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冷たい夫のはずが…政略結婚から始まる溺愛の行方
冷たい夫のはずが…政略結婚から始まる溺愛の行方
ゆる
異世界恋愛ロマファン
2025年05月25日
公開日
4.6万字
完結済
「関わらない。それが条件だ」 冷酷と名高い公爵家の次男・リオネルと、政略結婚させられた伯爵令嬢カリエラ。 初めから夫婦らしさのかけらもない結婚生活。義母と義姉からは嫌がらせ、夫には冷たい視線―― けれどカリエラは、気高く、優雅に、孤独な日々を乗り越えてゆく。 しかしある夜、彼女を助けるように現れたのは、あの冷たい夫だった。 「私の妻だ」――その一言から、二人の関係が少しずつ変わり始める。 やがて明かされる家族の陰謀。 義姉の嫉妬、義母の支配、そして――兄の罠。 愛を試すように、数々の罠がカリエラに迫る中、彼女は毅然と立ち向かう。 「おまえを守る。それが俺の役目だ」 「わたくしも、あなたを信じています」 冷酷だった夫が、今では“妻を愛しすぎる公爵”と呼ばれるほどに―― ざまぁも溺愛もたっぷり詰め込んだ、逆転ラブストーリー開幕! -

第1話 不本意な婚約



 伯爵家の令嬢であるカリエラ・ド・サントールは、父である伯爵の執務室に呼び出されてからというもの、何か胸騒ぎを覚えていた。父の部屋の扉をノックし、許可の声を聞いてから中に足を踏み入れると、そこには険しい表情を浮かべた伯爵――カリエラの父が、机の上に書類を積み上げたまま待ち構えている。部屋を満たす重苦しい空気に、カリエラは一瞬呼吸を忘れそうになった。


「お呼びでしょうか、父様」


 なるべく柔らかい声で訊ねる。いつもなら娘を迎え入れるときにも多少は緩みがちだった父の表情は、今日に限ってはまったく変化を見せない。その冷ややかな態度に、不安はますます募るばかりだった。

 父は書類の山から一枚の紙を取り出し、音もなく手元に寄せた。それは明らかに契約書のように見える、細かな文字が並んだ公文書だ。


「カリエラ、急な話だが、お前の婚約が決まった」

「……婚約、ですか?」


 まったく聞かされていなかった話に、カリエラは思わず声を詰まらせる。婚約。たしかに貴族社会では、結婚は一族の繁栄や家名の維持において重要な役目を果たす。特に伯爵家ともなれば、娘の結婚相手はそれなりの相手である必要があり、家同士の利害も強く絡む。だが、まさかこんな唐突に話を切り出されるとは思いもしなかった。

 父はペンで書類をトントンと叩きながら、淡々と言い放つ。


「お前の相手は公爵家の次男、リオネル・グランディオス閣下だ」


 リオネル・グランディオス――その名に、カリエラの胸はさらに強く締め付けられる。貴族社会で噂の絶えない人物であり、「冷酷」「無慈悲」と評判の高い公爵家の次男。公の場での愛想がまったくなく、社交界で舞踏会に現れても必要最低限の挨拶しか交わさないとか。女性に対しても興味がないようで、一度すれ違えば冷たい眼差しだけを残して通り過ぎるなどという噂まで耳にしていた。

 その「氷の貴公子」と呼ばれる男が、自分の婚約者になる――。にわかには信じられない思いで、カリエラは父の顔をじっと見つめる。


「どうして……そのような急に……」

「公爵家から正式に話があった。リオネル閣下の結婚相手として、我が家の娘を迎えたいと。……いいか、カリエラ。これは我がサントール伯爵家にとって、絶好の機会なのだ。公爵家と繋がりができれば、我が家の地位はさらなる安泰を得る」


 父の瞳には確固たる意志が宿っている。娘の意思を尋ねるというよりは、一方的な通達――まさに「お前は嫁げ」という命令の言葉だった。伯爵家の立場を揺るぎないものとし、さらに影響力を高めたい。そのためには公爵家との縁組は願ってもない好機なのだろう。

 しかし、カリエラにとっては、この婚約はただの政略結婚に他ならない。想いを寄せていた相手がいたわけではないが、それでも一生を共にする伴侶を、自分の意志とは関係なく決められてしまうのはつらいことだった。


「……わかりました。父様の決めたことに、逆らうつもりはありません」


 カリエラは静かに目を伏せて答えた。どんなに拒否したところで、彼女には決定権はない。娘の幸せより家名を優先するのが貴族の常識であり、ましてや父の望みは絶対だった。

 そんな娘の姿に満足したのか、父はわずかに口元を緩ませる。


「カリエラ、お前ならばきっと大丈夫だ。公爵家に嫁いだ後は、我がサントール家の誇りとして恥ずかしくないよう、努めてくれ」

「はい……」


 それ以上何も言えず、カリエラはそっと頭を下げた。うつむいた視線の先では、絨毯の織模様がぼんやりと歪んで見える。これからどうなるのか――彼女はただ、不安に押しつぶされそうになる気持ちを必死にこらえるしかなかった。



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結婚式と初対面


 それから日々は慌ただしく過ぎていき、カリエラの嫁入り支度が一気に進められた。ドレスの仕立てや宝飾品の用意、嫁入り道具の運搬など、伯爵家のメイドたちは総動員で準備を進める。カリエラは自分の意思などまるで置き去りにされたまま、その渦中に立ち尽くしていた。

 そして数週間後、結婚式当日。朝早くから宮廷の仕立て師がやってきて、カリエラに純白のドレスを着せ、髪を美しく結い上げる。大きな鏡に映る自分の姿はまるで人形のようで、実感がわいてこない。

 教会に着くと、厳粛な空気に包まれた広い聖堂のバージンロードを、父の腕を借りて歩き始めた。花嫁として多くの目が自分を見ている。だが、その視線の先には、新郎として立つ男――リオネル・グランディオスの表情が、まるで氷の面のように冷ややかに凍り付いたままであることがはっきりとわかった。

 リオネルは背が高く、金褐色の髪と深い青色の瞳を持つ端整な容貌の持ち主だ。しかし、どれほど美形であっても、そのまるで彫像のような冷たい雰囲気には、一切の温かみを感じられない。無機質さをはらんだ瞳がカリエラを一瞥すると、すぐにまた前を向く。

 司祭の厳かな声が響き、結婚の誓いを交わすときが訪れた。リオネルは形だけ手を差し出し、カリエラは震えそうになる指をこらえながら、そっとその手を取る。体温を感じるはずなのに、その手は冷たい石のようだとさえ思えた。

 やがて指輪の交換を終え、二人は晴れて夫婦となる。周囲は拍手をもって祝福するが、リオネルの表情は微動だにしない。その姿に、不安と不満とがない交ぜになった感情が、カリエラの胸をキリキリと締め付けた。



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公爵家の屋敷へ


 結婚式が終わるや否や、カリエラはリオネルとともに馬車へ乗せられ、公爵家の広大な屋敷へ向かった。伯爵家からはわずかな荷物とともに数名の侍女が同行し、彼女を支えることになっているが、その道中もリオネルはほとんど口を開かない。

 時折、彼の横顔をそっと盗み見るカリエラだったが、「何か話しかけるべきか」と逡巡している間に、結局会話は生まれないまま、馬車は揺られ続けた。


 公爵家の屋敷は、伯爵家のそれを遥かに凌ぐ壮麗さだった。広大な庭と噴水、まるで城のような意匠を凝らした外観、数えきれないほどの窓やバルコニー。そこは「新しい生活を送る家」というよりも、カリエラにとっては「巨大すぎる檻」のようにも見えた。

 門をくぐり、馬車を降りると、待ち構えていた使用人たちがずらりと並び、一斉に礼を取る。その中心には、公爵家の当主であるリオネルの父――すなわち現公爵が妻(リオネルの母)と共に立っていた。母親の隣には義姉と呼ぶべき女性――エリザベス・グランディオスの姿も見える。

 当主である公爵は息子夫婦に目を向けて静かにうなずき、「よく来たな」と一言だけ告げる。公爵夫人はにこやかながらもどこか冷えた笑みを浮かべており、なんとも言えない緊張感が走った。


「本日より、リオネルの妻として当家の一員となるカリエラだ。よろしく頼む」


 リオネルはそう言いながら使用人たちに視線を走らせるが、その声にも表情にも、妻への優しい気遣いは見られない。ただ形式的に紹介を済ませただけ――そう感じられる無機質な態度だった。

 使用人たちは一斉に頭を下げ、「奥様、どうぞよろしくお願いいたします」と口々に挨拶する。カリエラはせめてもの笑顔を返しながら、心の中でやはり不安を拭えないままでいた。



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「必要以上に関わらないでくれ」


 その夜。形式的な夕食を終えたのち、二人の寝室として割り当てられた部屋へとカリエラは通された。通常、初夜は夫婦が同じ部屋を共有するものだが、リオネルはその部屋の扉を開けるや否や、硬い口調で言い放つ。


「今日から夫婦とはいえ、私はお前と特別親しくするつもりはない。必要以上に私に関わらないでくれ」


 初日からあまりにストレートな拒絶の言葉を突きつけられ、カリエラは茫然とする。むしろ、この結婚に乗り気でないのは自分も同じはずだ。けれど、だからといってこんなにも露骨に突き放されるのは想定外だった。

 リオネルは部屋の奥のソファに腰を下ろし、夜会服の上着を無造作に脱ぎ捨てて続ける。


「政略結婚であることはお前も承知だろう。我々は表向き夫婦の体裁をとりつつ、それ以上の干渉は不要だ。少なくとも、私は誰かと馴れ合う気はない」

「……はい」


 それが彼の本心なのだろう。冷たく、剣のように鋭い瞳で見下ろされ、カリエラは苦しいほどの緊張を覚えながら、それ以上言葉を返すことができなかった。

 リオネルはそのままソファから立ち上がり、「お前は好きに休め。私は別の部屋で寝る」とだけ言い残して扉を開ける。彼が出ていったあとの部屋には、広すぎるほどの空間と静寂だけが残された。

 カリエラは立ち尽くしたまま、ベッドのほうへ視線を向ける。嫁入り支度として用意してもらった豪華なベッドには、柔らかなシーツとクッションが並んでいたが、あまりの空虚さに息が詰まりそうだった。



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孤独な日々の始まり


 こうして始まった結婚生活は、カリエラにとって孤独そのものだった。リオネルは朝食の時間ですら顔を合わせることが少なく、屋敷のどこかで一人仕事をしていたり、あるいは外出していることが多い。仮に食卓を同じくしても、ほとんど口を開かずに食事を済ませ、さっさと立ち去ってしまう。

 話しかけようと勇気を出して声をかけても、「ああ」とか「そうか」といった短い返答だけ。夫婦なのに、まるで赤の他人よりも遠い距離を感じた。

 しかし、カリエラはめげずに自分の存在をアピールしようと考えた。自分には伯爵家でしっかりと学んできた教養がある。礼儀作法や歴史、政治経済の基礎も、家庭教師に叩き込まれてきた。さらに、音楽や絵画といった芸術分野にも一定の素養を持っている。政略結婚とはいえ、公爵家の嫁として恥ずかしくないよう努力しなければ――そう思ったのだ。

 幸い、使用人やメイドたちは最初こそ警戒の眼差しを向けていたが、カリエラの穏やかな言葉遣いと優しい対応に次第に心を開き始めた。


「今日もお美しいですね、奥様」

「ありがとうございます。あなたのような有能な方に手伝っていただけるおかげで、わたくしも助かっていますわ」


 メイドたちが失敗しても怒らず、丁寧にフォローし、ときには一緒に掃除や片付けを手伝うこともあった。貴族の令嬢がそんなことをするのは珍しいが、カリエラにとっては当然のことだった。どんなに心を閉ざされても、彼女は常に笑顔を忘れないように努めていた。孤独を紛らわすためにも、誰かの役に立てるのならば、それだけでも救いになると思えたのだ。



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義母と義姉の冷たい視線


 ところが、公爵家にはカリエラを快く思わない存在が少なからずいた。中でも、義母である公爵夫人と、義姉のエリザベスはなかなか手厳しかった。

 ある日、食事の席で、義母がわざとらしく口を開く。


「カリエラ……あなたは伯爵家の令嬢というのに、やけに使用人どもと親しく振る舞っているそうですわね。奥様としての品位が疑われますことよ」


 まるで針のあるような視線を向けられ、カリエラはぎこちなく微笑みを返す。隣に座るリオネルは相変わらず視線を落としたまま何も言わない。義母の言い分に反論する気はないのだろうか。

 カリエラは丁寧に言葉を返した。


「おっしゃることはごもっともです。しかし、わたくしのような若輩者が、メイドや使用人の皆さまの業務を正しく理解していくためには、まず彼らとの距離を縮めることが必要だと考えております。無理のない範囲で協力し合えれば、公爵家にもメリットがあるのではないでしょうか」


 穏やかだがはっきりと主張するカリエラの言葉に、公爵夫人は鼻を鳴らすだけだった。


「お前がどこまでできるかは知らないが……まあ、好きにすればいいわ」


 その冷たい目には「余計なことを」と言わんばかりの色が宿っている。義姉エリザベスにいたっては、「下賤の者たちと親しくするなんて品がないわ」と呟くように吐き捨てる。

 居心地の悪い空気の中でも、カリエラは努めて穏やかに振る舞い続けた。リオネルからは何の援護も得られないと分かっているからこそ、自分で自分を守らなければならない。



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義姉の嫌がらせ


 エリザベスによるカリエラへの嫌がらせは、日を追うごとに巧妙化していった。たとえば、カリエラが庭の花を手入れしている間に、わざと鉢を倒して「奥様の管理が悪いから枯れてしまったのではありませんの?」と大声で騒ぎ立てる。その騒ぎを聞きつけた周囲の使用人たちが駆けつけると、さもカリエラが粗相をしたかのように話を盛り立てるのだ。

 しかし、カリエラは動じなかった。


「エリザベス様、もし管理の仕方に不行き届きがあったのなら、どうぞご助言いただけますか? わたくし、まだこちらの庭の植物には不慣れなもので……」


 謙虚かつ柔らかい口調で、しかも誰も責めることなく問いかける。そのうえで、使用人たちに「ご迷惑をかけてごめんなさい。あなた方のお仕事の手を煩わせてしまいましたね」と謝罪までして回る。

 これにはさすがのエリザベスも言葉に詰まり、「あ、あなたが反省しているならよろしいのだけれど……」と濁すしかなかった。なぜなら、周囲からは「どう考えても奥様は悪くないのでは?」という同情の視線が集まり始めていたからだ。


 こんなふうに、エリザベスの狙いはカリエラを貶めて失墜させることにあったが、かえってカリエラの穏やかな人柄が際立って、彼女への評価は上がるばかりだった。使用人たちは彼女を「優しい奥様」と慕い、メイド長などは「奥様は決して人を咎めない、立派なお方ですわね」とまで語るようになっていた。



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リオネルの無関心


 だが、そのような嫌がらせを受けつつも、カリエラの胸には別のわだかまりが大きく残っていた。それは、夫であるリオネルの態度にほかならない。

 家の中でカリエラがどんな扱いを受けても、リオネルは一切口を出さない。まるで妻がそこに存在していないかのように、屋敷で顔を合わせれば会釈をするだけで通り過ぎていく。エリザベスや義母が見ていないところでも、距離を縮めようとはしない。

 ある日の午後、カリエラは思い切ってリオネルの書斎を訪れた。ノックの音に彼の低い声が応じると、静かにドアを開けて中に入る。リオネルは執務机の前に座り、書類の山に埋もれるようにしてペンを走らせていた。

 その姿は集中しているというよりは、自ら周囲を遮断しているかのようにも見える。カリエラは少し緊張しながらも声をかける。


「あの、リオネル様……少しお時間を頂戴してもよろしいでしょうか」

「用件は」


 リオネルは書類から顔を上げたが、その表情は相変わらず冷たい。声も硬いままだ。カリエラは胸の奥がチクリと痛むのを感じながら、精一杯笑顔を作った。


「わたくし、こちらの屋敷のことをもっとよく知りたいと思っております。ずいぶん広いので、勝手に歩き回るのもあまりよろしくないでしょうし……もしよろしければ、リオネル様のお手の空いたときに、屋敷を案内していただけないかと……」


 まるで人形のような彼の表情が、一瞬だけ動揺したように見えた。とはいえ、彼はすぐに視線をそらし、ため息をつくように小さく息を吐く。


「……屋敷を案内してほしいのなら、使用人に言えばいいだろう。私よりも詳しいはずだ」

「そうなのですが、せっかく夫婦になりましたから……リオネル様と一緒に回れたら、と思ったのです」

「悪いが、忙しい。以上だ」


 その言葉で会話は終了だった。冷たい言い捨て方に、カリエラは何も言い返せなくなる。名目上の夫婦だということは百も承知だが、あまりにも壁が厚い。彼女は失意を抱えながら部屋を後にした。

 しかしながら、使用人たちと少しずつ仲良くなることで、カリエラはこの公爵家の屋敷の構造や日々の業務、さらには周辺領地の成り立ちなどを学んでいった。「夫の力を借りず、自分の足で歩もう」と心を決めるようになったのはこのころである。



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孤独に耐える決意


 夜、広すぎる寝室のベッドに横たわりながら、カリエラは天蓋越しに淡い月明かりを見つめる。隣には誰もいない。リオネルは結局、別の部屋で寝起きするようになり、夫婦なのに同じベッドで眠ることはない。

 政略結婚だとしても、せめてもう少し言葉を交わすことはできないのだろうか。愛情まで欲しいとは言わないが、無視され続けるのはやはりつらい。それでも結婚を引き受けたのは自分。もっと言えば、引き受けるしかなかったのだが――。

 ただ、考えてみれば、リオネルとてこの結婚に乗り気ではなかったのだろう。彼もまた、公爵家の次男として家の思惑に翻弄されているのかもしれない。もしかすると、「冷酷」と揶揄される態度にも、何かしらの理由があるのかもしれない。

 カリエラはそう思うと、わずかに彼を理解したいという気持ちも芽生え始める。しかし、当の本人が心を開く気配は皆無だ。だからこそ、この孤独を受け止めるには、まずは自分自身をしっかりと保たなければならない。


 彼女は目を閉じて、深呼吸をする。どんなに悲しくても、屋敷の人々の前では笑顔でいよう。義母や義姉にどんな嫌味を言われても受け流せるよう、強くなろう。リオネルが自分に目を向けてくれなくても、自分の人生は自分のもの。

 そうしてひとつ、またひとつ、カリエラは心の奥底に決意を重ねていった。まだ目の前は暗闇のようでも、いつかきっと、光が見える日が来ると信じたい――そう思いながら。



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新しい日常へ


 翌朝、カリエラはいつもより早く起きると、使用人が寝静まっている時間帯に屋敷の中庭へ向かった。そこには朝露をまとった花々が彩り鮮やかに咲き誇っている。冷たい空気を吸い込みながら、庭をゆっくりと散策するのは彼女なりの気晴らしでもあった。

 庭師の老人が、目ざとく彼女を見つけて笑顔を向ける。


「奥様、今朝は早いですね。おや、その手はどうされました? 少し汚れているようですが……」

「あ……すみません、ここに咲いている花を触っていたら、土が付いてしまいましたの」


 ドレスの袖を軽く払いながら、カリエラは照れ笑いを浮かべる。


「構いませんよ。奥様がこんな朝早くからお庭を見てくださるのは、わしら庭師にとっても嬉しいことです」

「わたくしのほうこそ、このお庭を大切に管理してくださる皆さまに感謝しています。季節ごとに違った花が咲くでしょうから、これから楽しみですわ」


 そう言って柔らかく微笑む彼女の姿に、庭師も感極まったように頭を下げる。カリエラの素直な人柄は、こうした小さな交流を通じて、屋敷中に少しずつ広まっていった。

 まるでリオネルの冷たさとは対極の、春の陽だまりのような温かさを周囲に感じさせるのがカリエラという存在なのだ――そう噂する使用人もいるほどだった。



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義母の計らい? お茶会の誘い


 やがて、少しずつ気温も暖かくなってきた頃、公爵夫人が突然、カリエラに声をかけた。


「カリエラ、明日のお昼ごろにでも、わたくしのお茶会に来なさい。エリザベスや、その友人も数名招く予定ですわ」


 義母からのお茶会の誘い。これまではカリエラをないがしろにしてきたというのに、急に誘いをかけてくるとは何か企んでいるのかもしれない――そう思いつつも、断る理由はない。

 カリエラは丁重に「喜んで伺わせていただきます」と返事をした。内心、どんな嫌味を受けるかと身構えていたが、この家で立場を築き上げるためには、公爵夫人やエリザベスに対しても毅然とした態度を示しつつ、同時に礼儀正しく接する必要がある。

 そして迎えたお茶会当日、彼女は落ち着いた水色のドレスを身にまとい、義母の用意したサロンへ向かった。そこにはエリザベスと、彼女の取り巻きと思しき貴族の令嬢たちが数名。義母は豪華なティーセットを前にして、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべている。


「まあ、よく来たわね、カリエラ。あなたのために気を利かせて、すてきなティータイムを用意したのよ」


 言葉の響きこそ優しげだが、その背後には何かを試す意図があるように思える。案の定、エリザベスがすかさず攻撃的な話題を持ち出した。


「そういえば奥様、最近はメイドや使用人とずいぶん親しくしていらっしゃるとか? まあなんと庶民的なことかしら。公爵家に嫁がれたのでしたら、もう少し高貴な振る舞いを身につけられてはいかが?」


 彼女の取り巻きたちもクスクスと笑う。だが、カリエラは落ち着いたまま、微笑みを絶やさずに返事をする。


「そうですね……もちろん公爵家の奥様としてふさわしい言動を心がけておりますが、使用人の皆さまを大切にし、お互いに支え合うこともまた、貴族としての責務だと考えておりますの」

「まあ、聖人君子のようですこと」

「いえいえ、とんでもない。まだまだ至らぬ点も多く、こうして皆さまに教えていただきたいことはたくさんございますわ」


 言外に「あなた方から何を学ぶかは別として」という含みがあるようにも聞こえるが、それを表には出さないのがカリエラの巧みなところだ。義母も「ふん……」と鼻を鳴らすだけで、それ以上厳しい言葉は投げかけてこなかった。

 お茶会自体は、エリザベスの取り巻きたちがファッションや社交界の噂話を語り合う程度で、特に大きな事件も起こらなかった。逆に言えば、義母やエリザベスは今回、あからさまな手段に出なかったということだ。もしかすると、彼女らなりにカリエラの様子を観察していたのかもしれない。



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新たな悩みと小さな希望


 お茶会が無事に終了し、夜になってからカリエラは一人、寝室で着替えを済ませたあと、ソファに腰かけて今日一日の出来事を振り返っていた。

 義母やエリザベスとの確執は表面化しているが、彼女たちはまだ本気で動いてはいないようだ。つまり、今は嵐の前の静けさというわけかもしれない。

 ふと、窓の外に目をやると、夜空には星がきらめいている。静まり返った屋敷の廊下から、ときおりメイドたちの足音が響く以外、物音はほとんどない。リオネルの部屋はこの先にあるはずだが、彼が今どこで何をしているかはわからない。執務をしているのか、それともすでに眠っているのか――。

 カリエラはリオネルのことを考えてみる。政略結婚だとしても、何かしら夫婦としての交流は欲しい。けれど彼は限りなく無関心に見える。義母やエリザベスの態度に心が折れそうになるとき、夫が少しでも優しい言葉をかけてくれたら、どんなに救われるだろうか――。

 しかし、そうした期待は何度も打ち砕かれてきた。だったらいっそ、期待なんてしないほうが楽だと思うこともある。だが、そうするとますます孤独が増してしまいそうで怖い。

 まるで暗いトンネルの中を一人で歩いているようだ。それでも、カリエラは歩みを止めたくはなかった。いつか、トンネルの先に光が見えるかもしれない。その光がどんな形かは分からないけれど、強く生きていれば、いつか報われる日が来る――そう信じていた。

 彼女は胸の前でぎゅっと手を握りしめ、深呼吸をする。


(わたしは、わたしらしくあるしかない。誰に何を言われても、誠実に――そう生きていくしかないのだわ)


 そう決意を新たにすると、カリエラは静かに立ち上がり、寝台へと向かった。これから、きっとさまざまな試練が待ち受けているだろう。夫の冷たい態度、義母と義姉の嫌がらせ、公爵家という大きな家名を背負う重圧……。

 しかし、それらをすべて糧にして、自分自身が強くなるしかないのだ。そう思いながら、カリエラはそっと瞼を閉じる。今夜も彼女は一人きりのベッドで眠りにつくが、その胸には確かな意志が息づいていた――孤独の中でも笑顔を失わずにいようとする、たおやかで強い意志が。



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こうしてカリエラの「不本意な婚約」は始まった。冷酷と名高い公爵家の次男リオネルとの間に、夫婦らしい会話はほとんどない。義母や義姉からの嫌がらせは絶えず、屋敷の中で彼女の居場所はまだまだ狭い。

それでも、カリエラは伯爵家で培ってきた教養と、天性の優しさ、そして自らを奮い立たせる強さをもって、少しずつ周囲の使用人たちを味方につけ、ゆっくりと新しい家に馴染もうと努めていた。

だが、これから彼女を待ち受ける試練は、決して小さなものではない。義母と義姉のさらに悪質な陰湿な策謀、そして冷たく見えるリオネルの心の奥底――。

まだ何も知らずにいるカリエラだが、この先、思わぬきっかけによって夫婦関係が変わり始める瞬間が訪れることになる。






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