1. カリエラへの称賛と嫉妬
公爵家に嫁いでから、はや数ヶ月が経過しようとしていた。気候も初夏から夏へと移り変わり、庭の花々は鮮やかな彩りを見せはじめている。そんな季節の変化に合わせるかのように、カリエラの生活もまた大きな変化を迎えつつあった。
きっかけは、ある晴れた日の午後に開かれた小さな「庭園茶会」だった。これは公爵夫人(義母)が主催したものではなく、屋敷の使用人たちを中心に、ごく内輪で催されたものだった。当初は庭の花の手入れに感謝する“ささやかな集まり”という触れ込みで、カリエラは「公爵家の奥様として、ぜひ顔を出してほしい」と招かれたのだ。
メイド長や庭師など、屋敷の管理を担う使用人が中心となったこの集いで、カリエラは何気なく自分の知識を披露した。伯爵家で学んだ植物学の基礎や、花の育て方に関する心得、さらには香料の調合についても興味を持っていたことから、その場で軽く説明をしたのである。
すると、使用人たちは驚きと興味をもって彼女の話を聞き入り、「奥様は本当にお詳しいのですね……!」と拍手喝采を送った。カリエラも「少し勉強した程度ですわ」と控えめに微笑んだが、使用人にとっては“貴族の令嬢は、あまり土や草花に関心を持たない”という先入観があっただけに、カリエラがここまで熱心に植物学に言及するとは意外だったのだ。
この“小さな茶会”の噂は、いつしか屋敷の中を飛び越え、近隣の貴族の耳にまで届いた。“公爵家の新婦は、実は深い教養を持ち、植物学にも通じている。さらには伯爵家の令嬢らしく芸術や礼儀作法も完璧で、使用人にも分け隔てなく接する”――。その評判は、徐々に社交界の令嬢たちにも伝わり、カリエラの名は「素晴らしい教養を持った気品ある女性」として高まっていくことになる。
もっとも、当のカリエラは「そんな大げさに取り沙汰されるようなことをした覚えはないのだけれど……」と困惑していた。だが、善い評判に越したことはないし、なにより使用人たちが自分を慕ってくれるのは素直に嬉しかった。
しかし、そうした“名声”が高まれば高まるほど、それを快く思わない者が確実に存在する。まずは義姉エリザベスだ。
この茶会の成功以降、エリザベスはますますあからさまな嫉妬心をむき出しにし始めた。彼女は「わたくしのほうが公爵家の令嬢として社交界に慣れ親しんでいるのに、あんな外から嫁いできた女に注目が集まるなんて」と憤慨し、嫌味の頻度を増やしている。
そしてもう一人、実はまだカリエラとは正式に顔を合わせたことのない人物――リオネルの兄であり、公爵家の長男である“ギルバート”もまた、そこに暗い視線を向けていた。
ギルバートは次期公爵の座を約束されている人物であり、実質的に公爵家の経営を担う立場にある。冷酷と噂されるリオネルに対し、ギルバートは表向き“社交界の貴公子”として優雅な振る舞いを見せることが多いが、その実、内心ではあらゆる野心を抱えているとささやかれていた。
そして今、突然現れた“次男の妻”であるカリエラが社交界で注目を集め始めたことは、ギルバートにとって見過ごせない事態となる。なぜなら、彼は“次男であるリオネルが、どのような形であれ権威を持つこと”を快く思ってはいなかったからだ。
2. 招かれざる誘い
ある日の午前中、カリエラが屋敷の書斎で手紙の整理をしていると、一人のメイドが慌てた様子で部屋へ駆け込んできた。
「奥様、大変失礼いたします。先ほど、ギルバート様が急にお越しになりまして……奥様に面会を申し出ております」
「ギルバート様……リオネル様の、お兄様ですか?」
カリエラは思わず顔を上げる。彼女はリオネルと結婚したものの、ギルバートには一度も直接会ったことがなかった。噂では“温和な笑みを浮かべる社交界の貴公子”とも、“内心は腹黒い”とも言われている。いずれにせよ、公爵家の長男である彼がこのように突然現れるのは、何かしら理由があるに違いない。
カリエラは緊張しながらも、急いで身支度を整え、応接室へと向かった。そこにはメイドの言葉通り、ギルバートが待ち構えていた。
「お初にお目にかかるよ、カリエラ嬢……いや、今はグランディオス家の次男の妻だから、カリエラ・グランディオス……だね」
ギルバートはにこやかな笑みを浮かべて立ち上がり、カリエラに挨拶をする。その口調は丁寧ながら、どこか底知れない圧力のようなものが感じられた。
彼の外見はリオネルと似ている部分もあるが、リオネルの冷ややかな印象とは異なり、ギルバートは柔らかい微笑みを絶やさない。背丈も高く、金褐色の髪をきれいに整えており、確かに“貴公子”と呼ばれるのも納得がいく。
「今日は突然お邪魔してしまって申し訳ない。実は、リオネルの嫁となった君に、ぜひ直接会ってお話ししたくてね。わが家を盛り立ててくれる存在かどうか、一度見極めさせてもらおうと思ったのさ」
言葉こそ丁寧だが、その内容はまるで“査定”でもするかのような響きがある。カリエラは少し緊張しながら、礼を尽くして挨拶をした。
「はじめまして、ギルバート様。カリエラと申します。至らぬ点も多いかと存じますが、どうぞよろしくお願いいたします」
「ふふ、かしこまらなくても大丈夫。そう固くならずに、気楽に話そうじゃないか。……なるほどね、噂には聞いていたが、なかなかの美貌と品の良さだ。リオネルにはもったいないほどだよ」
軽い調子で言うギルバートの言葉に、カリエラはどう返してよいか分からず、ただ軽く微笑みを浮かべた。すかさず彼は、人懐っこい笑みを湛えたまま、近づいてくる。
「実は今日は一つ提案があるんだ。……近く、俺の友人たちが小さな音楽会を開くことになっていてね。そこに君も招待したいんだよ。もちろんリオネルを連れて来てくれても構わない。いやむしろ、夫婦揃って出席してほしいくらいだね。どうだろう?」
やけに積極的な誘いに、カリエラは戸惑う。リオネルの兄であるギルバートが、自ら進んで次男夫婦を自分の社交の場に招くというのは、少し奇妙に思えた。しかし、“公爵家の長男”の誘いを無下に断るわけにもいかない。
カリエラが一瞬言葉を濁していると、ギルバートは意味深な微笑みを浮かべる。
「いいじゃないか。音楽会といっても堅苦しいものではないし、君が社交界でどんな風に振る舞うのか、俺も見てみたいんだ。……もちろん、リオネルが行きたくないというなら、無理には誘わないがね」
その語尾には、“できればリオネルには知らせないほうが好都合”という含みがあるかのようだった。しかし、カリエラは夫の不在で他の社交行事に参加することに抵抗を覚える。
どう答えたものかと迷っていると、ギルバートは柔らかな声で畳みかけるように言う。
「大丈夫、俺が責任を持ってエスコートする。君はただ、音楽会で花を添えてくれればいいんだよ。……最近は君の評判が高まっていると聞くし、ぜひ多くの人にその素晴らしさを知ってもらいたいのさ。ね?」
その言葉に、なぜか背筋に薄ら寒いものを感じた。カリエラは“この誘いは何か裏があるのでは”と警戒心を抱く。しかし、相手は公爵家の長男で、将来は当主になる人物だ。あからさまに拒絶すれば、家同士の関係に差し障りが出るかもしれない。
結局カリエラは、曖昧に「前向きに検討させていただきます」とだけ答えるに留めた。それ以上のことは、まずリオネルときちんと相談してからでなければ決められないと思ったからだ。
ギルバートは“やれやれ”と肩をすくめてみせるが、すぐにまた微笑みを取り戻して言う。
「ふふ、分かった。あまり強要しても仕方ないからね。……では近いうちに、正式な招待状を送らせてもらうとしよう。それを見て、改めて判断してくれて構わない。……気が向いたら、ぜひ来てほしいよ。君が来れば、きっと会場は華やぐからね」
それはまるで、甘い毒を含んだ声のようにも聞こえた。カリエラは頭を下げ、会釈をすると、ギルバートは満足げに踵を返し、さっさと応接室を後にしていった。
3. リオネルの警告
ギルバートが去ったあと、カリエラは少しの間、応接室で佇み続けた。あの甘い物言いの裏側には、何か悪意が潜んでいるのではないか。決定的な証拠こそないが、直感的にそう感じられてならない。
そこで彼女は、すぐにリオネルの執務室へ足を運んだ。ノックして部屋に入り、デスクに向かう夫の姿を見つけると、やや緊張しながら口を開く。
「リオネル様、お仕事中のところ失礼いたします。先ほど、ギルバート様がいらして……わたくしを音楽会に招待するとおっしゃっていました」
リオネルは書類をめくる手を止め、顔を上げる。その瞳には一瞬の鋭い光が宿った。
「兄貴が……? 何を企んでいる」
「やはりリオネル様も、何か裏があるのではないかと思われますか? わたくしも、不自然に感じました」
リオネルはすっと目を伏せ、机の上に肘をついて低く唸る。
「兄貴は昔から腹の底が読めない男だ。表向きは社交的で優雅な貴公子を気取っているが、裏ではどんな思惑を抱いているか分からない。……奴がわざわざ、おまえを招待するなど、それこそ何か意図があるはずだ」
その言い方には、確かな警戒心が滲んでいた。リオネルもギルバートの動きを快く思っていないのだろう。
カリエラは素直にうなずきながら問いかける。
「もし招待状が届いたら、わたくしはどうすればよろしいでしょうか。リオネル様がご一緒ならば安心ですが、そうでないと不安で……」
「当然、俺は行かない。兄貴の社交遊びに付き合う暇はないからな。……だが、おまえを無理に連れて行かせるかもしれない。断ったら断ったで、今度は“公爵家の次男の妻が、長男の誘いを拒んだ”などと言われ、面倒な噂が広まるかもしれん」
確かに、まったく参加を拒絶するのも危険が伴う。すでに社交界では「リオネルとカリエラの夫婦関係が冷え切っている」という噂が根強く残っており、それを利用してくる人間がいても不思議ではない。
リオネルは書類を机に置き、カリエラに視線を向けた。その表情は無口で冷静だが、どこか相手を案じる色がうっすらと浮かんでいるように見える。
「とはいえ、兄貴の“音楽会”などというのは、たいてい女遊びや金儲けの話が飛び交うような胡散臭い場だ。おまえ一人で行くのは危険すぎる。……だが、おまえが断ることで公爵家に不利益が出るなら、それも問題だ」
「でしたら、どうするのがよろしいのでしょうか……」
カリエラが問うと、リオネルは僅かに口元を引き結ぶ。
「もし本当に招待状が届き、参加が避けられない状況になったら……信頼できる護衛をつけて行くしかない。あるいは、兄貴の手の届かない範囲から、俺が監視を置くのも手だ。おまえ自身にも、十分に警戒してほしい」
それは、リオネルが自分なりにカリエラを守ろうとしている言葉だった。以前は「必要以上に関わらないでくれ」と突き放すばかりだった彼が、今は“危険から守る”手段を真剣に考えている。それに気づくと、カリエラの胸にはほんのり温かな思いが広がる。
そっと微笑みながら、カリエラはうなずいた。
「はい、わかりました。……もし招待状が届いたら、リオネル様のご助言通りにいたしますわ」
「兄貴には気をつけろ。……あいつは、一筋縄ではいかない」
その言葉を最後に、リオネルはまた書類へと視線を戻す。カリエラは小さくお辞儀をし、執務室を出ようとした。扉の前に立ったとき、背後からリオネルの低い声がふいに届く。
「……もし何かあったら、すぐに報告しろ。俺を頼ってもいい。……いいな」
振り返ると、リオネルは書類の方を向いたままだが、その言葉には確かな優しさが感じられた。カリエラは胸がじんと熱くなるのをこらえながら、「はい」とだけ静かに返事をして、部屋を後にした。
4. 音楽会の夜
ギルバートからの正式な招待状が届いたのは、それから数日後のことだった。案の定、たいへん丁寧な言葉遣いで「ぜひご出席くださいませ。ご夫君にもご随行いただければ嬉しく存じます」と書かれているが、リオネルは「忙しい」と即答し、断る意志を示した。
しかし、リオネルが同行しないことで、ギルバートはどう動くのか――。カリエラが返事をしかねていると、ギルバート側から「カリエラ様のご都合の良いように、特別に配慮いたしますので、お一人でもぜひお越しください」というメッセージが再度届けられた。
断り続けると、今度は公爵夫人(義母)まで口を出してきて、「長男の行事を冷遇するなんて、次男の妻の分際で大それたことだわ。あなたも一度は顔を出しておくべきでしょう」と言い放つ。結局、カリエラは周囲の圧力に押される形で、単身で音楽会へ赴くことを決意するしかなかった。
当日、リオネルは不安そうな視線を見せつつも、「何かあったときのために、ここの使用人に変装させた護衛を一人、同行させる」と言い、さらに「終わったらすぐ帰って来い」と付け加えた。その態度にカリエラは静かな安心を覚えつつ、馬車に乗り込む。
音楽会の会場は、ギルバートの親友が所有する別荘だという。森の中の閑静な場所に建てられた広い屋敷は、貴族たちの“遊び”のために常時貸し出されているようで、この日も格式ばらない空気が漂っていた。
案内人に連れられて広間に足を踏み入れると、すでに多くの男女が談笑しながらグラスを傾けている。奥では楽師が演奏の準備を整え、にぎやかな音楽が今にも始まらんとする雰囲気だ。
ドレス姿の令嬢や夫人たちがこちらを一瞥しては、ひそひそ声で何か話している。中にはやや挑発的な視線を送ってくる者もいれば、社交的な笑みを向ける者もいる。
その中に、ギルバートの姿があった。彼はすぐにカリエラを見つけると、満面の笑みを湛えて近づいてくる。
「おや、やっと来てくれたんだね。カリエラさんを待っていたよ」
「ご招待いただき、ありがとうございます。ご迷惑をおかけしないよう、楽しませていただきますわ」
ギルバートはまるでホスト役を買って出るかのように、他のゲストたちへカリエラを紹介して回り始める。そこで初めて顔を合わせる貴族たちの中には、カリエラに好意的な言葉をかけてくれる人もいれば、「ああ、例の“政略結婚”で噂の方ね」と皮肉っぽい視線を向ける者もいた。
しかし、カリエラは動じず、常に柔らかな微笑と礼儀正しい受け答えで対応する。伯爵家で培った社交術と、もともとの穏やかな性格が相まって、相手に不快感を抱かせることはない。むしろ、「さすが伯爵家の令嬢」「リオネルの妻として相応しい」と、感心する声が次第に増えていった。
音楽会が始まり、弦楽や管楽器が優雅な調べを奏でる中、ギルバートは時折さりげなくカリエラの隣に立ち、グラスを手渡したり、話しかけたりしてくる。
「さあ、もっと気軽に飲んで楽しんでくれ。リオネルの冷たい態度とは違って、俺は客人に優しくする主義なんだ」
「お気遣い痛み入りますわ。……でも、あまり酔いすぎないように気をつけますね」
ワインを勧められるたびに、カリエラは気を張っていた。どうにもギルバートの距離感が近い。視線も、どこか品定めするような色を帯びている気がする。それでも社交界では、これが“普通の会話”といえるのだろうか――カリエラは不安を抱えながらも、その場の空気に合わせて受け答えするしかなかった。
5. 兄の誘惑
音楽会の演奏が一旦区切りを迎え、参加者たちが思い思いに散策を楽しむ時間になると、ギルバートは当然のように「屋敷の庭を案内しよう」とカリエラを誘ってきた。
すでに日は落ち、ランタンの灯火がところどころに飾られた庭は、夜風に揺れながら幻想的な雰囲気を醸し出している。人目が少ない場所に連れ出されることに警戒を覚えながらも、カリエラは断りきれず、仕方なくギルバートの後をついていった。
中庭の奥、少し人目のつかない場所に足を踏み入れた頃、ギルバートは急に足を止め、振り返る。月明かりに照らされたその顔には、いつものにこやかな微笑が浮かんでいたが、そこにはどこか蠱惑的なものが混じっていた。
「こんなに近くで見るのは初めてだけれど、君は本当に美しいね、カリエラ……。最近、社交界でも評判だと聞くけれど、なるほど納得だ」
「もったいないお言葉ですわ。ですが、夜風に当たると冷えてしまいますので、そろそろ会場に戻りませんか?」
警戒心を隠しきれないまま、カリエラはそっと距離を取る。しかし、ギルバートは一歩踏み出してさらに近づき、まるで獲物を狙うかのようにカリエラの体に手を伸ばした。彼女は思わず身を引くが、相手の腕力は意外に強く、その手を払うことができない。
「まあ、そんなに拒まないで。君のその美しさ、いつまでもリオネルのためだけに取っておくのはもったいないよ。あいつにはさほど興味もないんだろう?」
「……な、何をおっしゃっているのですか。やめてください……!」
ギルバートの手が、まるで蛇が獲物を絡め取るようにカリエラの腰に回ろうとする。ぞっとするような感覚が背筋を駆け上る。彼女は必死にその腕を押し戻し、抵抗する。
しかし、ギルバートは余裕の表情を崩さない。
「だって、リオネルは君に冷たいんだろう? 夫婦というのに、ほとんど言葉を交わさないと聞いた。だったら、君ももっと自由に楽しんだっていいじゃないか。……公爵家の長男として約束された将来を持つ俺なら、君にもっと素敵な時間を与えてあげられる」
口調こそ優雅だが、その言葉は明らかに“誘惑”の意図を含んでいる。カリエラは、怒りと屈辱感で胸がいっぱいになる。どうやらギルバートの狙いは、単に彼女を弄ぶだけではないのかもしれない。次男の妻を誘惑して関係を持ったとすれば、リオネルの立場は大いに揺らぐ。公爵家の次男夫婦がスキャンダルを起こせば、リオネルも公爵家全体も大きな打撃を受けるだろう。
つまり、この誘惑は“家庭崩壊”を企む陰謀なのだ。ギルバートは、自分の地位をより確固たるものにするために、リオネルとカリエラを仲違いさせる材料を作り上げようとしているのだろう。
カリエラは眉をきつく寄せ、毅然とした声で言い放った。
「失礼ですが、わたくしはリオネル様の妻です。あなたのお誘いなど、受けるわけがありません。手をお放しください」
「……おやおや、意外と強気だね。でも、ここには誰もいない。君がどう抵抗しようと、俺は構わず手に入れてしまうかもしれないよ?」
ぞっとするような冷笑を浮かべるギルバート。危険だ。カリエラはこのままでは無理やり押し倒されかねないと察し、必死に腕を振り払いながら、大声を上げようとした。その瞬間――。
「下衆な真似はやめてもらおう」
低く響く声が、夜の静寂を切り裂いた。驚いてギルバートが振り返ると、そこには黒いマントを羽織った男性の姿があった。カリエラが咄嗟に目を凝らすと、見覚えのある使用人の顔……いや、これはリオネルが手配した“護衛”に違いない。
護衛は鋭い目つきでギルバートを睨むと、その存在感だけでも圧を与えるようにゆっくりと近づく。ギルバートは慌ててカリエラから手を離し、つくろうように咳払いをした。
「なんだ、君は……? まさかリオネルが差し向けたのか?」
「奥様に危害を加えるつもりならば、容赦はしない」
護衛の揺るがぬ視線に、ギルバートは舌打ちをしたようだった。しかし、さすがに暴力沙汰を起こせば、自分の立場すら危うくなる。ここは一旦引き下がるしかない、と判断したのか、ギルバートは大仰に肩をすくめる。
「ふん、まったく。……まあいい。今日はここまでにしておくとしよう。だが覚えておいてくれ、カリエラ。君はまだまだ俺の知らない魅力をたくさん隠していそうだ。それをいつか解き明かす時が来るかもしれないよ」
耳障りな笑みを浮かべながら、ギルバートは踵を返して闇の中へと姿を消した。
カリエラは護衛の男に支えられながら、荒い呼吸をなんとか整える。心臓がバクバクと音を立てて止まらない。まさか、あんなに露骨な手段で迫ってくるとは思わなかった。ギルバートという男は、“公爵家の次男の妻”を単なる遊び相手にするというより、さらに深い陰謀を持っている可能性が高い。
護衛の男が小声で問いかける。
「奥様、ご無事ですか?」
「……ええ、ありがとうございます。あなたが来てくださらなかったら、どうなっていたか……」
ホッと安堵した瞬間、涙が滲みそうになるのをこらえながら、カリエラは必死に笑みを作る。
「もうここにはいられません。……すぐに帰りましょう。リオネル様のもとへ……」
「承知しました。馬車の手配を急ぎます」
こうしてカリエラは、ギルバートの音楽会から早々に立ち去ることになった。客たちからは奇異の目で見られたが、それでも命の危険に晒されるよりはましだ。何より、リオネルにこの出来事をしっかりと報告しなければならない。
6. 企みの暴露
屋敷に戻ったカリエラを出迎えたのは、夜遅くまで机に向かっていたリオネルだった。馬車を降りた途端、カリエラは駆け寄ってきたリオネルに震える声で事のあらましを伝える。
「リオネル様……! ギルバート様が、わたくしに……無理やり……」
「……やはり、兄貴はそこまでやったか」
リオネルの表情が見る間に険しくなる。今にも怒りが爆発しそうな瞳で、カリエラをじっと見据えたあと、そっと彼女の肩に手を置き、落ち着かせるように声をかける。
「怖い思いをさせたな。……すまない。もっとしっかりと護衛を増やすべきだった」
「いいえ、あなたが護衛をつけてくださったおかげで、わたくしは助かりました。そうでなければ本当に……」
その言葉にリオネルはさらに苛立ちを募らせるように、唇をきつく結ぶ。だがすぐに、カリエラの肩から手を離して深呼吸し、冷静な声で告げた。
「これ以上、兄貴が勝手をするのを黙って見過ごすわけにはいかない。母上やエリザベスもいるが、それらを含めて一度、俺から厳しく釘を刺す必要がある」
「リオネル様……」
それは、家族間の衝突を覚悟した宣言だった。しかし、これまではどこか距離を置いてきたリオネルが、今は“家族”というしがらみに正面から挑もうとしている。カリエラはその決意に胸を打たれると同時に、不安も覚える。ギルバートや義母、エリザベスが黙ってそれを受け入れるとは思えなかったからだ。
しかし、事件は思わぬ形で急展開を迎える。翌日、リオネルはギルバートを直接問いただそうと手筈を整えていたが、それに先駆けて“とある文書”が公爵家の使用人を通じてカリエラのもとに届いたのだ。
そこには、ギルバート自身の不正の証拠となり得る情報が克明に記されていた。具体的には、“ギルバートが公爵家の金を横領し、裏で領内の豪商たちと通じて私腹を肥やしている”という告発のような内容だ。送り主は匿名で、詳細を誰にも話すなと警告している。
さらに、その文書の末尾にはこう記されていた――“公爵家次男の妻を誘惑し、家を混乱に陥れた証拠もここにあり。彼の悪事は、いずれ公式の場で暴露されるだろう”――。
「まさか、ギルバート様が金銭に関する不正まで……。あの方は将来、公爵家の当主になるのではないのですか?」
カリエラは驚き、リオネルにそれを報告すると、彼は歯ぎしりをするようにして呟く。
「兄貴が金を横領しているだと……? 奴ならやりかねん。母上も兄貴にばかり肩入れしているから、領内の監査も甘くなるだろう。……しかし、一体誰がこんな文書を俺たちに渡したのか?」
それは謎のままだったが、少なくともギルバートが裏で暗躍している事実が浮き彫りになった。リオネルはこれを機に、ギルバートが“次男夫婦を破滅させるためのスキャンダル”を狙っているだけではなく、“公爵家の財産や地位を利用して私腹を肥やしている”という大罪を犯している可能性もあると睨む。
そこでリオネルは決断する。“兄に直接対峙する前に、きちんと調査を行い、確固たる証拠を押さえよう”と。もし不正が確定すれば、たとえ家族であろうと追及せざるを得ない。そして、カリエラへの誘惑行為も含め、ギルバートの数々の悪行を表沙汰にする覚悟を固めたのだ。
7. リオネルの愛の告白
ギルバートの陰謀を暴くため、リオネルは動き始めた。自分が握っている情報だけでなく、匿名の文書の内容を裏付ける証拠をさらに掴むため、信頼できる部下や使用人を極秘に動員し、領内での金の流れを調べ始める。
その過程で、カリエラはリオネルと過ごす時間が増えていった。以前はほとんど顔を合わせることもなかったが、今は情報の共有や打ち合わせが必要なため、自然と二人が会話する機会も増える。
そんなある日、リオネルは夜遅くまで続いていた調査を一段落させ、カリエラと談話室で話し合っていた。そこには護衛役も含め、数名の使用人がいたが、ひとまず報告が終わると気を利かせて退室していく。
残ったのは、リオネルとカリエラの二人きり。深夜のランプの明かりが揺らぎ、窓の外には月の光が射している。
リオネルはテーブルに肘をつき、難しい表情のまま低く唸る。
「やはり兄貴は、かなり大規模な不正を働いている可能性が高い。監査の網をかいくぐっていたのは、母上やエリザベスが手助けしたからかもしれない。……このままでは、公爵家そのものが危機に陥る」
「そうですね……。一刻も早く真実を明らかにして、ギルバート様を止めないと……」
カリエラもその深刻さを痛感していた。いくら義兄とはいえ、公爵家に大きな損害を与える行為は見過ごすわけにはいかない。さらに、カリエラ自身への誘惑未遂という事実もある。いずれ公の場で罪を問われることは避けられないだろう。
しばし沈黙が落ちる中、リオネルはふと顔を上げ、カリエラを見つめる。その瞳には、これまでになく複雑な感情が浮かんでいるように見えた。
「……おまえは、なぜそこまで必死に俺に協力してくれる? もともと政略結婚で、伯爵家から無理やり嫁がされた立場だろう。こんな危険な争いに巻き込まれるくらいなら、伯爵家に帰ったほうがいいと思わないか?」
それは、素朴な疑問のようであり、どこか寂しげな響きを伴っていた。カリエラは言葉に詰まりながらも、ゆっくりと答えを絞り出す。
「それは……わたくしがあなたの妻だからです。確かに初めは父の命令で、この結婚を受け入れただけでした。でも、だからといって今さら逃げ出したくはありません。……リオネル様がわたくしを守ってくださったこと、家族の争いから何とかして公爵家を正しい形に戻そうとされていること……それらを見ていて、わたくしも一緒に戦いたいと思ったのです」
リオネルは静かに聞き入り、しばらくして息をつくように呟いた。
「……おまえは不思議な女だ。俺に冷淡に扱われても、義母やエリザベスに嫌がらせを受けても、くじけずに笑顔を見せる。そして今は、兄貴の陰謀に立ち向かう覚悟までしている。いったい、その強さはどこから来るんだ?」
カリエラは少し困ったように微笑む。
「強いというより、頑固なだけかもしれません。伯爵家で育った頃から、自分の意思を曲げずに歩み続けるよう教育されましたので……。もちろん、泣きたいこともありますし、怖くて眠れない夜もあります。でも、今こうして隣にいてくださるリオネル様を見ていると、頑張ろうと思えるのです」
その言葉に、リオネルはまた少し黙り込んだ。瞳の奥で何かが変化し、彼の心を揺さぶっているのが伝わる。
そして、意を決したように立ち上がると、テーブルを回り込んでカリエラの側へと足を運ぶ。突然の行動に驚き、カリエラは思わず立ち上がろうとするが、リオネルは軽くその肩を押さえて止めた。
ごく近い距離に、リオネルの顔がある。青い瞳がまっすぐカリエラを捉える。その眼差しは、かつて見た“氷のような冷徹さ”ではなく、深い決意と微かな戸惑いを孕んでいた。
「……俺は、おまえに何もしてやれていない。政略結婚だと割り切り、必要以上に関わらないでくれと言った。なのに、おまえは俺を助けてくれる。兄貴の陰謀からも逃げず、公爵家を守ろうとしている」
「わたくしは……ただ、あなたが放っておけないだけです」
その返事に、リオネルはかすかに笑ったように見えた。それは、初めて見る“優しい表情”だったかもしれない。彼はカリエラの手をとり、ぎこちなく、それでもはっきりと告げる。
「おまえのことを……守りたい。今までは、家族というものが信じられなかった。母上や兄貴との関係を見れば分かるだろう。……だが、おまえだけは失いたくないと思った。もしこれが“愛”という感情なのだとしたら、俺はおまえを……」
カリエラの目に涙が滲む。リオネルがこんなにも率直に、自分の想いを口にしてくれる日が来るなんて、思ってもみなかった。彼の言葉は不器用で、表情もどこかぎこちないが、そこに偽りはない。
カリエラは、ついに溢れ出す涙を隠さず、震える声で応じる。
「リオネル様……わたくしも、あなたを慕っています。初めは冷たくされたけれど、でも本当は優しい方だと分かって、もっと知りたいと思うようになりました。……愛という言葉を使うのが少し怖かったけれど、今ははっきりと言えます。わたくしもあなたを――心から愛しています」
その瞬間、リオネルはカリエラの手を引き寄せ、その額にそっと唇を落とした。とても静かで穏やかな口づけ。その仕草に、カリエラは胸がいっぱいになり、さらに涙を零してしまう。
長い沈黙が流れる。だが、その沈黙は苦しさではなく、互いの心を確かめ合う温かな時間として優しく二人を包み込んでいた。外には月の光と夜風が流れ、まるで二人の新たな絆を祝福するように、星々が瞬いている。
8. 新たな決意
こうして、リオネルとカリエラはついに互いの愛を確かめ合った。それは、長らく孤独と不信感に包まれてきたリオネルにとっても、伯爵家の意向で政略結婚を強いられたカリエラにとっても、大きな救いであり、新たな一歩だった。
だが、喜びに浸ってばかりはいられない。ギルバートの陰謀は依然として進行中だし、義母やエリザベスもまた、何らかの形でカリエラを陥れようと躍起になっている可能性がある。公爵家を守るためにも、早急にギルバートの不正を暴き、彼の魔の手から逃れねばならない。
翌朝、リオネルはカリエラを含む信頼できる協力者たちを集めると、公爵当主(リオネルの父)へ正式に「ギルバートが不正を行っている疑いがある」ことを報告する計画を立て始めた。
ギルバートが公爵家の金を横領している証拠は、すでにいくつかの書類で裏付けが取れている。残る問題は、それが“公爵家の内部で認められるだけの確固たる証拠”として通用するかどうか。そして、公爵当主がそれをどう受け止めるかだ。義母がどんな妨害をしてくるかも分からない。
しかし、リオネルは迷わなかった。自分の中で芽生えた愛情と、守るべきものができたからこそ、今こそ立ち上がるときだと確信していた。その横には、頼もしく寄り添うカリエラの姿がある。もう一人ではない。
こうして、二人は手を携え、ギルバートと義母、そしてエリザベスが仕掛ける最終的な妨害に立ち向かう準備を整えていく。
この先、果たしてどんな攻防が待ち受けているのか――。しかし、リオネルとカリエラの胸には、かつてないほど強い信頼と愛が宿っていた。もう二人は離れない。
“愛を試す陰謀”は終わらない。けれど、二人の心が通じ合った今、この陰謀を破る日はそう遠くはないだろう――。