呉葉の事務所から戻った夜、さやかは自室で小さな箱を開いた。
それは桜色の和紙が花びらのように表面を彩る、さやかの母のお手製の箱だった。子どもの頃のさやかはお菓子をもらうと必ずその箱に入れて取っておいて、母と一緒に食べようと約束をしていた。
さやかの楽しみは叶わないときがほとんどだった。母もさやかも体が弱くて、母の体調が悪いときはお菓子のことなど言えなかったし、さやかが体調の悪い間は、母は自分の食さえ細ってしまう人だった。
……でもほんの数回だけ、おいしいねと内緒話のように笑って、母と二人だけでお菓子を食べた。その時間は、さやかにとって母とのかけがえのない思い出だ。
「落雁?」
義兄はひょいと横から顔をのぞかせて、さやかの手元の箱を見下ろした。さやかは淡く笑って、義兄に返す。
「くれはにもらったの。兄さんと一緒にどうぞって」
「さっちゃん、それ好きだもんね」
「うん。雪みたいに一瞬で溶けちゃうけど、甘くてだいすき」
さやかは手のひらに乗せた落雁を見下ろしてうなずく。
義兄に面倒を見られて、守られて過ごしたさやかは、今では大学に通うこともできるくらいに元気になった。義兄と一緒にいろいろなところに出かけて、いろいろなお菓子を楽しむようにもなった。
さやかはふと目をかげらせて、迷い子のような声音でつぶやく。
「……お母さん、お菓子食べてるかな。独りじゃ、ないかな」
義兄はそれを聞いて、さやかの隣の椅子に腰を下ろす。
さやかは小さな砂糖菓子を桜色の箱に入れ直すと、ぽつぽつと言う。
「お母さんは本邸に移って一年経つし、きっとだいぶ馴染んでる……よね。お義父さんも使用人もいっぱいついてるんだから、体だって……心配ないはず」
義兄が無言でさやかの声に耳を傾けている気配を感じながら、さやかは言葉を続ける。
「私は今……幸せ。大好きなお兄ちゃんと毎日一緒でいられるもの。……でも、幸せでいいのかな。お母さんは私を守るために、いろんな犠牲を払ってきたのに」
「さっちゃん」
ふいに義兄はさやかを抱き上げて、自分の膝に乗せる。さやかの背を腕で包みながら、義兄はさやかに問いかけた。
「会いたい? お母さんと」
さやかはとっさに首を横に振った。自分の子どもじみた言葉が恥ずかしかった。
「ご、ごめんなさい。私はもう大人なのに。お母さんのお義父さんとの生活を、邪魔しちゃだめだよね」
「父さんがさっちゃんを人質にして、ずっとお母さんの自由を奪ってきたのは本当のことだよ」
義兄は目を細めて思い出すように言う。
「さっちゃんがまだ小さい頃、お母さんは何度か屋敷から逃げようとしたんだ。でもさっちゃんを連れて遠くまでは逃げられなかった。父さんは言ったよ。「次逃げたら二度とさやかと会わせないが、どうする?」と」
さやかは飛来した哀しみにうつむく。さやかにもその記憶があったからだった。
さやかがまだ幼い頃、恐ろしい家業を持つ男に囲われた母の、唯一の心のよりどころはさやかだった。たぶん母にとってさやかは桜色の箱のように大切な宝物だっただろうし、さやかにとっての母も、秘密を共有する友だちのような人だった。
義兄は気落ちしたさやかの背中をさすって、さやかの顔をのぞきこみながら続ける。
「でもね、俺はさっちゃんがこの家に来てくれて、舞い上がるくらいにうれしかった。さっちゃんと会えた日は、俺の人生で最初の記念日だった」
「うん……。私も、お兄ちゃんと会えたから、今こうして幸せでいるの」
「俺も今幸せだよ。だから、さっちゃんのために何でもしてあげたいんだ」
さやかが顔を上げると、義兄の優しい目と目が合った。義兄は目を合わせたさやかを喜ぶように、そっとさやかの頬を撫でて言う。
「さっちゃんの心配事は、解消してあげたい。……父さんに、さっちゃんとお母さんを会わせるように頼んでみよう」
「で、でも」
さやかは口ごもって、首を横に振る。義兄に迷惑をかけると思ったからだった。
「大学生にもなってお母さんとお菓子を食べたいなんて、お義父さんはきっと呆れちゃう。お兄ちゃんも、お義父さんに怒られるかもしれないし」
「なに、俺は父さんに怒られるのは慣れてるよ。大丈夫、昔ほど父さんに嫌われてはいないから」
義兄は気安く笑って、目配せするようにさやかを見る。
「さっちゃんがお母さんを大事に思ってるのは、父さんもわかってるよ。お母さんが心穏やかでいるのに、自分と二人だけの関係じゃ駄目なことも。何より……俺はさっちゃんに、笑って過ごしてほしいんだ」
義兄は桜色の箱に目を移して、さやかに問う。
「一つもらっていい? いつもみたいにさっちゃんの幸せ、俺と共有させて?」
「うん……」
さやかははにかんで、落雁の包みを一つ手に取った。包みをほどいて、義兄の口元に落雁を運ぶ。
義兄はさやかの指先に軽く口づけて、落雁を口に入れた。
義兄はふふっと笑って言う。
「おいしい。さっちゃんがくれたものは、何でも」
それはいつからか始まった、幸せの二人占めの儀式だった。