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第43談 婚約者の正体

 私の古い友人に、好美(仮名)さんという叔母さんがいます。もう60を越えた落ち着いた女性で、いわゆる〝霊感〟のある人ではありません。むしろ、その手の話は「非科学的」と笑い飛ばすタイプの方です。



──だからこそ、友人に頼み込んで彼女に取材した体験談は、今も私の頭から離れません。



 今回の話は、コロナ過に入る前年の事です。好美さんの息子である省吾(仮名)さんが三十代後半になっても独身だったことを、家族は少し心配しておりました。


 しかし、本人は「縁がないだけ」と笑い、休日は趣味のハイキングサークルに精を出す日々。几帳面で物静かな人柄で、仕事も一流企業に勤めていたから、誰から見ても〝堅実な独身者〟でした。



 そんな彼が、ある日「彼女ができた。結婚しようと思ってる」と好美さんら家族に言いました。


 お相手は、サークルで出会った4歳年下の絵里子さん(仮名30代)でした。


 息子から見せてもらった写メの中の彼女は、控えめで大人しそうに見えたが、(どこか息子には合っている)と、好美さんは最初そう思ったそうです。



 絵里子さんが、初めて好美さんの家に来た日の夜。夕食は賑やかな時間にしようと思い、好美さんは煮物を作り、夫は少し張り切って特上寿司の出前を取り、高級な日本酒を買ってきました。残念ながら省吾さんの妹の千里(仮名30代前半)さんは、仕事の都合で同席出来なかったので、4人での食事会となりました。



 彼女の煮物は湯気を立てて湯気が立ち、甘辛い出汁の香りが部屋いっぱいに広がっていたそうです。酔って陽気になった夫は、緊張する息子の背中を何度も叩いてました。


 だが、絵里子さんだけは、その賑わいに乗り切れていないようでした。



 彼女は小さく丸めた肩をすぼめるようにして座り、どこか所在なげに、卓上の湯呑みを両手で抱えていました。


 まるで、寒さに震える人が小さな焚き火にすがるように──けれど、部屋の暖房は充分に効いていたそうです。



 好美さんいわく、彼女の指は、ひどく冷たそうに見えました。爪の色はわずかに青白く、湯呑みに指が当たるたび、カチカチと小さく陶器の鳴る音がしました。



 「召し上がってくださいね」と好美さんが煮物や寿司の皿を差し出した時も、彼女はにっこりと笑いましたが、一口も箸をつけようとしませんでした。


 ふと見ると、絵里子さんの視線は料理ではなく、テーブルの端──誰も座っていない空席のあたりを、じっと見つめていました。


 省吾さんが何気なく話しかけると、彼女はびくりと肩を揺らしました。目を見開いたその表情が、なぜか一瞬〝怯え〟に似ていたのを、好美さんは今でもはっきり覚えているといいます。



 その夜の事です。


 好美さんは夢を見ました。それは省吾さんの結婚式の夢だったといいます。披露宴会場のような場所で、息子と絵里子さんが並んで座っていました。けれど、そこに温かな雰囲気はありません。


 彼女の父親と思しき男が酔って暴れ、皿を床に叩きつけながら「金を寄越せ!」と怒鳴っていました。


 その横では、絵里子さんの母親と思われる人物が、ひたすら泣いてたのです。


 その化粧は崩れ、口元を押さえたまま、しゃくりあげていました。



「本当に奇妙は夢だったわ」と好美さんは語ってくれました。


 普段の夢には匂いなんて感じないのに、その夢では、喚き叫ぶ絵里子さんの父親らしき人物の口臭のような、鼻の奥をつんと刺す異臭に満ちていて、吐き気すら感じられたと言います。


 彼女が夢から覚めた時、喉が焼けるように痛かったそうです。


 その時は(変な夢だった)と布団の中で、うつぶせになりながら思いました。


 けれど、もっと奇妙だったのは、その翌朝。好美さんが台所で味噌汁を作っていた時の事です。


 目を覚まし食卓にやってきた千里さんが、彼女に言いました。


「お母さん、変な夢見たの。お兄の結婚式の夢なんだけどさ。その中で……」


 その言葉を聞いた瞬間、彼女の手がピタリと止まりました。お玉の中で湯気が上がる。味噌の香りが、なぜか急に鼻に障るほど強く感じられたそうです。


「……あんた、その夢は本当なの?」


 と、千里さんから詳しい話を聞いた好美さんは言いました。


 そして、しばしの沈黙の後──


 「実は、私も全く同じ夢を見たのよ」


 言葉の温度が、下がっていくのが分かったと、好美さんは語ってくれました。


 そう!好美さんと千里さんは、全く同じ内容の夢を見ていたのです!!


 普段は迷信めいた話を笑い飛ばす娘と自分が、まるで同じ映像を、同じ夜に、同じ感覚で見たという現実に、2人はしばらく言葉を失いました。


「お母さん、これってさ、このままお兄を結婚させても大丈夫なのかな?」



 千里さんが恐る恐る言うと、好美さんは目を伏せたまま何も言えなかったそうです。


 その後、2人は夫や省吾さんには内緒で、知り合いづてに紹介してもらった探偵に絵里子さんの調査を依頼しました。あくまで〝念のため〟でした。


 数週間後、届いた封筒には報告書がぎっしりと綴られておりました。


 それは、信じがたい内容でした。


 絵里子さんが、パチンコ店に毎日のように通い、さらに競馬場にも通い詰めていた事。勤務先では同僚と金銭トラブルを起こしていた事。消費者金融からの多額の借金を抱えていたと記されていたのです。


 (あんな大人しそうな人が、こんなに浪費癖があったの?人は見かけによらないとは、よく言ったものね)と思いながら、好美さんは書類に目を通しました。


 その報告書の中で、彼女が特に気味悪く感じたのは、尾行中に探偵が撮った一連の写真と、その説明文でした。


 ある日の夕方6時。日が落ちかけ、町の街灯が一つずつ灯り始めました。


 その時、彼女は1人住宅街を歩いていました。目的地もなく、ただ歩き回っているように見えたと報告書には書かれていました。



 同封された写真には、スマホを見るでもなく、まっすぐ前を見て、やや猫背で歩くコートの襟を立てた彼女の姿が写っていました。


 日が落ちた直後、彼女は足を止めたそうです。


 路地の入り口。街灯もほとんど届かない陰が深く落ちている場所。その暗がりに向かって、彼女は小さな声で何かを話し始めたのを探偵は目撃したそうです。


 報告書にはこう記されている。


『特定の時間帯になると、彼女は毎回同じように足を止め、誰もいない方向に向かって、声を発しているようでした。内容は不明ですが、望遠で確認した唇の動きから推測すると『やめて』『来ないで』『だめ』など、拒絶を示す単語が断続的に繰り返されていたように見えます。また、この女性は時折、自身の影を避けるように歩く傾向があります』



 さらに好美さんが不気味に思ったのは、写真の中の1枚に映っていた影でした。



 絵里子さんが立っている路地の奥、僅かな街灯に照らされた〝人型の影〟のような物が、壁にべったりと貼りついていたのでした。


 それが、彼女の影であるには、あまりにも向きが違い過ぎるように見えました。


 写真の彼女が右を向いているのに対して、その影は正面を向いてたからです。


 その影の主が、彼女の背後にじわじわと滲むように近づいていたのか、それとも彼女が会話してたという「何者」かの影なのかを断定できる証拠はありません。


 ただ、他の写真には〝もうひとつの影〟は写っておらず、その1枚にだけ、不自然に濃い闇のような輪郭が写っておりました。



 結局、省吾さんは最初こそ頑なに「何かの間違いだ」と好美さん達の話を否定してましたが、報告書を読み返すうちに、現実を受け入れざるを得なくなったそうです。


 そして婚約は、静かに破談となりました。


 省吾さんには辛い思い出となりましたが、結果的に好美さん達の見た夢は、一家を救った形になったのです。


 その後、彼は別の女性と出会い、今は穏やかな家庭を築いています。


──しかし、好美さんは最後に言いました。


「時々ね、ふっと匂うのよ。あの夢で嗅いだ男の口臭みたいな臭いが。部屋にいるのが自分一人の時に。気のせいだと思うけどさ!アハハ!」


 それを聞いて、私は笑えませんでした。



 絵里子さんが話していたという〝影〟の正体は何だったのでしょうか?



 好美さん達が見た夢は予知夢だったのでしょうか?



 それとも〝何か〟が、好美さんの夢や絵里子さんを通して、彼女の家に〝やって来よう〟としていたのでしょうか?


 私には、今も分かりません。

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