セクション1: 転生悪役令嬢エリシアの目覚め
ふわりとした夢の中、エリシア・ローゼンベルクは、不思議な感覚に包まれていた。足元には光り輝く花々が広がり、空には金色の鳥たちが飛び交う。どこか非現実的なこの世界に浸っていた彼女は、徐々に現実に引き戻される感覚を覚えた。
「……ん、ここは……?」
目を覚ますと、目の前には豪華な天蓋付きベッドの布が広がっていた。絹のように滑らかなシーツが肌に触れ、周囲の空間は煌びやかで非現実的なまでに豪奢だった。エリシアは目をこすりながら身を起こし、部屋を見回した。
「これって……一体何?」
目に飛び込んできたのは、前世では見たこともないような装飾が施された家具の数々。天井には繊細な彫刻が施されており、大きな窓からは柔らかな朝日が差し込んでいた。ベッド脇の姿見に映った自分の姿を見て、エリシアは思わず息を呑んだ。
そこに映るのは、自分の知る顔ではなかった。金色の巻き髪に、透き通るような白い肌。そして、大きく澄んだ青い瞳が印象的な少女が映っている。
「私……? 嘘でしょ……」
鏡をじっと見つめながら、自分の頬に手を当ててみる。その感触は間違いなく自分自身のものだが、記憶の中の「自分」とはまるで違う。頭の中で混乱が広がる中、突然激しい頭痛が襲ってきた。
「っ……!」
エリシアは思わず頭を抱え、ベッドに倒れ込んだ。そして、次の瞬間、まるで洪水のように記憶が流れ込んできた。それは、この豪華な部屋に住む伯爵令嬢としての人生の記憶だった。父や母の顔、使用人たちとのやりとり、そして自分が「エリシア・ローゼンベルク」として生きてきた日々が鮮明に思い出されていく。
だが、その記憶の中には、もう一つの記憶が重なっていた――前世の自分の記憶だ。
「もしかして……これ、転生ってやつ?」
混乱の中、彼女の心に浮かんだのは、前世で熱中していた乙女ゲーム『ローズガーデンの恋人たち』だった。この世界の記憶とゲームの設定が完全に一致していることに気づき、彼女は驚愕した。
「まさか、私が転生したのはゲームの中の悪役令嬢……?」
エリシア・ローゼンベルク――それは『ローズガーデンの恋人たち』で、プレイヤーキャラクターであるヒロインをいじめ抜き、最終的には国外追放という悲惨な末路を迎える悪役令嬢だった。彼女はそのキャラクターに転生してしまったのだ。
「嘘でしょ……追放エンドなんて嫌!」
思わず声を上げたエリシアだが、ふと窓の外に広がる美しい庭園に目を向ける。その瞬間、頭の中にふと浮かんできたのは、このゲームに登場するあるキャラクターの顔だった。
それは、ゲームの中でヒロインを守る騎士――エイドリアン・グランディス。彼はサブキャラクターでありながら、その誠実な性格と端正な容姿で、彼女がゲームをプレイしていた頃から「推し」として心を掴んで離さなかったキャラクターだ。
「そうよ! エイドリアン様がこの世界にいるなら……会えるってことよね!」
エリシアの胸は高鳴った。前世では画面の中でしか見ることができなかった彼に、この世界では実際に会える。それだけでも転生した価値があると思えた。
しかし、同時に彼女の心に一つの決意が芽生える。
「彼を幸せにするために、この世界で生きるのよ……!」
悪役令嬢の定められた運命に囚われるのではなく、エイドリアンが快適に働ける環境を整え、彼が幸せに生きられる未来を築く。これこそが、エリシアにとっての新たな人生の目標となった。
「推しが生き生きと活躍する世界、それを作るのが私の使命!」
エリシアはベッドから立ち上がり、鏡に映る自分の顔を見つめた。そこに映るのは、気弱な少女ではない。決意を秘めた一人の女性だった。
彼女の新たな人生が、この瞬間から動き出した。そしてその選択が、やがて王国全体を揺るがす運命を呼び込むことになるとは、まだ誰も知らなかった。
セクション2: 推しの働きやすい環境を作る
エリシア・ローゼンベルクは、その日、伯爵家の屋敷の一室で書類の山と向き合っていた。彼女の目は真剣そのもの。豪華なペンを手にし、流れるような筆致で書類に署名を施している。
「推しのためには、まず基盤を整えないとね……!」
そう、彼女が取り組んでいるのは、王国騎士団の予算についての申請書類だった。本来なら貴族の娘が関与することではないが、エリシアには伯爵令嬢としての特権がある。しかも、転生者としての知識を駆使すれば、必要な調整を行うのは難しくない。
「エイドリアンがもっと快適に働ける環境を作るために……どれだけ労力を使っても惜しくないわ!」
エリシアはペンを置くと、満足げに息を吐いた。
だが、彼女の行動には早速障害が立ちはだかった。父親であるローゼンベルク伯爵が現れたのだ。
「エリシア、お前がこんな書類に関わる必要はないだろう?」
伯爵の鋭い声が部屋に響く。彼は娘が突然熱心に仕事を始めたことに驚き、疑念を抱いていた。
「父様、これは私がやりたいことなのです。それに、伯爵家の名誉にも繋がると思いますわ。」
エリシアはにっこりと微笑みながら答えた。その笑顔には、前世の交渉術が見え隠れしている。
「名誉、だと?」
「ええ。王国騎士団の環境を整えることで、王室の信頼も得られるでしょう。それに、将来的には伯爵家の地位向上にも繋がるはずですわ。」
伯爵はしばらく考え込んだ後、ため息をつきながら言った。
「……好きにするがいい。ただし、問題を起こすなよ。」
「ありがとうございます、父様!」
エリシアはそう言って、内心で勝ち誇った。
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数日後、エリシアは王宮を訪れていた。目的は、推しであるエイドリアン・グランディスに直接会うこと。そして、彼がどのような環境で働いているのかを確認することだった。
王宮の広大な中庭を歩きながら、エリシアは遠くに彼の姿を見つけた。ゲームの中で見た通りの端正な顔立ち、鍛え抜かれた身体。そして何より、騎士の甲冑がこれほど似合う人物は他にいないだろう。
「推しだ……!」
エリシアの心は歓喜に震えた。しかし同時に、ただ眺めているだけでは満足できない。
「せっかくだから、話しかけないと……」
エリシアは決心し、エイドリアンに近づいた。彼は何かの訓練を終えたばかりのようで、額にうっすらと汗を浮かべている。それすらも尊い。
「グランディス騎士様、少しお時間をいただけますか?」
エリシアが声をかけると、エイドリアンは驚いたように顔を上げた。
「……ローゼンベルク伯爵令嬢、何のご用でしょうか。」
その冷静で低い声に、エリシアは一瞬でノックアウトされそうになる。しかし、ここで引いてはいけないと自分に言い聞かせた。
「以前からあなたのご活躍を耳にしておりました。そのお仕事ぶりに心から感銘を受けています。」
「それは光栄なことです。ですが、私のような者に何かお力添えいただくようなことでも?」
エイドリアンは疑問の色を隠さずに尋ねる。
「いえ、ただ……あなたの働く環境が気になりまして。もし何か不便なことがあれば、伯爵家としてできる限りの支援をさせていただきたいと思っておりますの。」
「不便なこと、ですか?」
エイドリアンは少し考え込むような仕草を見せた。その横顔すらも美しい。
「騎士団は確かに、装備や設備に古い部分が多い。しかし、それが騎士としての鍛錬を妨げることはありません。」
「ですが、より良い環境があれば、皆様の能力をさらに発揮できるのではないでしょうか?」
エリシアの真剣な眼差しに、エイドリアンは少しだけ目を見開いた。そして、わずかに微笑む。
「あなたのような方が、そのように気遣ってくださるとは思いませんでした。ありがとうございます。」
「お礼なんて必要ありませんわ。私の心からの願いですもの。」
エリシアはそう言って頭を下げた。そして、その場を立ち去りながら、内心で拳を握る。
(やった……!推しとの初接触、大成功よ!)
この日を境に、エリシアは推しの環境を改善するための行動をさらに加速させるのだった。
セクション3: ヒロインとの出会い
エリシア・ローゼンベルクが推し活のために騎士団支援を進めている最中、王宮の中庭では、初夏の柔らかな陽光が溢れていた。その日、彼女は次の計画を練りながら庭園を散策していた。
「今日は資料の整理だけでなく、エイドリアン様が訓練する様子をもう少し観察できれば……」
そんなことを考えていると、遠くから誰かの悲鳴が聞こえてきた。
「いやっ!」
エリシアはその声の方向に目を向け、足を速めた。中庭の花壇のそばで、一人の少女が転び、目の前で倒れてきた花瓶を見つめている。
花瓶は、どうやら上部の窓から落下してきたもののようだった。
「危ない!」
エリシアは反射的に駆け寄り、倒れている少女を抱き起こした。間一髪、花瓶はエリシアの足元で砕け散り、少女に怪我はなかった。
「大丈夫ですか?」
エリシアが声をかけると、少女は驚いた顔で彼女を見つめた。
「ありがとうございます……!助けていただいて……!」
少女の声は、どこか素朴で柔らかい響きを持っていた。彼女は恐る恐る立ち上がり、服に付いた土を払った。その姿は、一見すると平凡だが、控えめな愛らしさを感じさせる。
「あなたは……?」
「わたくしはエリシア・ローゼンベルク。伯爵家の娘ですわ。」
エリシアが名乗ると、少女は驚いたように目を丸くした。
「伯爵令嬢様……!わたしはカミラ・アルセリアと申します。父は小さな領地を持つ男爵です。」
カミラ――彼女こそ、この世界の主人公であり、ゲームのヒロインだった。エリシアの心は複雑に揺れ動く。この少女こそが、ゲーム内でエイドリアンの心を掴む運命のヒロインなのだ。
「カミラ様、怪我がなくて本当によかったですわ。」
エリシアは笑顔を浮かべながら、表情を崩さないように努めた。
「そんな……助けてくださったのに、わたしこそ何とお礼を申し上げればいいのか……!」
カミラは恐縮しきっている様子だったが、その目には感謝の気持ちが溢れている。エリシアはふと、彼女の純粋さを前にして、ゲームの中で彼女を嫌っていた自分を思い出した。
(本当にこの子が悪いわけじゃないのよね。嫌がらせなんてしてたゲームのエリシア、どうかしてるわ。)
心の中でそう反省しながら、エリシアは彼女に微笑みかけた。
「ところで、こんなところで何をされていたのですか?」
「今日は王宮で行われるお茶会の手伝いに来ていたのです。ですが、途中で花壇のお花が気になって……」
カミラはそう説明し、少し恥ずかしそうに頬を赤らめた。どうやら、王宮の庭園に咲く花々に見惚れていた最中に、花瓶の落下事故に遭遇したらしい。
「ふふ、カミラ様らしいですわね。」
「えっ?」
エリシアの言葉にカミラが戸惑う。エリシアは、ついゲームの知識から出た発言を取り繕うように続けた。
「お花が好きな方って、心がとても優しいのだと聞いたことがありますの。カミラ様も、きっとそういう方なのでしょう。」
「そ、そんな……」
カミラは顔を赤らめ、何かを言おうと口を開きかけたが、足元から聞こえる音に気を取られた。二人が視線を落とすと、先ほどの花瓶が砕け散った破片がまだ散乱しているのが見えた。
「危ないですわ。ここは後で掃除をお願いしましょう。」
「はい……でも、エリシア様が怪我をしてしまったのでは……?」
カミラの視線がエリシアの足元に向かう。見ると、エリシアのドレスの裾にほんの少しだけ血が滲んでいるのが見えた。どうやら、破片の一部が刺さってしまったようだ。
「これくらい、大したことはありませんわ。」
エリシアはさらりと言い放ち、破片を足から抜き取った。その無造作な行動にカミラはさらに驚き、同時に感激の色を浮かべた。
「エリシア様は、本当にお優しい方ですね……!」
「ふふ、そんなことはありませんわ。では、わたくしはこれで失礼いたします。」
エリシアはカミラに軽くお辞儀をし、立ち去ろうとする。しかし、カミラは慌ててエリシアの手を掴んだ。
「またお会いすることはできますか……?」
その言葉にエリシアは少しだけ考え込んだ。彼女はこの世界のヒロインだ。距離を置くべきかもしれない。だが、一方で、純粋なカミラを前にして拒絶することもできなかった。
「ええ、またいつでもお会いしましょう。」
エリシアがそう答えると、カミラの顔が明るくなった。
「ありがとうございます……!」
二人の間に新たな絆が芽生えた瞬間だった。それは、ゲームの運命を大きく変える最初の一歩になるとは、エリシアもカミラもまだ知らない。
セクション4: 第一の陰謀の発覚
エリシア・ローゼンベルクは、推し活に精を出しながらも、自分が転生した乙女ゲームのシナリオを完全に忘れていたわけではなかった。彼女の頭の片隅には、いつも「追放エンド」という不吉な未来がちらついている。
(推しの幸せを守るためにも、まず自分の立場を確固たるものにしないといけないわ……でも、あの追放エンドだけは絶対に避けたい!)
そんな決意を胸に、エリシアは伯爵家の執務室で書類の整理を進めていた。これも、推しであるエイドリアンが快適に働ける環境を整えるための活動の一環だ。
「エリシア様、お茶をお持ちしました。」
執事が静かに部屋に入ってきて、丁寧にお茶を机の上に置いた。エリシアは手を止めて、軽く微笑みながらお礼を言う。
「ありがとう。少し休憩にしようかしら。」
エリシアがカップを手に取ったその時、執事が一枚の封筒を机の上に置いた。
「それと、こちらが本日届いたお手紙でございます。」
「手紙?」
エリシアは眉をひそめた。封筒には伯爵家の紋章ではなく、どこか見慣れない印が押されている。
「差出人は……?」
「申し訳ありませんが、不明でございます。ただ、急を要する内容のように思われます。」
執事の言葉に促されるように、エリシアは封筒を開封した。中には、簡潔に書かれた一通の手紙が入っていた。
> 『ローゼンベルク伯爵令嬢エリシア様へ。
あなたが王宮で行っている活動に関して、ある計画が進行中であることをお知らせいたします。近々、あなたに大きな試練が訪れるでしょう。――匿名より』
「……計画?」
エリシアは目を細めて手紙を見つめた。この手紙が意味することが何なのかはっきりとは分からないが、ただの悪戯にしては内容が具体的すぎる。
(王宮での活動……もしかして、私が騎士団の環境改善に乗り出していることが関係しているのかしら?)
推しのための活動が、思わぬ敵意を生む結果となっている可能性にエリシアは気づいた。しかし、誰が敵で、どのような危険が迫っているのかまでは掴めない。
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その日の午後、エリシアは王宮に向かった。何か手がかりがないかと、彼女は執務室での一連の出来事を思い返していた。
(こういう時こそ、情報を集めないとね。まずは、あの手紙の意味を知ることが優先よ。)
広大な宮殿を歩きながら、彼女は周囲の視線を感じていた。貴族の間では、エリシアが騎士団支援を熱心に行っていることが話題になっていたのだ。中には、その行動を批判的に見る者も少なくない。
「ローゼンベルク伯爵令嬢、また騎士団のことで奔走しているようですね。」
「ええ。まるで自分が王室の一員であるかのように振る舞っていますわ。」
廊下の影から聞こえてくる噂話に、エリシアは思わず足を止めた。
(やっぱり……私の行動が一部の貴族たちにとって目障りになっているのね。)
エリシアは表情を崩さず、そのまま歩き続けた。だが、彼女の心には警戒心が芽生えていた。
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夕方、エリシアは騎士団の訓練場を訪れた。そこでは、推しであるエイドリアン・グランディスが訓練を指導している姿があった。彼の鋭い眼差しと的確な指示は、訓練生たちを奮い立たせていた。
「エイドリアン様、お時間をいただけますか?」
訓練が終わった後、エリシアは彼に声をかけた。エイドリアンは振り返り、静かに頷く。
「何かご用ですか、ローゼンベルク伯爵令嬢。」
エリシアは周囲に人がいないことを確認すると、低い声で切り出した。
「実は、最近妙な手紙を受け取ったのです。匿名のもので、何らかの計画が私に関わっていると書かれていました。」
エイドリアンは一瞬驚いたような表情を見せたが、すぐに真剣な眼差しになった。
「それは穏やかではありませんね。具体的に、どのような計画だと?」
「詳しくは書かれていません。ただ、『大きな試練が訪れる』と。」
エリシアの言葉に、エイドリアンは少し考え込んだ。そして、決意を込めた声で答えた。
「もし何か危険があるのなら、私が全力でお守りします。」
その言葉に、エリシアの胸は高鳴った。しかし、それ以上に彼女は、この状況を正確に把握しなければならないという使命感に駆られていた。
(推しが守ってくれるなんて嬉しいけど、それだけでは解決にならないわ。敵の正体を突き止めて、先手を打つ必要がある。)
「ありがとうございます、エイドリアン様。でも、私もできる限りのことをしますわ。」
エリシアの決意に、エイドリアンは頷いた。その眼差しには、彼女への信頼が感じられた。
、エリシアは手紙の差出人を探るための調査を開始する。彼女の推し活は、新たな試練と陰謀を巻き込みながら、さらに深い段階へと進んでいくのだった。
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