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63:世界の色を塗り替えた日

11月の夜、湾岸部の海風の中で半袖はさすがに寒かった。

キャップを目深に被り、身震いを一つしてから軽く走り出す。


ライブ終了からわずか一時間足らずで、幸助はライブハウスを飛び出していた。持ち物はスマホだけ。上着を着られなかったのは、スタッフに黙って打ち上げを抜け出してきたからだ。


肌を撫でる外気は冷たかったが、幸助の中の熱はまだ冷めずに残っていた。

2時間ぶっ通しで歌い暴れていたはずなのに疲労も感じない。

どこまでも行けそうな足で向かうのは、夏に櫂を待ちぼうけた公園。


《待ってる》というメッセージを受け取ったのは10分ほど前だ。

さほど待たせてはいないが、会いたい気持ちは何にも勝る。

ジョグ程度のスピードはいつしか本気の走りに変わり、公園に駆け込む頃には寒さなど少しも感じなくなっていた。


かいのメッセージには、《ファンに見つかるといけないから林の中に隠れてる》と添えてあった。

幸助も少し警戒しながら林の中へと踏み込んだが、誰かに見られるどころか周囲に人の気配が全くない。

今日の出待ちの数も、ALLTERRAオルテラの時にゴンが目撃した情報からしたら微々たるものだった。

季節という違いもあるが、やはりまだまだPinkertonピンカートンはALLTERRAまで届いていない。静かなライブハウス周辺に感じた悔しさは、今日の色々な反省と共に飲み込んでおく。


林の中は、風除けのおかげか寒さを感じなかった。

木々の間を縫って進みながら、あの夏の日を思い出す。


あの時は、櫂と手を握っているという事態を咀嚼するのに必死で、周囲の様子など全く目に入っていなかった。とにかく薄暗かったという印象しか覚えていないのだが、今夜はさほど気にならない。

なぜだろう、と思いながら周囲を見渡したところで、理由に気がついた。

今夜は月が出ている。

冬の澄んだ空に煌々と照る、満月だ。

高く枝を伸ばした木々の間からもよく見える。

これならきっと櫂を見つけるのも容易だろう。なんて考えていたら、幸助の耳に聴き慣れたメロディが飛び込んできた。

慌てて音の方へ足を進めると、木々の間に見つけた。


あの日二人で隠れた大きな木の幹に寄りかかって、櫂は鼻歌を口ずさんでいた。

ライブで初披露した新曲怪獣のバラッドのサビ部分だ。

少しおぼつかない様子で、同じメロディを繰り返している。


その様子は幸助にも身に覚えがあった。

ライブ初披露の新曲が最高だった時、幸助もライブ直後に鼻歌でメロディをなぞり、記憶を呼び起こしていた。

リリースまで時間がかかる。次はいつ聴けるかわからない。

けどどうにかもう一度聴きたいから、自分の記憶に頼るしかないという必死の衝動。

月明かりに照らされた櫂の表情は、とても真剣だった。

記憶を辿るその懸命な姿に、幸助は胸の奥が苦しくなるのを感じた。

届けと念じながら歌った歌が、ちゃんと届いた。

口ずさむほど気に入ってくれているようだ。

それだけでもう、愛しさが溢れて止まらない。


急く心が足を動かす。無我夢中でキャップを脱いだ。

櫂が鼻歌をやめてこちらを見る。

その表情が何故か泣きそうに崩れたから、幸助は足を早めた。


その口が何かを言うより早く手を伸ばす。

その目から涙が溢れるより早く引き寄せる。


冷えた唇に体当たりのようなキスをぶつけた。

一拍遅れて感触が脳に届くと、いよいよ自制が効かなくなった。

何度も喰んだ唇はすぐに熱を持った。

もっと深く追いかけたら苦しそうな吐息が返ってきた。

アドレナリンの分泌音が聞こえるぐらい、脳が沸騰している。

そんな自分を冷静に見ている自分が、いつぞやにゴンと『ライブ後は性欲が増すよな』と話した事を思い出す。


あぁ、そうか、なるほど。幸助はふとキスを止めた。


蘇るあの夏の夜。

薄闇の中で、櫂からの突然のキスに頭が真っ白になったあの瞬間。


あの時の櫂も、興奮していたのだ。

自分とは違いずっと我慢していて、でも我慢できなくなって、妙な理由をつけて踏み切ってしまったのだ。

あぁなんだ、そういうことか。数ヶ月経っての納得は、何故か少し笑えてしまった。


「……ビールの味」


笑う幸助に眉を顰めて、櫂は小さくつぶやいた。

情熱的な長いキスの直後にしてはどこか不服そうだ。

声に滲んだ抗議の色に気がついて、幸助は慌てて一歩距離をとる。


「あ、ごめん。打ち上げ抜けてきたところだから、乾杯の一本飲み干したばっかで」


頭から熱が引いていく。

今更ながら、興奮を丸出しにしてしまった事に恥ずかしさが湧いてきた。

赤くなっているだろう顔を片手で覆ってみても、やけに明るい月は何も隠してはくれない。


「初日打ち上げ抜け出すなんて、最低なフロントマンだ」

「え? いや、リーダー置いてきたから大丈夫!」

「幸助くんなら居ないのなんかす〜ぐバレるよ」

「平気だって! メンバーは俺が抜け出してるの知ってるし、多分トイレで寝てるとか言い訳してくれてるからさ」


低く小さく「ふぅん」と唸って、櫂は視線を下にそらした。

声も言葉もトゲがある。

向かい合って話しながら、目はなかなか合わなかった。

ずっととんがった唇と、困ったように垂れた眉。


さっきまでの熱に浮かされた行為はどこへやら、櫂の前に何枚も透明の壁があるように感じた。

必死で幸助を遠ざけようとしているのがわかる。

櫂の中にある答えは、変わらずあの二択しかないのだろう。


でも今、こうしてここに来てくれたと言うことは、少しだけ期待もしている。

ライブ中に名前を呼ぶ行為は、おそらく櫂にとって初めての経験だった。

百回を超えるループの中で初めて聴いた曲も、櫂の心を変えようとしている。


「……ねぇ、《怪獣のバラッド》はさ、今度のアルバムに入るの?」


顔も上げずにそう切り出した櫂は、拗ねたような表情で答えを待っていた。

幸助が肯定すると、眉をひそめさらに声が低くなる。


「でもアルバムって出るの年明けだよね。そこまで我慢できる気がしないんだけど。明日音源送ってほしいくらい」


怒りすら滲ませた言い方の割に、言葉はよくSNSで見かけるファンのそれだ。ちぐはぐな様子が可愛く思えて、幸助はつい笑ってしまった。


「気に入った?」


喜びをあらわにしたら、櫂の顔がより一層険しくなった。

幸助の緩んだ顔を一瞥して、ため息まじりに一息で答える。


「……ほんと、悔しいくらい名曲。どうしてそう毎回毎回いい曲書けるんだろう。俺もう何度も何度もPinkertonのワンマンツアー初日見てるのにさ、新曲ですって歌う曲が毎回良すぎるんだよ。でも今回のが一番良かった。過去何十回の中でダントツ。あんな内容の曲は初めてだったから驚きすぎて途中まで歌詞が右から左に抜けちゃって。あぁ〜もう悔しい、あとで歌詞だけテキストでちょうだい。っていうかそうだよ、今歌ってここで! はい!」


早口で勢いよく捲し立てる櫂を、久しぶりに見た。

彼がこうなる時はほぼ毎回、Pinkertonか幸助を褒める時だ。

憮然とした顔で不愉快バリアを張ってはいるものの、その奥にいる櫂自身は変わっていない。

ファミレスで出会った時のまま、Pinkertonのオタクのままだ。


それが嬉しくて、幸助はつい満面の笑みを浮かべてしまった。

櫂に睨まれても、頭を掻きながらあっけらかんと言う。


「いや、その……嬉しいんだけど、ここではさ、恥ずかしいし」

「さっきあんな大勢の前で歌ったのに? 俺の前では歌えないっての?」

「うわ、それもうヤクザのセリフじゃん。ドーカツだ、ドーカツ」

「恫喝ってどう書くか漢字も知らない癖に」

「あ、韻踏んでる。さすが作詞の先生」


じゃれあうような会話が嬉しくて、つい茶化してしまった。

しかし、櫂から返答はない。一度開けた口を閉じて、顔ごとそっぽを向いてしまう。

その子供みたいな横顔がやっぱりどうしようもなく愛おしくて、幸助は手を伸ばした。


「……今夜は月が明るいから、何も隠せないよ」


ちょっと笑いそうになって慌てて奥歯を噛んだ、そのわかりやすい頬を指で突いてみる。

ふわりとマシュマロのように柔らかいそこを摘んでみたら、手で払われてしまった。

不満の色を濃くして黙り込む様子は、駄々をこねている小さい子のよう。

つい庇護欲のようなものをくすぐられてしまったが、可愛がりたい気持ちをグッとこらえて姿勢を正す。


「……歌よりもさ。ここでは、歌詞にのせられなかったもうちょい具体的なことを、色々伝えたいと言いますか」


探るように切り出したら、案の定櫂の纏う空気が変わった。

怯えているのか、完全に俯いてしまう。


自分の語彙力じゃうまく伝えられる気がしないから、少し時間がかかってしまうだろう。櫂がこんな調子で、最後まで大人しく聞いてくれるだろうかと不安になる。

せめて自分の安心と安定のために、と幸助はそっと片手を持ち上げた。

上着の裾を握る右手に指先でそっと触れてみる。

最初は一瞬、次は少し長く。

そうして逃げられないことを確認したら、指を滑り込ませて拘束してしまう。


手を繋いだらもう、大丈夫だ。逃がさない。逃げない。

最後の一言まで全て、余すところなく伝えるつもりで、幸助はそっと口を開いた。


「聞いて、俺の答え。この一ヶ月間、ずっと考えてたんだ」


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