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第2話 冷酷な夫の裏の顔



1. 静かな予感


 カリエラが公爵家に嫁いでから、はや数週間が経とうとしていた。屋敷の広さにも少しずつ慣れ、使用人たちとの信頼関係を築き始めたものの、夫であるリオネルとの関係は依然として冷え切ったままだ。

 朝食や夕食の席で顔を合わせても、彼から会話を振ってくれることはほとんどなく、どんな話題を投げかけても「そうか」「ああ」程度の相槌で終わってしまう。社交界で“氷の貴公子”と呼ばれる所以を、身をもって体感している日々だった。

 一方、義母と義姉の態度も相変わらず厳しい。特に義姉のエリザベスは、カリエラが屋敷内で高い評価を得始めると、ますますあからさまな嫌がらせを仕掛けてくるようになった。カリエラはそれを穏やかに受け流しつつ、自分の信条である「相手を責めず、けれど屈しない」姿勢を貫いている。

 そんなある日、義母が主催する夜会が近々開かれるという話を、メイド長から耳にした。例年、グランディオス公爵家では、春から初夏にかけての季節に貴族を集めた夜会を開催するのが恒例らしい。もちろん、新しく迎えた“公爵家の次男の花嫁”として、カリエラの出席は決まっている。

 しかし、浮ついた気持ちはまるでなかった。むしろ、義母やエリザベスが企む“何か”を感じ取って、胸がざわつくばかりだ。夜会の準備を進める使用人たちは忙しそうに駆け回っており、普段は穏やかな屋敷も少し落ち着かない雰囲気に包まれている。


(この夜会は、きっとわたくしにとって大きな転機になるのかもしれない――)


 なぜだかは分からない。けれど、カリエラはそんな予感を拭いきれずにいた。


2. 夜会へ向けた思惑


 夜会が行われる日は、屋敷の正面玄関が美しい花の装飾で彩られ、廊下には豪華なカーペットが敷き詰められた。大広間のシャンデリアは磨き上げられ、その下には貴族たちの優雅な笑い声が響くに違いない。当日の準備は万端だ。

 そして当然、その“主役の一人”とも言えるのがカリエラである。いくら政略結婚といえども、公爵家の次男の新妻という立場ゆえ、多くの来客が「どんな女性なのか」と興味を抱いている。カリエラ自身も、未知の人々と顔を合わせ、挨拶を交わすにあたって不安と緊張を抱えていた。

 義母の主導で仕立てられたドレスは、淡い藤色を基調とした上品なデザインだ。胸元には、伯爵家の家紋が刻まれた小さなブローチが添えられている。最初に見たときは「随分と気を遣ってくださったのだわ」と思ったが、義姉エリザベスからは「着こなせるかどうかは別ですがね」と嫌味を言われた。

 当のリオネルはというと、夜会の開催が近づいても淡々としている。それどころか、準備の要領を訊ねても「使用人に任せてある」と素っ気なく言うだけで、ほとんど興味を示さない。主宰はあくまで公爵夫人(リオネルの母)であり、リオネルも顔を出すだろうが、自ら積極的に動くつもりはないらしい。


(リオネル様は、本当に何も気にかけてくださらないのね……)


 形だけとはいえ、夫婦として夜会に同席する以上、もう少し彼の気持ちを知りたかった。けれど、リオネルはどこか離れた場所に行ってしまったように心を閉ざし、カリエラが近づける隙などまるでない。

 一方で、義姉エリザベスは確かな企みを胸に抱いているようだった。夜会の打ち合わせをしている最中の彼女の横顔は、どこか楽しげで、それでいて邪悪な笑みを浮かべているかのようにも見える。何かが起こる。それだけは、カリエラにもはっきりと感じ取れた。


3. 夜会の幕開け


 ついに夜会の当日を迎えた。

 広間には、各地の貴族やその令嬢・令息が集まり、優雅な音楽が流れる中で会話と笑い声が飛び交う。大勢の招待客にとって、公爵家が主催する夜会は一種のステータスでもある。コルセットをぎゅうぎゅうに締めあげた華やかなドレス姿の令嬢たちが、さりげなく自分たちの美しさを競い合うように歩き回る。貴族の男性たちも負けじと最新の仕立て服に身を包み、女性たちに視線を送っては会話に花を咲かせていた。

 カリエラは会場の隅に佇み、やや不安そうに周囲を見渡していた。慣れない場ではあるが、伯爵家の令嬢として、彼女もこれまで何度か夜会や舞踏会に出席してきた経験はある。そのときに学んだ礼儀作法や社交の立ち振る舞いを思い出し、背筋を伸ばす。


「カリエラ様、もう少し中央のほうに行ってみませんか? 皆さま、奥様とお話ししたいとおっしゃっていますわ」


 侍女の一人がそう薦めるが、カリエラは短く息を吐いて答える。


「ありがとうございます。でも、しばらくはここで様子を見ますわ。何かあれば声をかけてくださいね」


 実のところ、義母かエリザベスが何らかの形で“仕掛け”をしてくるのを薄々感じ取っているカリエラは、迂闊に目立つ場所へは行きたくなかった。まだ当主の公爵が正式に「新しい嫁を紹介する」と発表したわけでもないため、立場をはっきりさせる前にトラブルが起きれば混乱を招くかもしれない。

 しかし、いずれは招待客の前に堂々と姿を見せ、挨拶を交わさなければならない。もし何か仕掛けられたときは、自分の力で対処するしかないのだ――そう心を定め、カリエラは再び胸を張った。


4. エリザベスの罠


 音楽が一段落した頃、案の定エリザベスがすっと近づいてきた。大広間の反対側から、つま先立ちで床を滑るように歩いてくる彼女の姿は、人形のように美しい――しかし、その瞳の奥には冷たい光が宿っている。

 エリザベスは大勢の視線を惹きつけながら、明るい声で言った。


「まあ、カリエラ。ここにいらしたのね。もう少し皆さまの前に出て、お話ししたらどう? せっかくの夜会なんですもの。あら、リオネルはどうしているのかしら? 夫婦揃って登場すれば注目を浴びて一石二鳥じゃない?」


 挑発的な笑みを湛えているのがありありと分かるが、カリエラは動揺を見せず、穏やかな表情で答える。


「リオネル様は公務の書類整理があると伺いましたので、少し遅れるそうですわ。お気遣いありがとうございます」

「あら、そう。まああの人は、いつもそういう態度だものね」


 エリザベスはわざとらしく目を伏せて笑い、周囲にいた貴族令嬢たちも含みのある視線を送り合う。噂好きの者たちには、リオネルの冷淡な性格は格好の話題だった。

 そこへ、エリザベスの取り巻きとおぼしき女性が数名合流し、声を合わせて口々に言い始めた。


「そうそう、リオネル様はいつも冷たいって有名ですものね」

「夫婦なのにあまり会話がないなんて、本当なのかしら?」

「やだ、でもそんな噂はここだけにしておかなきゃ」


 笑いをこらえるような彼女たちの言葉に、エリザベスは遠慮なく乗っかる。やはりこの場で、カリエラに恥をかかせたいのが見え見えだった。

 しかし、カリエラは表情を崩さない。心の中で多少の傷は負ったとしても、ここで動揺を見せるわけにはいかないのだ。自分の立場をわきまえ、相手の挑発に乗ることなく、笑顔で切り返すのが貴族社会の“たしなみ”でもある。


「わたくしの耳にもその噂は聞こえてきますけれど……リオネル様はお忙しい方ですもの。夫婦とはいえ、それぞれの役目がありますわ。わたくしも奥様としての勤めを果たすだけです」


 涼やかに言い切ったカリエラに、取り巻きたちが少し肩透かしを食らったような顔をする。エリザベスも、一瞬だけ悔しそうに目を細めた。だが、これで終わりではないはずだ。彼女の本当の狙いは、まだ別のところにある。

 エリザベスはパチンと手を叩き、急に明るい表情を作って声を上げる。


「そうそう、皆さま! もう少ししたら、舞踏曲が始まりますわ。せっかくだから、カリエラにも踊っていただきたいものよね? ねえ、皆さま。せっかく公爵家の新しい奥様がいらっしゃるのですから、ここはお披露目も兼ねて……」


 すると、彼女の取り巻きや周囲にいた令嬢たちが「それはいい考え!」とばかりに賛同の声を上げる。夜会における舞踏は、独身の男女がパートナーを探す機会でもあるが、既婚者であっても踊りを披露することは珍しくない。ただし、その場合、夫婦であればペアを組むことが多い。

 しかし、リオネルはここにいない。わざわざ呼びに行くことができるかどうかも分からない。

 エリザベスはそれを分かっているのだ。だからこそ、「夫婦揃っての踊り」を無理に勧め、もしリオネルが来なければ「誰もパートナーをしてくれない可哀想な花嫁」を演出し、皆の前でカリエラを笑い者にしようと企んでいるのだろう。

 カリエラは内心ため息をつきつつも、周囲に向かって毅然と微笑む。


「まあ、舞踏……素敵ですわね。もしリオネル様がいらっしゃるなら、わたくしもご一緒したいのですけれど」

「そうでしょう? あのリオネルがあなたとの舞踏に応じてくれるか、楽しみですわね」


 エリザベスはあからさまに含みのある目を向けてきた。取り巻き連もにやにやと笑い、カリエラの反応を窺っている。

 そのとき、会場が急にざわめき始めた。誰かが扉のほうに視線を走らせると、その先には背の高い男性――リオネルが静かに入ってくる姿があった。相変わらず仏頂面だが、公爵家次男としての存在感は圧倒的で、客たちは思わず道を開ける。


(リオネル様……!)


 カリエラが胸をドキリとさせるのとほぼ同時に、エリザベスがさっと微笑みを浮かべてリオネルのもとへ近づいていく。そして、わざとらしく大きな声で言った。


「リオネル、お待ちしていましたわ。皆さまもあなたとカリエラの舞踏を楽しみにしているのよ。どうかしら、一曲踊っていただけない?」


 それは、リオネルにもカリエラにも選択肢を与えない強引な言い方だった。周囲の客たちも興味深そうに二人を見つめ、どんな展開になるのかと期待している。

 リオネルはちらりとカリエラに目を向けたが、その瞳には感情の揺らぎはほとんどない。いつもの冷たい表情を崩さず、低い声で言い放つ。


「俺には、そのような暇はない」


 その瞬間、客席に失笑が漏れる。エリザベスの取り巻きは、わざとらしく口元を押さえてくすくすと笑う。やはりリオネルは冷たい。まるで「妻との舞踏など興味がない」と言わんばかりの態度だ。

 エリザベスはここぞとばかりに、芝居がかった溜息をつきながら続ける。


「まあ、あなたらしいわ。でもここは折角の夜会ですし、奥様を皆に紹介する意味でも踊って差し上げては? ねえ、カリエラ」


 明らかにカリエラを追い詰める狙いが見え隠れしている。しかし、カリエラはその言葉に動揺を見せず、静かに息を整えて口を開いた。


「リオネル様がご都合が悪いようでしたら、わたくしは無理を申しませんわ。どうか皆さま、続きの音楽をお楽しみください」


 自分が恥をかくよりも、リオネルを無理に引きずり出して何か言われることのほうが嫌だった。だからこそ「一緒に踊りたい」という意思を見せないまま、エリザベスの問いを華麗に受け流す。

 しかし、そのとき――エリザベスの背後に控えていた取り巻きの一人が、何か紙切れのようなものを落とす仕草を見せ、わざとらしく口走る。


「あっ……!」


 その紙には、何やらカリエラにまつわる噂が書かれているようで、周囲の目を一気に引いた。明らかに故意に落としたのだろう。拾い上げたエリザベスが口に手を当てて驚いた振りをする。


「まあ! こんな噂を書き立てるなんて……酷いことを書く人がいるのね」


 そして、そこにいた取り巻きたちがわざと大袈裟に反応する。


「え、何? 見せて?」

「……なになに? 『公爵家の新妻は伯爵家追放同然の身で、公爵家の地位を狙った女』……?」


 客たちの間に、ざわめきが広がる。どうやら、カリエラが“家の地位を上げるために自ら進んで政略結婚を企てた”と書かれた誹謗中傷のようだ。もちろん事実ではないが、こうした噂はすぐに尾ひれがついて広まってしまう危険性がある。

 カリエラ自身は驚きと悲しみで胸が苦しくなる。エリザベスたちがこの夜会で何か仕掛けるだろうという予感はあったが、まさかこんな卑劣なやり方をするとは――。

 取り巻きの一人は、あえて大声で読み上げるかのように続けた。


「『伯爵家で問題を起こしたため、体よく追い出された』……ですって。これは本当なのかしら?」


 途端に周囲の客たちがひそひそと話し始める。真実を知らない人々は面白半分に噂を拡散しようとし、中には露骨にカリエラを蔑むような視線を向ける者もいた。

 エリザベスはわざと悲しそうに眉をひそめ、カリエラに近づく。


「こんなの、嘘に決まっているわよね? ねえ、カリエラ?」


 表面的には同情を装っているが、明らかに“ここでうまく言い返せないと貴女の立場が危ういわよ”と煽っているのだ。あまりに悪質だ。

 カリエラは唇をかみしめながら、できるだけ落ち着いた声で答える。


「もちろん事実ではありません。これを書いた方は、何か誤解をしているかと思いますわ。わたくしは父の意思に従って嫁いだまでです。伯爵家から追放など……そのようなことは一切ございません」


 はっきり否定した。しかし、周囲にいる人々がそれをどう受け取るかは分からない。否定すればするほど、“図星だから必死で弁解している”などと思う者も出てくるからだ。

 客席の視線がカリエラに集中する中、エリザベスはさらに追い打ちをかけるように囁く。


「でも、そう言うしかないわよね。もし本当に追放されたのなら、あなたの言い分を信じる人などいないでしょうし……」


 半ば凶悪な微笑みを浮かべたエリザベスの声が、カリエラの耳元で小さく響く。あまりの悪意に、カリエラは胸が苦しくなる。皆の視線が痛い。まるで見世物のように晒されるこの状況から、どう逃れればいいのだろうか。

 そのとき――音楽がふいに止んだ。会場がざわめくなか、すっと一人の男性がカリエラのそばへ歩み寄る。

 リオネルだ。冷たい表情のままだが、その青い瞳は凍えるように鋭く光っている。誰もが息を呑むように見つめるなか、彼はカリエラの手をすくい上げるようにして取り、低く響く声で言い放った。


「その程度の噂話に踊らされるとは……笑わせるな」


 ひそひそと囁いていた客たちが一斉に黙り込む。リオネルの存在感はやはり圧倒的で、彼が口を開けば誰も逆らえないようだった。


5. 「私の妻だ」


 リオネルはカリエラの手を離さぬまま、会場を見回す。その瞳には怒りの炎が宿っているようにも見えた。彼がここまで感情を露わにする姿は、カリエラはもちろん、周囲の誰にとっても珍しいことだった。


「私の妻を、くだらない噂で貶めようとするとは……どこのどいつの仕業だ?」


 低く、冷徹な声が大広間に響き渡る。その問いに答えられる者は、もちろん誰もいない。

 エリザベスは気まずそうに目をそらすが、リオネルの視界にはしっかり入っていた。彼女が紙を拾い上げた瞬間も、彼は見逃していないのだろう。

 しんと静まり返る会場で、リオネルはさらに言葉を続ける。


「この結婚が政略であったことは事実だが、カリエラが自ら望んだものではない。俺や当家の事情があってのことだ。何も知らない外野が口を挟むな。これは私事だ」


 それは、今まで一度も語られることのなかったリオネル自身の言い分だった。まるで“カリエラには罪などない”と言わんばかりに明言している。

 カリエラは心臓の音が耳に響くほど高鳴っているのを感じた。これまで「必要以上に関わらない」と距離を置かれていた夫が、まさかここで明確に自分を擁護する言葉を口にしてくれるとは思わなかったからだ。

 リオネルはカリエラの手を軽く引き寄せ、はっきりと聞こえる声で宣言する。


「……彼女は、私の妻だ。それだけ理解しておけばいい」


 その言葉は、冷たくとも力強かった。貴族社会において“彼女は私の妻”と公言することがどういう意味を持つか――周囲の者たちにも一瞬で伝わった。リオネルがはっきりと“妻を守る”と示したのだ。

 これを聞き、取り巻きたちやエリザベスの顔色は一気に青ざめる。バツの悪そうな沈黙が流れるなか、リオネルは再びカリエラに目をやった。彼女はその瞳をまともに見返すことができない。

 しかし、彼の声は先ほどよりも少し優しく感じられた。


「カリエラ。……踊るなら、俺がパートナーになろう」


 思いがけない申し出に、カリエラは息を呑む。これは間違いなくリオネルからの“助け舟”だ。今この場で夫婦がそろって舞踏をすれば、先ほどの醜い噂話などかき消してしまえるかもしれない。

 カリエラは僅かに戸惑いながらも、心の奥で湧きあがる喜びを隠しきれず、小さく頷いて手を預けた。リオネルがそっとその手を引き、舞踏のスペースへと導いていく。音楽が再開され、会場は一転して二人の踊りに視線を集めるのだった。


6. 暖かさに触れた瞬間


 リオネルのリードで始まったワルツは、驚くほど滑らかだった。彼の冷徹なイメージからは想像もつかないほど丁寧で、まるで何度も練習を重ねてきたかのように安定している。

 右手でカリエラの腰をそっと支え、左手でカリエラの手を握る。額や鼻先が触れ合うほど近くにあるリオネルの顔を見上げると、その端整な横顔は変わらず無表情に見える――しかし、その瞳には先ほどまでの刺すような冷たさはなかった。

 音楽に合わせてステップを踏むたび、カリエラのドレスの裾がふわりと広がる。まるで二人だけの世界に入り込んだかのように、周囲の視線が遠のいていくようだ。これが、夫婦としての初めての舞踏とは思えないほど息が合っている。

 カリエラの頬が少し熱くなるのを感じた。リオネルの手は大きく、そして意外なほどに暖かい。いつもは“氷のような人”としか感じられなかったのに、今はなぜだかその温もりがしっかりと伝わってくる。

 舞曲が終わると同時に、場内は盛大な拍手に包まれた。二人は自然と視線を交わし、カリエラはそこで初めてリオネルの唇の端がほんのわずかに動いたのを見た――微笑ではないかもしれないが、先ほどまでの無表情とは違う、温度のある表情。

 エリザベスをはじめ、先ほどまでカリエラを貶めようとしていた者たちはいたたまれない面持ちだった。噂を書き立てた紙の件も、リオネルの一喝で完全に萎縮してしまったらしい。

 そうして夜会は、リオネルの“妻を守る”という鮮烈な印象を残したまま続いていった。音楽や宴が再び賑わいを取り戻すとともに、あの醜い噂の話題はもはや誰の口にも上らない。

 ただし、エリザベスの顔は怒りとも嫉妬ともつかない感情で歪んでいた。次こそは必ず叩きのめしてやろう――そんな暗い決意を胸に秘めているような眼差しが、遠巻きに二人を刺していた。


7. リオネルの幼い頃の話


 夜会の後半、リオネルは必要最低限の挨拶を終えると、すぐに会場を後にした。カリエラも退席を許され、侍女たちの案内で別室へと移り、一息つくことができた。

 エリザベスや義母との衝突こそあったものの、結果的にリオネルが助け舟を出し、カリエラを「妻」として公式に認めるような発言をしてくれたことで、大きな波紋は回避できた。この事実だけでも、カリエラにとっては救いだった。

 夜も更け、カリエラが自室へ戻ろうと廊下を歩いていると、ふと、ひそひそ話す声が聞こえた。どうやらメイドたちが話し込んでいるらしい。

 内容を聞くつもりはなかったが、「リオネル様」という単語が耳に入ってきて、思わず足を止める。


「今日の夜会、リオネル様が奥様を助けるところ、初めて見たわよ……」

「ええ、本当に驚いたわ。リオネル様は昔からああいう方だから、まさか奥様をあんなふうに庇うなんて」

「でも、やっぱりお優しいところもあるのかしら……昔は本当に辛い目に遭ったって聞いたから」


 メイドたちは、幼少期のリオネルにまつわる噂を語り合っているらしい。それは、カリエラが知らなかったリオネルの一面であり、もしかすると今の彼の冷淡さの理由にも関わっているかもしれない。

 と、気配に気づいたのか、メイドたちは「あ……」と声を上げて振り返る。カリエラと目が合うと、慌てて頭を下げた。


「奥様、失礼いたしました。いえ、その……」

「いいのよ。わたくしこそ盗み聞きのようになってごめんなさい。今のお話は……リオネル様の子どもの頃のことかしら?」


 メイドたちはしばし迷った様子を見せるが、やがて控えめな調子で説明してくれた。それによると、リオネルは幼少期からずっと“優秀な兄と比べられ続けた”らしい。公爵家の長男は将来の当主として厳格に育てられ、一方の次男であるリオネルは常に「兄の補佐」に徹するべき存在として、本人の意思に関係なく決められてきたという。

 しかし幼いリオネルは気性が激しかった。理不尽な扱いに反発し、家族と衝突が絶えなかった結果、やがて「冷酷で扱いづらい息子」と見なされるようになってしまった――。

 その情報に、カリエラは胸が痛んだ。リオネルの兄や義母が彼に向けてきた態度は、決して温かいものではなかったのだろう。そして今、リオネルの兄は当主の補佐として公爵家で大きな地位を築いている。

 思い返せば、義母は何かにつけてリオネルを冷遇しているように見えたし、長男を何よりも大事にしている様子があった。次男に対しては「どうせ跡継ぎにはならない」と見下しているのかもしれない。

 メイドたちは言葉を濁しながらも、「リオネル様にも色々お辛い面があるんです」と締めくくった。カリエラはお礼を言い、そっとその場を後にする。

 廊下を歩きながら、彼がこれまでどんな思いで生きてきたのかを想像すると、胸に鈍い痛みが走る。しかし、それは理解できたところで、彼自身にとっては過去の傷かもしれない。今さら誰かが救えるようなものでもないのだろう。


(でも、今夜のリオネル様は、確かにわたくしを守ってくれた。あれは紛れもない事実……)


 冷たくても、心の奥には優しさがあるのかもしれない。そう考えると、少しだけ彼のことを知りたいと思う気持ちが強くなった。


8. 知られざる心


 数日後。夜会で起きた“事件”もひとまず沈静化し、義母とエリザベスはあからさまな嫌がらせこそしないものの、どこか歯ぎしりしているのが分かるほど苛立ちを抱えているようだった。彼女たちが仕掛けた策略はリオネルの介入によって失敗に終わったわけだが、そう簡単に懲りるとも思えない。

 一方で、使用人たちは夜会でのリオネルの姿に感銘を受けたのか、カリエラへの態度がさらに好意的になった。夫婦関係が好転する兆しとして見る人もいるようだが、実際のところ、まだまだリオネルとの距離は遠かった。

 ある朝、カリエラは思い切ってリオネルの執務室を訪ねた。どうしても聞いてみたいことがあったのだ。ドアをノックすると、いつも通りの低い声が「入れ」と応じる。

 部屋にはリオネルが一人。机の上には書類の山が積まれ、彼の鋭い眼差しがそれらを検分している最中だった。カリエラが姿を見せると、軽く視線を上げるが、すぐにまた書類に戻る。


「……何か用か」

「はい、少しお話ししたくて。お忙しいところすみませんわ」


 カリエラは緊張を抑え、できるだけ穏やかな声で話し始める。


「先日の夜会で、わたくしを助けてくださって、ありがとうございました。とても、心強かったです」


 リオネルは書類から顔を上げず、「別に」とそっけなく返すだけ。表情も読み取れない。

 それでも、カリエラは引き下がらずに続けた。


「リオネル様の助けがなければ、あの場でわたくしは、何も言い返せずに笑い者になるところでした。……本当に感謝しています」

「礼など要らん。俺がそうしたかっただけだ」


 ぶっきらぼうだが、その言葉からは嘘の感情は感じられなかった。あれはリオネル自身の意思で動いた――それだけは確かだ。

 しかし、カリエラにはもう一つ、どうしても確かめたいことがあった。メイドたちから聞いた“幼い頃のリオネル”の話を、直接本人に問うのは躊躇われたが、それでも少しでも彼に近づきたいという思いが勝った。


「……リオネル様は、あまりご家族と折り合いが良くないようにお見受けします。それは、幼い頃からなのでしょうか」


 言葉を選びながらそう尋ねた瞬間、リオネルのペンがぴたりと止まった。空気が張り詰める。やはり踏み込みすぎたかと、カリエラは少し後悔した。

 すると、リオネルはゆっくりと顔を上げ、その青い瞳をまっすぐに向けてくる。まるで、こちらの覚悟を試すかのような鋭い眼差しだ。


「誰から聞いたかは知らないが、そうだ。兄とは性格が合わなかったし、母ともな……。おまえも薄々感じているだろう。母は長男しか眼中にない。俺は“おまけ”だ」

「そんな……。でも、リオネル様の力を必要としている人も大勢いらっしゃるのでは? 領地の管理だって、次男が担当される場合もありますし……」

「ふん。必要としているのは父だけだ。母も兄も、俺を見てはいない」


 乾いた笑いとも嘆きともつかない声が、部屋の静寂に溶ける。カリエラはかける言葉が見つからない。兄が当主になるのは既定路線だとしても、次男がまったく評価されないのは、あまりに不公平だ。

 しかし、リオネルはそのまま真っ直ぐにカリエラを見つめて続ける。


「……俺があの場でおまえを助けたのは、別に家族を慮ってのことじゃない。あそこまで醜い真似をされて黙っているのは、我が家の面子に関わるからだ。母やエリザベスの差し金かもしれないしな」

「……そう、なのですね」


 素直に“ありがとう”を受け取ってもらえるわけではなさそうだ。だが、カリエラは彼の言葉に嘘がないと感じられた。リオネルはあくまで“公爵家の名に泥を塗られたくない”という思いで動いたのだろう。そこに、彼女への個人的な好意があったかどうかは分からない。

 それでも――あの時の「私の妻だ」という一言が、カリエラの胸に温かく響いたのは事実だ。それを否定するつもりはなかった。


「いずれにせよ、あの場でリオネル様がわたくしを守ってくださったことには変わりありません。……重ねて、お礼を申し上げますわ」


 そう言って深く頭を下げると、リオネルは小さく息を吐いた。もしかすると、少し戸惑っているのかもしれない。彼がペンを再び走らせると、もう“下がれ”という無言の合図のようにも感じる。

 カリエラはそれ以上追及することはせず、静かに執務室を後にした。ドアを閉める寸前、リオネルが「ああ、そうだ」と低く言葉を発したのが聞こえた気がしたが、それはとても小さな独り言のように聞こえて、カリエラには内容を聞き取れなかった。


9. 冷たい夫の、その裏側


 そうして迎えた夜。カリエラはいつものように一人きりの寝室で、窓の外の闇を見つめていた。

 リオネルの内面を垣間見たことで、彼が決して生まれつき“冷酷”なわけではないと分かった。しかし、長年積み重なった家族との軋轢が、彼の心を頑なにしてしまったのだ。

 周囲の愛や期待を得られない環境で育てられれば、人は自然と距離を置いてしまう。もし本当は優しい心を持っていても、それを表に出す術を知らなければ、冷たい態度でしか身を守れなくなるのも無理はない。

 夜会でカリエラを助けたとき、リオネルが見せた怒りと、そしてわずかながらの優しさ。それが本来の彼なのだとしたら、いつか少しでも心を開いてくれる日が来るのでは――。

 そんな淡い期待を抱く自分に、カリエラは苦笑する。政略結婚だからこそ、彼に愛を求めるのはおこがましい。だが、「夫婦」として暮らしていく上で、いがみ合うよりは理解し合いたい。それがわずかな望みであった。

 布団に入り、明かりを消す。暗闇に包まれた部屋の中、思わずリオネルの姿が脳裏に浮かんだ。それはあの夜会で自分を守ってくれたときの彼――無表情の奥に確かに感じた、“暖かなもの”を内包する面影。

 そうしていつの間にか眠りに落ちるまで、カリエラの胸には静かな安堵が広がっていた。これまでとは少し違う、心が少し軽くなるような安堵。そしてそれは、彼女の中で確実に“冷たい夫”に対する印象を変え始めていた。


10. 新たなる関係のはじまり


 翌朝。長かった夜が明け、差し込む柔らかな光で目が覚めると、カリエラは部屋を出て朝食の準備が整えられた食堂へ向かった。いつもと変わらず、そこにはリオネルの姿はない。彼は朝食も書斎で軽く済ませることが多いのだ。

 すると、給仕係が一通の手紙を携えてカリエラに近づいてきた。


「奥様、こちらは伯爵家から参りました。差出人はお父上様のようです」

「まあ……! ありがとう、受け取りますわ」


 結婚してからというもの、伯爵家とはほとんど連絡を取っていなかったため、父の手紙は久しぶりだった。急いで部屋に戻り、封を切って中身を読む。そこには「近頃、貴族たちの間でおまえにまつわる嫌な噂を耳にしたが、本当か?」という内容が書かれていた。

 どうやら、エリザベスが夜会でまき散らした誹謗中傷は一部が社交界にも広まっているらしい。父は、もしカリエラが公爵家で冷遇されているようなら、すぐにでも救い出そうと考えているらしく、「我が家の面子に関わるのだから、万が一にも不名誉なことは避けよ」と結ばれている。

 その文面に複雑な思いが込み上げる。伯爵家もまた、家の名誉を気にしているだけかもしれない。けれど、“娘を守りたい”という気持ちがまったくないわけではないはずだ。

 カリエラはやや迷った末に、父に宛てて返信をしたためた。「噂は事実無根で、リオネル様もわたくしを守ってくださいました。心配はいりません」と。しかし、このまま何事もなく過ごせるとは限らない。義母や義姉がまた何か仕掛けてくる可能性は高いし、いずれリオネルの兄――いまだ顔を合わせていないが、この兄がどう動くかによっても状況が変わるだろう。

 だが、夜会での出来事を経て、カリエラの中には一つの確信が芽生え始めていた。リオネルはただ冷たいわけではない。彼の“裏の顔”には、不器用ながらも優しさや義理堅さが確かに存在している。そしてそれは、彼が長年背負ってきた孤独から生まれたものだ――と。

 いつか、その優しさをもっと表に出してくれるようになるかもしれない。そう思うと、今の孤独さえも耐えられる気がする。義母や義姉の嫌がらせが続こうと、いずれカリエラ自身がしっかりと立ち回り、周囲からの信頼を得ることで立場を確立していけばいい。

 部屋の窓から外を見れば、もうすぐ夏を迎える庭の草木が青々と生い茂り、朝露をキラキラと輝かせている。まるで、新しい季節の訪れを告げるかのように。カリエラはそっと微笑み、心の中でリオネルの名を呼んだ。


(いつかあなたの心の奥にある、本当の優しさに触れられる日が来るかしら……)


 その思いを胸に抱きながら、今日もカリエラは奥様としての務めを果たすために歩き出す。夜会での一件を境に、冷たさの裏側にあるリオネルの人間味を感じ取ったからこそ、これから先、彼と歩む人生に、ほんの少しだけ明るい展望を見出したのだ。

 まだ道は険しいかもしれない。だが、冷たい夫の裏の顔を知った今、カリエラには一筋の光が差し込んでいた。




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