く捕まえて、迷いなく唇を重ねた。

煙草の味しかしなかった。薄い唇はあまり気持ち良くもなかったけれど、一度しっかり啄んでから、わざと音を立てて離れた。


次に覗き込んだ佑賢の瞳は、盛大に揺れていた。

冷えていない目だった。衝撃、疑問、困惑、動揺。画数の多い小難しい熟語がぐるぐる渦巻いてそうな目だった。


それが見たかったんだと、ゴンは内心ほくそ笑んだ。

内心のつもりだったが、普通に笑ってしまっていた。


笑みだけ残して立ち上がり、ゴンは佑賢に背を向けた。

問いただされても何も言うつもりはなかったが、佑賢は何も言ってはこなかった。

一旦持ち帰る、ということだろう。

それならそれでいい。次に顔を合わせる時まで、存分に乱れていてくれ。

ここから俺たちがどうなるかは、お前次第だ。



冷えた冬の夜空に、ぽっかりと満月が浮かぶ。

その青白い円を勝手に多色で塗りつぶして、ゴンは満ち足りた吐息を吐き出した。



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