結婚が決まったその日から、リーゼロッテはこれまで以上に気持ちを隠して生活していた。
結婚のための準備は着々と進められており、本来であれば楽しいはずのその時間も、相手によっては苦痛の時間でしかないということを、思い知った。
そんな苦痛の中で、たった一つだけリーゼロッテにとって救いとなったのが、魔法の練習時間がなくなったこと。バルタザールが忙しくなったのか、それとも他の家に嫁ぎ、王家から離れる者に興味はないのか、毎月決まって行われていたあの時間に終止符が打たれる。
ベルンハルトはあの日あのまま領地へ帰ってしまったようで、その後は音沙汰もない。次に会うのは、婚約披露のパーティーだと、つい先日侍女から伝え聞いた。
自分の将来の行く末に、何の希望も見いだせないまま、リーゼロッテはただぼんやりと日々を消化していた。
「リーゼロッテ様。お美しいですよ」
ドレスを着せて、髪の毛を整えてくれた侍女が、本音かお世辞かわからない言葉を口にする。婚約披露のその日に、褒め言葉以外を口にする使用人などいるはずもない。
決まり文句のような言葉に、笑顔を返すと、満足気な顔をしながら侍女が部屋から出て行った。
目の前の鏡に写っているのは、ベルンハルトを含む大勢の貴族に見せるために整えられた自分。まるで別人のように飾り立てられた自分の顔を見ながら、リーゼロッテは苦笑いが堪えきれない。
(あなた、誰よ。上手く化けたものだわ)
鏡の奥の自分にそんな悪態をつきながら、これから始まる見せものに、気が重い。本心は逃げ出したくてたまらない。
バルタザールの叱責から逃げるように、魔法の練習部屋から出ていく時のように、人の目を盗んで温室までいけないかしら。そんな風に思ってから、大きく首を振った。
さすがにそんな真似はできない。自分だけならともかく、そんなことをすれば関係のないベルンハルトにまで、恥をかかせることになる。
婚約が決まってから、リーゼロッテはベルンハルトのことを調べ始めた。いくら興味がないとは言っても、自分の結婚相手となる人のことを何も知らないというのは、あまりにも情けない。
噂好きな使用人たち、国立学院の同級生。リーゼロッテの使える手段を駆使して、ベルンハルトのことを知ろうとした。
その結果、ベルンハルトに恥をかかせられないと、今日と結婚式当日だけは何が起きても成功させようと、そう固く誓っていた。
ベルンハルト・ロイエンタール伯爵。王都シュレンタットからは遠く離れた辺境地を治める辺境伯。
そして、代々龍を率いることのできるロイエンタール家の当主。その証拠にあざがあり、それを隠すために仮面をつけているらしい。
そして、あざがあることで、周りの貴族たちからは遠巻きに見られている。そのことを知ってほんの少しだけ、魔法が使えないことで蔑まれている自分に似ているのではないかと、親近感が湧いた。
リーゼロッテがベルンハルトについて知り得た情報はこれだけだが、それは十分にリーゼロッテの行動を控えさせた。ただでさえ遠巻きに見られているベルンハルトに、更なる傷はつけられない。
あの晩、温室でバルタザールから庇ってくれた恩を、周りから見下されてる自分と普通に話してくれた感謝を、リーゼロッテは今でも深く感じていた。
鏡に向かって、様々な思いを反芻しているうちに、誰かがドアをノックする音が聞こえる。
「リーゼロッテ様。ロイエンタール伯爵がお見えです」
「通してください」
ベルンハルトのことを考えていただなんて、そんな素振り見せる様子もなく、リーゼロッテは冷静を装って、部屋を訪ねてきたベルンハルトを迎え入れた。
「リ、リーゼロッテ王女。準備は、い、いかがでしょうか?」
「ロイエンタール伯爵。お待たせして申し訳ありません。先程、整いました」
先日のバルタザールの部屋で見た時のベルンハルトはどこへ行ったのだろうか。温室で声を交わした時のような、つっかえつっかえの会話に、何故だか愛しさが込み上げる。
椅子から立ち上がり、ベルンハルトの側に寄っていけば、耳が赤く染まっていくのが目に入る。
「お、お美しいです」
「ありがとうございます。ロイエンタール伯爵も素敵です」
そう微笑みかければ、耳が更に赤くなっていったのがわかる。
バルタザール相手に物おじすることなく話をしていたベルンハルトと、今こうしてリーゼロッテの目の前にいるベルンハルト、どちらが本当の姿なのだろうか。
その姿を見ているだけで、興味を失った自分の人生が、ほんの少し楽しいものになりそうな予感を感じていた。