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21 若頭と小鳥の作られた平穏

 さやかは母がこの家に来た経緯を詳しく知らないが、母はとても美しく、弱い人であったらしい。

 ふわふわの柔らかい髪、澄んだ色素の薄い目、色白で華奢な手足という体に、浮世離れした柔くあどけない魂が入っていた。そんな少女は、ある日突然裏社会の男に見初められた。

 母は病弱で、繊細な心の持ち主だった。そんな母には、夫がいながら裏社会の男に奪われ、囲われるという生活が耐えられなかった。

 さやかが幼い頃の母は、さやかの前では無理に笑っていた。けれど一人になると、子どものように泣いていたのをさやかは知っている。

 元々、さやかを産んだのも、その弱い体では難しいと言われていたそうだ。自分と同じようにこの家の余所者で、病弱なさやかを、母はいつも守ろうとしてくれた。

 けれど次第に食事も覚束なくなった母に……裏社会の医師たちとつながりがある義父は、「治療」を始めたらしい。

 さやかが部屋に入ったとき、義父は母を腕に抱いて、子どもをあやすように話しかけていた。

「ひなこ、お姉さんは泣いたらだめだろう? さやかにお菓子をあげるんだものな?」

 ……今の母はまるで義父が親鳥であるかのように、安心しきって包まれている。

 母は子どものように鼻を赤くして、こくんとうなずく。

「うん……。さっちゃんは小さくて、お菓子が好きなの……」

 義父が母に施したのは、ある種の洗脳であったらしい。

 今の母はいろんな辛い記憶を意識下に押さえつけられていて、心が子どもの頃に還っているのだそうだ。

 母は義父の腕から下ろしてもらうと、あじさいの描かれた箱を持ってとことことさやかに歩み寄る。

 さやかが戸惑っていると、母は満面の笑顔で言った。

「はい! さっちゃん、これ好きでしょう?」

 母が差し出したのは、さやかが小さい頃大好きだったひよこのクッキーだった。

 さやかが本当に幼い頃は食べられるものも少なく、お菓子もそのひよこのクッキーくらいしか口に入れなかった。

 時々、さやかは大声で泣きたくなる。

 ……母はたくさんの記憶を失ったのに、さやかと二人だけの記憶はいくつも覚えているから。

 さやかはちゃんと笑えているか自信がなかったが、今は自分より背が低くなってしまった母の手から両手でクッキーを受け取る。

「ありがとう。大事に、食べるね」

 さやかの言葉に、母は子どもが喜ぶようにきゃっきゃと笑った。

 義父のしたことは、許されないことなのかもしれない。……でも今の母は、さやかが子どもの頃よりずっと心穏やかでいるように見える。少なくとも何かに怯える様子もなく、笑っていてくれるのだから。

 さやかは持ってきた折り紙を取り出すと、母の前で広げて言う。

「ひなこさん、さやかと折り紙しよう? 教えてほしいの。ひなこさん、上手だから」

 今の母は、さやかは自分の産んだ子どもだということさえ理解できない。だからさやかも、母が仲のいいお姉さんであるように話しかける。

「うん、いいよ!」

 さやかがそう誘うと、母は嬉しそうにうなずいた。

 それから、母はじゅうたんの上で寝そべって、わくわくと折り紙を作っていた。さやかは母の近くに座って折り紙を教わって、少し離れたところの椅子から義父がそれを見守っていた。

 母とさやかは、もう親子としては形になっていない。でも母とまだつながっていられる。そう思うと、さやかはこの状況を作った義父を憎む気持ちにはなれないのだった。

 一時間ほどそうして母と遊んでいただろうか。ふいに母が何気なくさやかに話しかけた。

「さっちゃん、学校に行かなくたって大丈夫だからね」

 さやかが母をみつめ返すと、母は和らいだ表情でうなずく。

「このおうちの人はみんな優しいよ。学校が怖かったら、さっちゃんもおいで?」

 義父は母を大切に扱ってくれているらしい。母の言葉からそれを察して、さやかは淡く笑った。

「ううん……私は大丈夫なの。今は学校、楽しいよ」

「すごい。さっちゃん、おとなだね!」

 母はまたきゃっきゃと笑って、さやかの両手をぎゅっと握った。

 さやかははにかんで、母に言葉を返す。

「お兄ちゃんがいるから、大丈夫なの。ほら、会ったことがあるでしょう? お洒落で綺麗な顔立ちをした……優しい、お兄ちゃん」

「「お兄ちゃん」……?」

 母はふと難しい顔をして黙る。

 言ってしまってから、さやかは母に兄がいたかどうか不安になった。

 さやかの不安は当たった。母は蒼白になって震えていた。

 異変に気付いた義父が椅子を立って、母に歩み寄る。

「ひなこ? どうした、さやかがいじめたか?」

 母は怯えた様子で、義父が差し伸べた手を瞬間的に振り払った。

「……いや!」

 義父が鋭い目をしたのは一瞬で、彼は素早く母との間合いを詰めると、元のように母を抱き上げていた。

「え……う……!」

 母は暴れようとしたが、義父は慣れた様子で母を腕の中に封じ込めていた。

 義父は声を和らげて母に話しかける。

「そうだ、ひなこに兄はいない。ひなこをいじめた兄は、俺が遠ざけてやったものな?」

 義父はまだ震えている母を抱き寄せて、その髪に頬を寄せる。

「ひなこ。……ひなこ。なんて可愛いんだろう。ずっと俺だけのものだ」

 その言葉はさやかにも聞き覚えがあった。さやかを子どもの頃から包んでいた、義兄の言葉そのものだったからだった。

 義父は頑丈な檻のような腕ですっぽりと母を包んでしまうと、優しく、けれど一種の命令として、母に言って聞かせる。

「愛しているよ、ひなこ。お前が全部を忘れても……どこにもやらないからな」

 義父は母を抱いたままさやかに振り向く。

 さやかは義父の意図を察してうなずくと、立ち上がった。

「ひなこさん、今日はここまで。また来るね」

 ……もしかしたら次会う時には、母はさやかのことさえ忘れているかもしれない。

 そんな哀しさは胸にあるけれど、昔のように、母が壊れそうだった頃に戻ってほしくもない。

「元気で。体を大事に。それだけでいいの」

 正常が母にとって辛いなら、そのままで構わないから。

 さやかはぺこりと頭を下げて、義父の家を後にして帰路についたのだった。

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